上宮河内愛宕館(常陸太田市上宮河内町)
2012年12月9日、50stormさんの案内で行った城である。
何と文献の記述から見当をつけて探しあてたというのだ。
上宮河内は何と読むのか戸惑うが、素直に「カミミヤカワウチ」と読む。


↑ 西の麓から見た館跡の山

金砂山城である西金砂神社に至る道筋には赤土道には「赤土圷館」、天下野道には「天下野館」などの監視のための出城のような性格の館があるが、上宮河内道の監視のための館がこの館である。

場所は浅川沿いの「金砂の湯」の北方600mにある標高235mの山である。
「金砂の湯」の標高が100mなので比高は135mほどである。

館には西側から延びる道を行く。
山の中腹にも民家があり、かろうじて車も通れる。
できれば軽自動車がベストだろう。
しかし、よくこんな山深いところにも住むものである。

館は道の終点から歩くが、山上は愛宕神社があり、そこが主郭。その参道を行けばよい。

館のある山は南北に延びた形をしており、南側から参道が付く、山頂直下付近に人工的な切岸、平坦地が確認される。
山頂部は岩山の上にある。高さ5mほどの巨岩が垂直に切り立っており壮観であり、岩屋のようになった岩もある。

東日本大震災により、いくつかの岩が崩壊しており恐ろしい状態である。
主郭部は南北40mほどの「ひょうたん型」中央部が鞍部上になっている。

@南西端の鞍部から見た尾根筋 A 山頂直下の曲輪 B 山頂部の巨岩、この上が本郭
C 本郭南側、岩の上である。 D本郭北側には土塁に囲まれた祠が。 E北に続く尾根筋にある二重堀切

南側は巨岩の真上である。北に尾根が続き、3段の腰曲輪の下に二重堀切があるが、規模は小さく埋もれている。
さらに15mほど先に堀切が1本ある。また、西側にも帯曲輪が確認できる。

規模としては長さ100m程度のものにすぎなく、監視のための城程度のである。
時代的には南北朝時代の瓜連合戦または山入の乱のころのものと推定される。


赤土圷館(常陸太田市(旧金砂郷町)赤土)
旧金砂郷町の赤土地区にある天満宮がある山が館跡である。
ここから北に向かう道は金砂神社、すなわち金砂山城に続いており、登城路の1つ「赤土道」である。
ここは金砂山城の出城であり、南2kmに位置する。規模からして物見の城、狼煙台である。

金砂山城には北から天下野道、諸沢道、南西から宮河内道が延びており、各道沿いに物見の城があったものと思われる。
天下野館やこの赤土圷館もその1つであり、諸沢道沿い、宮河内道沿いの山にも城が存在していた可能性がある。
その赤土圷館、城とは言え、まさに物見台、狼煙台程度のものである。



↑は南から見た館跡の山である。
@主郭部に建つ天満宮 A背後の尾根を遮断する二重堀切一重目 B背後の尾根を遮断する二重堀切二重目

尾根続きに堀切りがなければ、城館とは分からないかもしれない。
館には金砂郵便局前の県道29号線を500m東に進み、金砂神社方面に曲がって1kmほど進む。
すると右手に天満宮の鳥居が見える。
後は天満宮の参道を行けばよいのであるが、天満宮のある山、これが結構、急勾配である。
山は麓からは90m程度の比高がある。参道は山頂直下で石段となるが、一気に40mほどを上ることになる。
この石段、見上げると怖いし、登るのも怖い。

石段も震災の影響だろうか歪んでおり、水平であるべき面が斜めになっている場所が多い。
とても雨上がりの日では登るのは無理。そのため、這いつくばって登った。
でも、下りの方がはるかに怖かった。

途中に平坦な場所があるが、これは曲輪の跡だろうか。
天満宮の地@は30m×15m程度の狭い平坦地である。ここが主郭である。
南側と東側に曲輪がある。
天満宮から8mほど下、尾根続きの北東側には小さな曲輪2つを介して土橋があり、その両側に竪堀が下る。
その東側は帯曲輪または犬走りが続き、主郭の東側に回りこむ。
土橋の先の尾根に二重堀切ABがあり、ここが館の末端である。
たったこれだけのものである。
二重堀切があったので城館と認識できる程度のものに過ぎない。

金砂山城が舞台となった南北朝期の戦い「瓜連合戦」や山入の乱当時に使われた可能性があり、佐竹氏の支配が安定していた戦国末期には使用されていなかったであろう。
平安末期の源頼朝が佐竹氏を攻めた「金砂合戦」には使われてはいないとは思うが。

Pの遺跡侵攻記を参考にした。

大里荒谷城(常陸太田市(旧金砂郷町大里)
県道166号を久米方面から南下すると、道路東の岡にNTTの携帯電話の電波塔がある。
この場所が御陣屋城の跡というが、ここには明確な城遺構は見られない。
この塔の北東350mに稲荷神社があり、この付近が大里荒谷城の中心部分という。

この城のある場所は南東側に半島状に突き出た岡であり、北と南が谷津状になっている。
標高は神社の位置で55m、東の低地が15mなので比高は40mあるが、神社の南側、西側は平坦な岡の住宅地であり、そんな要害性は感じない。
比高も精々10m程度である。

稲荷神社の地は南側の宅地から7mほどの高さがある。
神社付近は1辺70mほどの三角形であり、内部は結構凸凹しており、整地された感じではない。
城郭遺構としては、神社の西側と東側に堀切があるだけである。

西側の堀切に面して土塁があり、堀は深さは4m、長さは20mほどあり、しっかりしたものである。
これは城郭遺構に違いないものと考えられる。現在は通路として使われている。
東側の堀切はほとんど藪状態。
その東に墓地があり、その先にも堀切がある。それより東の尾根筋はただの山である。
結局、神社周辺のみが主郭部と言えそうであるが、その南側の宅地も居館の地であり、城域であろう。

その外側を囲むように堀が存在していた可能性もある。(道路が堀跡ではないかと思う。)
この城についての記録はないが、おそらく、佐竹氏家臣の館跡ではないかと想像される。
主郭と思われる肝心の神社境内にはまったく整地された形成がない。
第一、ここに郭を設けても防衛上、ほとんど役にも立ちそうにない。
当時から神社があり、ここは単なる氏神を祀った精神的な空間であり、明確に残る堀は神域を守る堀だったようにも思える。
西にある宇留野城の本郭に建つ日向神社も似たような感じである。

@主郭西側の堀切に面した土塁 A主郭西側の堀切 B主郭南側の切岸。民家の地が居館跡か?

Pの遺跡侵攻記 を参考にした。)

高柿城(常陸太田市(旧金砂郷町)高柿)

 久米城の西1km山田川の低地を挟んだ向かいの台地上にある。
台地の西斜面下には金砂郷支所がある。
台地の比高は20m程度であるが斜面の勾配は比較的緩やかであり、要害性は感じられない。
以前のHPでの記述は次のように書いていた。
 『現在は丘の上に高さ2m、長さ30m程度の土塁が見られるのみであり、これが唯一確認できる城の遺構。他はコンクリート工場の敷地、畑、民家となっている。
 「奥七郡の城郭址と佐竹四百七十年史」掲載の図から再現した鳥瞰図を右に示すが、本郭は周囲に土塁を巡らした80m四方であり、大手は南側に開いており、本郭とは堀底で連絡していたようである。
また、東側、北側にも虎口が開いていたようである。 本郭の北、西、南に郭があり、南側の斜面に曲輪があったという。
城と言うよりは大型の館という感じである。』
 2007年1月21日にこの城を再調査してみた。あの唯一と思われる土塁が目立つのであるが、果たして他に遺構は残存していないのであろうか?
主要部はコンクリート製品工場の敷地となって隠滅しているが、斜面部などに遺構が残っている可能性があるので、斜面部を中心に調べた。
調査結果から描いた図が下の図である。
さすがに腰曲輪程度しか確認できなかったが、土塁の東側の谷津部に3段からなる曲輪Uが確認できた。
切岸は明瞭に残っている。どうもこの谷津筋が東虎口に通じるようである。
この谷津沿いの曲輪Uの南側に東に突き出た平坦地がある。ここを曲輪Tとするが、城郭遺構と見て差し支えないだろう。この曲輪T、Uの西側が 「奥七郡の城郭址と佐竹四百七十年史」掲載の図でいう大手道跡のようである。
したがって、残存している土塁は南側にあった櫓台の土塁のようにやや大きく描かれている土塁のようである。この土塁の南側には堀底道を兼ねた堀があり、西側に延びていたことになる。
東側には土塁と堀があったらしいが、その痕跡はない。
工場の用地を造成するために破壊され、埋められたものと思われる。
今度は、工場の西側に回ってみる。そこまでは工場の北側を通ったのだが、ここが堤防状に高くなっており、土塁であった感じである。この土塁ぎりぎりに工場の敷地があるようである。
工場の西側は杉が植えられた平坦地である。ここも曲輪と見て良いであろう。(曲輪V)
この曲輪の北側には、横堀または土塁を前面に持つ帯曲輪が一段下にある。ただし、結構埋没しており、よく確認できない。
曲輪Vの西側はだらだらした下り道であり、ここが西虎口であろう。
現在の北に降りる道は、当時の道を利用したものではないかと思われる。
以前の記述どおり、どうしてもこの城には要害性を求めることは難しい。
平地城館よりは要害性が優れる大型の居館と考えるが妥当であろう。

この城は、室町時代の初頭、永和年間(1375〜1378)大掾氏の流れを組む山本忠幹が築城したという。
山本氏は3〜4代で絶えた後、国安城の山入氏との抗争に敗れ戦死した松平久高の子、康信が松平城を追われてここに移り住み、高柿氏を称したという。
 その2代後の信久は軍功により松平城に復帰し、城は久高の次男信横の子康高が居城したという。
永正3年(1506)康高は山入の乱において国安城を攻撃中に戦死し、城主不在となった城は廃城になったという。
120〜130年の間、城として機能していたことになる。


すなわち、戦国時代の前半に機能を終えた城ということであり、僅かに残る遺構も戦国後期の高度なものは見られなく、記録と遺構は良く一致すると思える。
本郭南側の土塁。舗装された場所は堀
であったと思われる。
城址東側 東の虎口付近。ここを登ると
曲輪Uに至る。 
本郭南側の曲輪
曲輪T内部。 曲輪U。切岸の段差が明瞭である。 曲輪V内部。非常に平坦な場所である

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