川崎向館滝山遺構(36.5920、140.3117)
『茨城県遺跡地図』では川崎向城を滝山から南東に派生した標高150mの部分(36.5915,140.3130)としている。
確かにその場所には段々となった曲輪があるが、メリハリはない。
←F滝山に繋がる鞍部、この先に遺構はないことになっていたのだが
その場所と北西の滝山は鞍部でつながっているが、この方面にも遺構らしいものがあるとの情報が2022年初頭にもたらされた。
そのため再調査すると山頂部は平場であったが、北側及び北東側に下る広い尾根に遺構が確認できた。

山頂部の主郭@は南北約30m、東西約20mの広さで、北側が若干高い。
東下に帯曲輪があり、さらにその下に犬走りがある。

主郭北下には迎撃陣地のような土塁で囲まれた曲輪Aがあるが、ここは桝形であり、東から入ったようである。
その北下は堀があり、緩斜面が東に続く。

その北東側に緩やかに下る土塁と横堀BCが2本確認できる。
この堀の長さは約50mであるが、深さは1m程度と浅い。
←右下部分が次の記事に書いた従来の川崎向館です。
斜面には曲輪が数段ある。
さらに北下に帯曲輪DEが2本あり坂虎口が開く。

@滝山山頂は平坦だった。小竹が密集して歩きにくい。 A主郭の北下に桝形がある。 B北側を東に下る横堀の1本目。埋没は進んでいる。

概して曲輪の整地は不十分である。
風化埋没が進んでいる面もあるが、もともとそれほどしっかりと造っていないような感じである。
この山は北側の勾配が緩やかであり、攻める場合は北側が弱点となる。
そのため、この方面に横堀を2本構築する等、防御を強化したものと思われる。

C横堀の2本目 DCの横堀の北下には帯曲輪がある。 E Dの帯曲輪の北下に更に帯曲輪がある。ここが城北端。

この城は川崎城(下小瀬館)を攻めるための陣城という説もあり、陣城のような臨時の城であれば、この程度の工事量でも不思議ではないであろう。
陣城とすれば天文4年(1535)、部垂の乱で佐竹義元側に付いた小瀬氏を佐竹義篤が攻め、川崎城が落城するが、その時の佐竹義篤側が使った可能性がある。

いずれにせよ、滝山も城域であり、遺跡地図における川崎向館はより範囲を拡大する必要がある。
なお「滝山」は「館(たて)山」の訛りであろう。
この滝山山頂部が本郭であり、従来、城域と言われている南東側の遺構は兵員の駐屯地、宿営地であろう。


下の記事が従来の川崎向館の記事です。
川崎向館(常陸大宮市下小瀬)

旧緒川村中心部の支所がある上小瀬地区から緒川の下流、御前山方面に約1.5q下小瀬地区、緒川の東の崖上に川崎城がある。
向館は川崎城の緒川を挟んだ対岸約500mの標高150m、比高100mの山にある。
↓は川崎城西下の緒川が流れる平地から見上げた館のある山である。

この山、東西2つのピークがあり、緒川の谷に面した東側のピークが城址である。
山の西側はアザレアCCである。南側から登る道があり、そこを登って行けば城址である。
しかし、果たしてここが城と言えるかどうか、極めて微妙である。
城と判断する材料としては堀切や平坦化した曲輪等、人の手が入った構築物の存在があるが、稀にほとんど自然地形でも城としている場合もある。

@山頂部は平坦で広いが・・ただ、それだけ。 A井戸跡のような窪みがあるが・・・

この館について言えば、人工的な段々になった曲輪と思える部分、井戸跡のようなものもあるが、それが城郭としての構築物と断言できるほどものとも思えなかった。
この山の山上部は40m四方ほどの広さがあり、比較的平坦であり、緊急時の避難場所として想定することは可能である。

それに川崎城が眼下に望める立地であり、向館としての立地条件も満足する。
↑は館のふもとから見た川崎城である。
しかし、遺構が曖昧であり、本当にここが城郭であったかは分らない。

河内向館(常陸大宮市鷲子)
参考:余湖くんのホームページ

茨城県と栃木県の県境近く、常陸大宮市鷲子にある河内城の南東500m、緒川が流れ、国道293号線が通る谷の南側の山にある。
河内城の出城であり、主城である河内城の防衛用の城であるとともに、両城でこの谷の交通を抑えていたものと思われる。
しかし、城と言っても自然の山に若干手を入れただけの簡素なものである。
人によっては、城と認識することもできないかもしれない。
自然の山としか見えない可能性もある。そこは是非、自分の目でご確認いただくしかない。

@最北端部の平坦地、物見小屋があったかも。
A北中腹の腰曲輪
B尾根筋南側のピーク、木戸があったのか。 CB南側の土橋状の尾根。人工物か? D最南端部のピーク、ここにも何かあったのでは?

・・でも、わざわざ行くだけの労力も無駄と言えば無駄とも思える。
やはり、ビョーニンの対処療法用の物件だろう。

先端部下に携帯電話の電波塔が建っているのが目印であり、そこから山に直登ればすぐ城址である。
麓部の標高が210m、尾根先端部の標高が270mなので比高は約60m程度、ちょろいものである。
しかし、「すぐ」ではあるが、もちろん道はない。
しかも斜面には野ばらが各所に生えており、とても登れるものではない。
斜面に逆茂木が置かれているのである。多分、当時もそのような状態だったのかもしれない。

この山、山の中腹には重機で道が付けられている。
石取用の道のようでもあるが、すでに一部崩壊状態である。
この道を山の西側から南に迂回し、谷になっている部分から山の尾根に登る。

このルートは若干遠回りであるが、登るのは簡単。
野ばらもない。尾根に出たら、尾根を城郭遺構のある北側に150mほど進めば良い。
尾根上にはピークが3か所ほどあり、おそらくそれらのピークに木戸か何かが存在したと思われる。
この尾根筋がこの城で一番弱い部分である。しかし、堀切は確認できない。

一番北側の標高272mのピークBの南側の尾根は土橋状Cになり、西側は竪堀状になっているが、これが人工のものか、自然の崩落によるものか判断はできない。
この最後のピークの北側は幅2mほどの平坦な尾根が50mほど続き、先端部が三角点がある径10mほどの平坦地@になっている。
ここが主要部であるが、それだけのものに過ぎない。
ここに物見台程度の小屋があったのであろうか。
そしてその下12mに三日月状の帯曲輪Aが2段確認される。
結局、遺構はこれだけに過ぎない。
しかし、ここは斜面が急な山、尾根筋さえ守ればそれなりの守備が可能である。
極めてコストパフォーマンスは高い。
篭れる人員は20、30人程度だろう。
しかし、たったこれだけの人数が篭っただけでもここを無視して、谷筋を進むことは困難だろう。

もう1つの河内向館(常陸大宮市鷲子)
河内向館はなんともう1つあった。
以前記事にした館の西500m、主城の河内城から緒川と国道239号線が通る谷の反対側、南に300mの場所である。
地元はここを「向館」と言っているそうである。

前に取り上げた向館も人によっては、城と認識することもできなく、自然の山としか見えない可能性もある極めて懐疑的な物件である。
ほとんど自然地形でも城にはなり得る物件であった。

今回紹介するもう1つの向館、こっちも簡易な物件である。
谷に面した部分だけ鋭い切岸を構築し、腰曲輪もちゃんとあるけど、曲輪内はだらだらとした緩斜面、背後に続く山には堀切も何もなし。
尾根先端に平場を設け、切岸を鋭く@、Dしただけのものである。
人工度は前に紹介した物件よりは高いが、背後をまったく警戒していない点では、あくまで物見の場所であり、攻められたら逃げるを原則にしたものである。

まったく同じ構造のものが、高部向館の東側の山にある。
ここも平場のみであり、背後の山続き部分には何もない。
本城から死角になる東方向の監視をカバーするためだけのものと思われる。

それでも麓は緒川が大きく蛇行して流れD、これが天然の水堀であり、背後の山もそう簡単に回り込めるようなものではなく、それなりに堅固なのかもしれない。

平場の標高は235m、緒川からの比高は約20mである。
@北東側から見上げた切岸。高さ10mほど。 Aこれが主郭の平場であるが、傾斜している。 B主郭西側下の腰曲輪
CBのさらに下の緒川に面した曲輪 D館西側で緒川が大きくカーブし、水堀の役目を果たす。 EBの腰曲輪と主郭を北下から見上げる。

内平場内部Aは江戸時代は畑であり、明治時代には人家があったという。
広さは約50m四方であるが、傾斜しているので使えるのは先端部分のみだろう。
2、3軒の小屋位は十分に建つスペースがある。

西側に低いが土塁跡があり、下5mに腰曲輪Bがきれいに残る。
平場や腰曲輪の前面には柵が巡らされていたのであろう。
主郭には小さな櫓くらいは建っており、本城とともに谷の両側から谷筋と谷にある根小屋地区を抑え、守るのが役目だろう。

しかし、河内城の周辺、向館が2つ、さらに北側には高沢城、高沢向館が並び、城郭が密集する要塞地帯である。
那須氏との境目の地区ということであろう。

下檜沢向館(常陸大宮市下檜沢)
参考:余湖くんのホームページ
茨城、栃木県境から流れ出る緒川は山地を縫うように流れ、那珂川に合流し、その川筋の谷が旧美和村、旧緒川村であるが、谷は狭く山は深い。
特に谷が狭まるのがするが、下檜沢地区でありここが一番、谷間を緒川が蛇行して流れる区間である。
この下檜沢地区の下檜沢城であるが、谷沿いに本城を始め、上檜沢城、氷の沢館、下檜沢館、高館城等、多くの城館が存在する。
これらは広い城もあるが、それほどの技巧的な城郭ではない。

おそらく避難用を兼ねた見通しの悪い谷沿いの狼煙リレー用の城ではなかったかと思われる。
この下檜沢向館もそのような城の1つであり、氷の沢館とは緒川の谷を隔てた東1q、下檜沢城からは南1.5q、高館城の北東2qに位置し、それら3城は山に木がなければ見える立地にある。

館には麓の「下郷ふるさとコミニュティセンター」前の山である。
←は南側、県道29号線沿いから見た館のある山である。
この山、谷に突き出たようにそびえ立つ迫力がある山である。

県道29号線を隔てて石段があり、そこを登れば墓地があり、その裏をひたすら登って行けば到達できる。しかし、ルートは簡単でも実はこの道、地獄である。
登り口から山頂までは水平距離で100mほどに過ぎない。
しかし、コミニュティセンターの標高110mに対し、山頂部は226m、比高は110m以上あるのである。
平均斜度は45度を超える。
この傾斜は「白羽要害」を上回り、とんでもない角度である。
⇒は登攀中に撮影した斜面である。45。近い傾斜が分かるであろう。
これが延々続くのである。

上から下を見下ろせば垂直に見えるくらいである。
登るのは木にしがみついて四つん這いで登る。息も絶え絶え状態となる。
(しかし、実際は下りの方が、怖いし、きつい。完全に足に来る。)
何とか登り切った山頂部はなだらかであるが、平坦ではない。
ほとんど自然地形である。
径は20m程度だろうか。
ここ@は物見兼狼煙台であろうか。

その東側が少し低くなり、9m下に幅4m、深さ1mほどの埋もれた堀切Aが1本ある。
これが唯一の城郭遺構である。

@ここが山頂部であるが平坦ではない。 A@の東の堀切、唯一の城郭遺構である。 BAの堀切東の平坦地、ここには小屋があったのか?

この堀切の東側にはほぼ自然地形の幅5mほどの比較的平坦な尾根が南にカーブしながら、徐々に高度を下げながら続いているだけである。
たったこれだけのものに過ぎなく、堀切がなければただの山に過ぎない。

疲労困憊してここまで来る人間はそれでもいることはいる。
管理人の知人にもいる。誰とは言わないが。
まさに「今日も元気に狂っている。」である。
「ああ、俺もその1人か?いや、俺は山岳筋トレだ。」・・って、言い訳を!
(追伸、この蛮行により、数日間左足のふくらはぎの筋肉痛に悩まされる。
そりゃ、こんな山を1日に5つほど登るんだもの自業自得ではあるが・・・。)