玄蕃山館と武平館(那珂市福田)

常磐自動車道那珂ICの直ぐ脇の杉林の中に玄蕃山館がある。
この館については、茨城県遺跡地図では、ICの南東側に場所がマーキングされている。
その場所に行ってみたところ、確かにかなり埋もれてしまっているが、ちゃんと堀や土塁が残っている。
このため以前のHP記事では、ここを玄蕃山館として紹介した。
この館については「那珂町史の研究 10号」でも取り上げている。
「この館からは、東に原坪館が望まれる」と書かれているので、IC南東側の遺構で間違いないと思っていた。
ただし、掲載されている図面に描かれている道が、この館の周囲の道と一致しないことは感じていた。
でも、ICの建設で道も付け替えもあり、変わってしまったのだろうと解釈していた。

ところが、「那珂町史の研究 10号」の記事に疑問を持たれた方がいる。
那珂市菅谷在住の城戸氏である。氏はこの記載に疑問を抱き、色々調べたそうである。
「那珂町史の研究 10号」掲載の図は、IC南東ではなく、そこから600m西側のIC北西側、「吽野(うんの)流通運輸」の事業所のある地を館跡としているという。
確かに現在の地図と見比べてみると、「那珂町史の研究 10号」掲載の図の道路と完全に一致しているのである。
それに聞き取りによると吽野流通運輸付近を「玄蕃山」と言うそうであり、館があったという伝承もあるそうである。
「那珂町史の研究 10号」の記事もよく読んでみると、館の立地に関する記述はIC南東側であるが、館自体の解説は北西側のようであり、混乱している感じがある。
IC南東側は地元では、「武平山」というのだそうである。
那珂市の平地城館群は大体、溜池を管理した館であり、付近に溜池がある(あった)はずである。
「吽野流通運輸」の東側、IC寄りに沼跡があり、今でも雨が降ると水が溜まるそうである。
それに「吽野流通運輸」の「吽野さん」って館主の姓ではないか。
こう考えれば、玄蕃山館はIC北西、「吽野流通運輸」の地ということになる。
じゃあ、IC南東の通説、玄蕃山館とされている遺構は何なんだ?

こんな疑問を提起したのが、Labyrinthsさんのブログ 記事であった。http://blogs.yahoo.co.jp/labyrinths2005/44593997.html
ここでは、那珂市の那珂IC近くにある玄蕃山館の位置がおかしいのではないか?とのことが書かれている。
始めは何のことだか分らず、勘違いしているんじゃないのという程度の感想を持った。
しかし、勘違いかどうかを確認するには机に座っていてではだめである。
そこで、2007年2月17日、labyrinthsさん、城戸氏、城戸氏の父上の4人で現地を確認することにした。

そして確認した結果「玄蕃山館は2つ存在した。」のであった。
というより、別々の館が2つ存在していたのである。

まず、IC南東の遺構を確認。
以前、見たとおりに堀と土塁がある。
堀は東の低地(水田)方向に延びており、用水路の役目を果たしていたことが分る。
ここまでは那珂市平地城館群の通常パターンである。
館は実測した結果、80m×65mの方形であったようである。
「あったようである。」というのは北東側に堀跡はあるが、土塁は無く非常に不明確なためである。
他の三方はちゃんと土塁と堀が取り巻いている。
ただしかなり風化しているようであり、土塁は低くなり、堀は埋没している。
ここも発掘したら「高野氏館」のように壮大な堀が出てくるのだろう。
興味深いのが東端部分である。
この部分は30m四方に区切られ、さらに土塁がある。
虎口のようなものや、井戸と思われる穴もある。
始めは厩ではないかとも思ったが、虎口や井戸があるのも不思議であり、南東側は二重土塁になっているようである。
したがって、ここは館主の居館、プライベートエリアではなかったかと思われる。
館内部は結構凸凹しているが、堀を掘った土で土塁を築くには不足し、館内も少し削ったためであろうか?
さて、この館から東側に水路が延びているが、そこに流す水はどこから来たのだろうか?
館の西側に水路が延び、南西側に「じく溜」と呼ばれる場所がある。
30m×50m位の大きさはあったのであろうか。
現在は単なる窪地であるが、雨が降ったら水は溜まるであろう。
この池の周囲には複雑な水路網がある。
館北西側の土塁と堀の跡 北西端の土塁と堀の跡 南端隅部の土塁と堀。この部分が一番良く残
っている。
井戸跡?と思われる穴。 館跡南側に位置する「じく溜」。 西側の杉林の中にある「じく溜」に通じる用水路跡。

しかし、この溜池は小さすぎ、広い水田に供給できるほどの十分な水量を貯水できるとは思えない。
湧いている水もあったはずであるが、それに加え、どこからか水を引いて来たに違いない。
この付近は藪で分らなかったが、ようやく西側に延びる水路跡を杉林の中に見つけることができた。
この水路は幅が3mほどありかなり大きい。
底は今でもじめじめしている。
この水路の先を辿ると、「吽野流通運輸」の東側、IC寄りにある沼跡に繋がるのである。

そこで今度は調査場所をIC北西に移動。
沼跡らしい場所を確認。南と西に杉が立ち並び区画されていたことが分る。内部はやはり窪んでおり、底はじめじめしている。
溜池跡と考えても良さそうである。
後で気付いたが、IC入口付近も窪んでおり、ここにあった溜池はそれなりの大きさがあったようである。
すなわちここの溜池から水を「じく溜」に流していたことになる。「じく溜」には調整池の役目があったものと思われる。
なお、この溜池には北側から流れ込む水路が残っていた。
さて、肝心の「吽野流通運輸」の地であるが、土盛りがされていてどうも隠滅しているのではないかと思っていたが、北隅の堀らしき場所を確認した。(右の写真)
土盛りされたと思われる側にかなりの巨木があり、どうもこの木は土塁上に植えられていたらしい。
土盛りは土塁で囲まれた内側を埋めるように行われたようである。このことからして、堀は間違いなく本物と判断した。
したがって、「那珂町史の研究 10号」掲載の図どおり、那珂IC北西、吽野流通運輸の地に館は存在していたのである。
地名からして、ここが「玄蕃山館」ということなのだろう。
館は91m×43mの大きさであり、吽野流通運輸の敷地の大きさにほぼ一致する。
(この大きさからして、IC南東の遺構の大きさとは一致しない。)
じゃあ、ICの南東側の遺構は何だろう。地名を採って「武平山館」(仮称)ととりあえずしておく。
つまり、同じ溜池に係わり2つの館が存在していたことになる。
どうも「武平山館」と「玄蕃山館」で1つの溜池を管理していたようである。
両館は那珂ICを挟んで繋がっていたのである。
おそらく、「武平山館」が親館、「玄蕃山館」が子館であり、本家、分家で1つの溜池を管理していたのではないだろうか。


右の図が今回の調査結果を基に描いてみた2つの館と溜池、用水路等の位置関係である。
両館のある微高地の東西にある低地の水田が両館の水利権範囲であったのであろう。
溜池の管理は玄蕃山館が行い、西側への給水も担っていたのであろう。
この溜池の水は、用水路で「じく溜」に引かれ、武平館でそこから東方向の水田、南方向の畑への給水を複雑な給水システムで制御していたのではないだろうか。

水府志料に、永禄年間、叶野(または海野)玄蓄という者が住むという記載がある。
彼は信州海野氏または大井氏の流れであるが、(海野氏と言う事は「真田氏」と同族。永禄年間にこの地に来たのなら、武田信玄の信濃侵略で故郷を追われてやって来たものであろうか)
信州よりこの地に来て館を構え叶野玄蓄と称し、佐竹義重に仕え、その子孫は天正18年、鴻巣に移り、佐竹氏の秋田移封後は帰農したと言う。
吽野姓は珍しいが、この地方には多く、子孫であろう。
(徳川光圀が、「海野」を「吽野」に替えさせたという。まさか、「海野」から徳川が煮え湯を飲まされた「真田」を連想した訳でもないとは思うが。)

それにしても信濃出身の一族が故郷から250kmも離れたこの地にやって来て、その館を信濃出身の管理人が調べるというのは不思議な因縁を感じる話である。

上に記述した館や溜池の関係等の考察の基は城戸氏の仮説によるものであることをここに明記します。

館とは関係ないが、那珂IC付近の山林内は完全にごみ捨て場である。
引越しで出たと思われる家庭ゴミから産業廃棄物から農家のゴミまで至るところに捨てられている。
道徳もへったくれもあったものではない。
これでは死体を捨てても不思議ではない。
今回の調査で死体を発見しなかったのは、誠にラッキーであったのかもしれない。

(縄張図の堀と土塁、水路は若干、太めに描いていますので、実際の寸法とは少し異なりますのでご了解を)