高内館(菅谷高内)

 菅谷東小学校の東200mの地点にある。
 東西南北約200m四方の2郭からなる輪郭式の館であり、ほぼ正方形をしていたらしい。
大型の館である。
 館の南側には水田が広がり、東側には池があった。
 内郭、外郭とも堀と土塁を持ち、一部2重堀となっていたようである。
 現在は西側の遺構は開梱や宅地化によって失われているが、土塁と堀は結構残っている。
しかも結構、立派なものである。
民家の敷地になっている所は良く管理されているが、東側は藪の状態であり、遺構は良く確認できない。

 館主は宮田氏と伝えられ、日立にある宮田城の5代目の弟がここに来て、館を造って居館し、後に佐竹氏に従って秋田に移ったと伝えられる。
 この館も東に池が隣接しており、館主は水利権を管理していたものと思われる。

(那珂町史の研究第12号参考)
@天王神社東側の堀は埋没している。 Aの土塁は道路からも見え2.5mほどの高さ Bの堀は深さ4m、幅9mほどある。
Cの土塁の両側は堀である。 D Cの土塁の南側の堀。規模はBと同。 E Dの堀は西側で南に湾曲する。

高内館現地説明会に参加
上記の記事は2000年1月に訪問した時の写真をもとに作成したものである。
それから18年、2018年2月4日、那珂市菅谷にある高内館の発掘調査に伴う町内住民向けの現地説明会に参加した。
町内住民向けと言うが、情報が拡散し予想より多い人が来ており50名以上はいた。
そのため、説明資料が不足し主催者を慌てさせた。

発掘と言うとだいたいは破壊を前提としたものである。残念ながらこの館の発掘も道路建設に伴うものである。
この道路は10年以上も前に計画されたものらしい。
新規の道路のルートであるが、立ち退き等、面倒な手続きが必要なため、できるだけ住宅のある場所を避け、田畑や林
になっている場所を通すように計画する。
その林がミソなのである。

ここ那珂市菅谷地区においては、林は平地城館跡である場合が多い。
この高内館を貫く道路、南を見ると林がありその方面に道路が延びる計画である。
その南に見える林が地天館跡なのである。
この菅谷地区、平地城館密集地帯であるが、最近では既に仲の房東館、中宿東館、小六内館、一関館、竹之内館が住宅地等となり湮滅、堀の内館もほとんど姿を残さず、それ以前に東風谷館、みの内館、東崎館等の湮滅してしまった城館も多く悲惨な状態にある。
何とか部分的であっても遺構が残っているのが、寄居城、中坪館、原坪館、鷺内館くらいである。
この高内館、どうやら完全湮滅はしないようであるが、宅地化の波は周辺に及び完全湮滅も時間の問題かもしれない。

この高内館であるが、佐竹氏家臣宮田氏の居館とされている。
館の東西にあった溜池の水を管理し、堀を水路兼用として水田開発、管理を行っていたと考えられている。
しかし、発掘の結果、これがどうも怪しいようである。

また、宮田氏は今の日立市宮田町にあった宮田城の城主であり佐竹家臣ではあったようであるが、ここに来たのは戦国時代ではなく、佐竹氏が秋田に移った後、常陸に残った一族が移ってきたものではないかとも言われている。
それなら戦国時代は?となると、どうもあやふやなようである。
江戸氏滅亡後、この地の領主、江戸氏家臣平野氏が没落したので、新領主として宮田氏が来たのかもしれない。
いずれにせよ江戸氏が健在な時期に宮田氏はいなかった可能性が高そうである。

主郭北側の堀D、右側が湾曲しているが、その先がE。
左側が土塁C
右側が土塁C、左が2重目の堀B

発掘調査結果からも定説を否定する可能性のある事実が出てきている。
まず、居住の事実を示す中世のカワラケ等の生活遺物が極めて少ないこと。
これは居館ではなかったかもしれないことを意味する。

それから現在、主郭と推定される場所の東と北にはL型に土塁と堀が残っており、南側にも痕跡がある。北西端では土塁と堀Eが南に折れた状態で止まっている。

このため、主郭西側にも堀と土塁が存在していたが、耕地化等で土塁を崩し堀は埋められたのではないかと考えられていた。

しかし、発掘の結果、堀は存在していたが、主郭側に土塁は存在していなかったとのことであった。

普通、居館なら主郭周囲を堀と土塁を1周させるのがセオリーなのであるが・・。

もしかしたら、主郭の西側の曲輪も主郭であり、堀は内部を区画していたものか、用水路が主郭内を横切っていた可能性もある。

この主郭北側に2重に土塁Cと堀B、Dが存在するが、深さは6m程度はあり予想以上に深かった。

この部分はかなり防御力が高そうであり戦闘的である。
しかし、北側以外には厳重な防御遺構があったような感じはない。
このことからこの遺構は北方向を強く意識していたように見える。
土塁もただ堀を掘った土を盛り上げただけで突き固めたような跡はないようである。
この方法は臨時築城に見られる短期間で施工する工法である。

堀Eを南側から見る。 堀Eを北側から見る。左側の土塁はここで止まっている。
その上の畑が主郭。左上の林の中に土塁Aがある。
堀は南に延びるが主郭側に土塁はない。

以上のことから、この館は居館ではなく、南側に寄居城、地天館を構える江戸氏が、北側の額田小野崎氏または佐竹氏を警戒する前衛陣地、砦であった可能性が浮かんでくる。
または仲の房東館の佐竹氏家臣軍司氏(あるいは宮田氏?)が額田小野崎氏を警戒したものかもしれない。小田原の役後の佐竹氏の江戸氏攻撃の直前に江戸氏によって臨時築城されたのかもしれない。

なお、館の立地する地形であるが、東と西に溜池があり、北に水路と水田があるため、3方が若干低く、南側のみが微高地が続く。
その南方向に地天館等が立地しているのである。
北を警戒する場所としては適切な地である。

はたまた、拡張工事中、築城工事中に工事が中断され、廃棄されてしまった未完成の館であった可能性もある。
もし、中断されたものとしたとしたら、先に述べたように佐竹氏による江戸氏攻撃の後か、または佐竹氏の秋田移封により居館とするはずであった者、例えば宮田氏が同行することになったため、あるいは帰農することになったためとか?

堀底には改変を受けた痕跡が見つかったという。
元々あった小規模な館を拡張改変した可能性もある。

発掘からは色々なものが見えて来る。
定説がひっくり返される可能性も秘めている。
第二次世界大戦のことや明治時代のことさえあやふやなことが多い。捏造されていることさえある。
400年以上も昔の話なら事実が分らなくなるのも致し方ないのだろう。


鷺内館(菅谷鷺内稲荷山)

水郡線が郡山方面と常陸太田方面に分かれる地点からやや北側の常盤高速道路北側の微高地上にある。
 館は二重の堀に囲まれた輪郭式であり、内郭と外郭の2つの郭からなる。

 館はほぼ正方形であり、東西南北約100m四方の大きさである。
かつて東側には池があり、外郭の堀には水を引き入れていたと思われる。
 外郭の堀は外郭周囲ばかりでなく四方にも延びており、用水路を兼ねていたものと思われる。
水堀といっても幅は2から5m程度と防御性は乏しい。

 外郭の周囲には土塁が見られないが、内郭の周囲には土塁が存在する。
ただしそれほど高いものではない。
 館は藪化した杉林の中にある。特に不動堂付近の藪はすさまじい。
北端に稲荷神社の祠があり、南側から参道がついている。

この参道沿いが比較的藪も少なく、遺構も良好に確認できる。
那珂町の館の多くは宅地化の波の中で姿を消しつつあるが、本館の周囲はまだ宅地化が及んでいないため、館遺構の保存状態は比較的良い。
特に内郭部は完存している。

 館主は加藤安房守という者で、江戸氏の配下として、天正3年に佐竹の宍戸攻めに江戸氏配下として出陣したという記録が残っている。
 典型的な溜池の灌漑水利権を管理する権利を持つ領主の館である。
@の堀。ここは埋没が激しい。 A内郭西側の堀は一部大きく膨らんでいる。 B外郭北の堀。藪でちっとも分らん。 C内郭北側の堀。
D北端にある稲荷神社の祠。 E稲荷神社南側の堀。 F南端の堀は半分埋没している。 G不動堂。東側以外には堀がある。

飯田寄居館(飯田寄居)

一乗院の東側にあり、北と南は水田であり、その間にある微高地に築かれている。
北西方向には大洞池がある。
この溜池を管理していたのではないかと思われる。備前館の東1kmに位置する。

館の推定の範囲は東西200m、南北150mと推定されるが、ほとんどの部分は開墾されて畑となり、一乗院側の西側と南東の外れに堀と土塁が残る。
これらの部分は杉林や竹林となっている。特に一乗院側の遺構は南北に120mの長さで堀と土塁が続き、遺構は明瞭である。
(堀は西側が道路となって半分、埋められている。)

それでも、土塁、堀は、とも小規模である。
堀は今も排水路としての役目を果たしている。
南側の水田が堀跡のように思える。

林の中にも浅い堀があるので、二郭からなる二重方形館ではなかったかと思われる。
南東端に竹林が残るが、その中にも南側の低地沿いに低い土塁がある。
主要部は民家と畑になって遺構は見られない。

一乗院との間に土壇があるが、愛宕神社が祀られていた塚だと言う。
一乗院は元は久福寺といい、掛札氏の菩提寺であったという。

平氏の流れを組む掛札氏の館と言われ、はじめは江戸氏の家臣であったが、佐竹氏から養子が入って佐竹の家臣であったともいう。

江戸・佐竹連合と額田小野崎氏の合戦において、館は江戸氏側で参戦した掛札駿河守が額田小野崎の軍勢による奇襲攻撃を受け、掛札駿河守以下一族家来のほとんどが戦死して館は落城したと言われる。


掛札という姓は珍しい姓であるが、現在もこの地方には掛札姓は多く、館主の子孫であろう。
(那珂町史の研究第12号参考)
西側には土塁と堀が120m続く。 一乗院との間にある土壇。 東側の竹林の中には土塁がある。 館の主要部はご覧のとおり畑である。

神生館(本米崎海後字加納)

本米崎海後にある。東を常磐自動車道が通り、水田となっている東の谷の向こうは東海村である。
北は久慈川の低地の水田地帯である。
館は、本米崎台地の北東に突き出た先端部が広がった部分にある。
比高は15m程度。この先端部全体が館の範囲である。

別名「加納城」とも言うが、確かに館というより城といったほうが良い位の規模を持つ。
 館は約80m四方の郭が四連郭になっていたと言われるが、現在、畑や宅地になり館址はほとんど残っていない。
とずっと思っていた。

4つの主郭の土塁等は確かに失われているが、しかし、曲輪Tの北側下の二重堀がちゃんと残り、曲輪TとWの間の堀跡が通路として残っていた。
台地北側の勾配が緩いため、台地中腹、裾部に土塁があるが、南側は急勾配のため、台地裾に土塁はない。
東北端の三島神社付近も館址の雰囲気を残す。
ここも曲輪の1つと見て間違いないであろう。

館には江戸氏の家臣で江戸氏と不和になった神生右衛門大夫が額田小野崎氏の保護の下に居館していたと言われる。
神生氏を巡って江戸氏と額田小野崎氏が交戦状態となったが、天正17年(1589)神生氏が結城氏を頼って逃れ、和睦になった。

館は額田小野崎氏が神生氏のために築いたというが、この地は仲が悪い石神小野崎氏との境目の地であり、以前から城があり、石神小野崎氏に対する牽制と額田城の東を守る出城として使われていたのであろう。
そこに神生氏を入れ、拡張したものではないかと思う。

鳥瞰図は川崎春二氏の「奥七郡の城館址と佐竹四百七十年史」掲載図から作成したものである。
 写真左は曲輪TとWとの間の堀跡を北下から見たものであり、現在は通路として使われている。
北下、水田に面し土塁と堀があったようであるが、ここは道路になって隠滅している。
かろうじてBの堀と土塁だけが残存している。


D 曲輪W北下の堀?
または、土塁を持つ帯曲輪

三島神社境内も曲輪の1つであったと思われる。

@は三島加納古墳であるが、物見台に使われたと思われる。
境内にはこの他に土塁と推定される痕跡がある。

Aは神社遠景。撮影場所の道は堀跡であったと推定される。
右側が曲輪U、V、左側が曲輪T、Wである。
この付近は4つの曲輪が接する部分ではないかと思う。

Bは曲輪T北下の堀であるが、草が多く分かりにくい。
右側に土塁がある。左側は曲輪Tの切岸である。
Cは北下から見た曲輪T(右)とW(左)である。
その間に堀があり、堀底道になっている。
Bの堀はこの写真の右側である。
左側の中腹が平坦になっているがここを撮影したものがDである。

これは堀なのか、前面に土塁を持つ帯曲輪か?
この部分の鳥瞰図を左に示す。
この城で明確に遺構が残っているのはこの部分だけである。

@三島神社内に残る三島加納古墳。
物見台として使ったらしい。
A集落中央の道は堀跡か? B曲輪T北下の横堀。 C北から見た曲輪T(右)とW(左)とその間の堀。

 坊の内館(横堀坊の内)

横堀の常磐自動車道近くの若干、起伏がある場所に位置する。
館址は竹林である。
北東の部分に堀が確認できるが、よく見てみると,これは用水路を兼ねたものと思われる。
少なくとも2,3本の用水路が確認できるが、明確な遺構は確認できない。
館としても主要部分は、民家の敷地となり、失われてしまったようである。
ただし、西側に土塁のような盛り上がりがある。
この部分の堀(用水路)が深いが、民家の敷地となり、これ以上の確認は困難。
もしかしたら、こちらの方面にキチンとした遺構が残存している可能性はある。
館の北側(常磐自動車道方面)が低くなっており、この低地の水田に水を供給していたのではないかと思われる。
北側に「小新田溜」があり、この溜を管理する館であったと思われる。ただし、この溜は常磐自動車道の敷地となったのか小さい。
しかし、この付近は台地を侵食したような凸凹した地形であり、現在でも畑地が多く、水を供給するような水田は少ない。
供給していたとしてもそれほど広い範囲ではないだろう。
館主等は不明であるが、額田城の南1km地点にあるので、額田小野崎氏の家臣の館ではなかったかと思われる。
北側に残る堀跡 西に行くと堀が深くなり、土塁らしいも
のが見える。
南側から館址を見る。竹林の中が館址。

江戸城(下江戸)

江戸城と言えば、普通は「あの江戸城」である。
あの江戸城に比べると、同じ名前のこの「江戸城」は余りにも大違いすぎる。

この江戸城には、石垣はおろか、堀も土塁も有るような無いような、ほとんど自然地形のような城である。
城は、那珂川にかかる千代橋の東、下江戸地区にあった。
城は、「城の内」と呼ばれる小字の常北と瓜連を結ぶ県道を北に見下ろす場所にある。
ここは、東の古徳城方面から続く丘陵の尾根が一度盛り上がった山である。

この山の標高は40m、比高は30m。東側以外は急な崖である。東側だけがやや緩い傾斜となっている。
城があった場所は比較的平坦である。
城に行くには、県道交差点から広域農道に入り300m。
そこに北に入る小道がある。
直ぐに墓地がある。この先の道を進んで行くと、左右に分かれる道があるので左に進む。
200mほど行くと城址である。

自然地形であり、人工的なものは何もないと書かれていたが、良く見れば極わずかではあるが、ちゃんと遺構はある。
西端の本郭の入り口には土塁があり、その手前には堀がある。ここが虎口であろう。
南側の斜面は竪堀状になっているが、北側の平坦部には堀はない。

どうも埋めらられたようであり、道となっている部分がやや窪んでいる。
北側の縁にも低い土塁が残っている。

南側の斜面には一段低く、帯曲輪がある。
本郭は70m四方程度であるが、内部は完全には平坦ではないが、それでも平坦度は高い。
その東側が二郭なのだろうが、墓地があるが、ただの山という感じである。

江戸城は南北朝の騒乱で一時は壊滅した那珂氏が、足利尊氏に従うことで、江戸氏として復活し居城した城である。
1350年ころの話である。

城とは言っても、麓の盾の内地区を含めた一帯が城址であったと言い、ここは緊急時の避難場所であったと思われる。
したがって、ここに住んでいたことはなかったであろう。

普段は上江戸かこの盾の内に居住し、那珂川の水運権・漁業権を管理していたものと思われる。
その盾の内地区も江戸城同様、明確な土塁、堀等の遺構はないが、河岸段丘上であり、南北は複雑に入り組んだ侵食谷が発達し、土塁、堀を必要としない要害性を持つ。

 江戸氏はさらに難台山城の戦いや上杉禅秀の乱で軍功を挙げ、水戸に領土を与えられて進出し、河和田城を手に入れ、さらに水戸城を奪う。
さらに山入の乱による佐竹氏の弱体化に乗じて勢力を拡大し常陸の戦国史に登場していく。
その後、佐竹氏が復興すると、佐竹氏の一門扱いという形で佐竹氏に従う。

このため、この江戸城周辺は石塚城、小場城、戸村城、那珂西城など佐竹系城郭が立地していたが、江戸氏滅亡まで江戸氏領の飛び地として一族を置き、存続していたという。
ここが、同盟大名の江戸氏の故地であるため、佐竹氏もそれを尊重したものであろう。
この地は最終的に廃城になったのは戦国末期の江戸氏滅亡時という。(「那珂町史の歴史 第10号 参考)

唯一と思われる遺構。虎口の土塁。
下には居館があった下江戸地区が望まれる。
左の土塁の手前には竪堀があるが
草で良く映っていない。
南側の帯曲輪。 内部は藪。ただし、ほぼ平坦である。