那珂市の城館3

小屋場館(鹿島字小屋桶)
鹿島台地の東端部に位置するが、要害館のある台地ではなく、その南側の台地の東の突端部である。
この付近は台地の侵食が著しく半島状の台地が多く存在する。
 館址の北側には門部台地があり、門部台地との間は侵食谷の低地となっており、館の北側、東側、南側は崖である。西側のみ台地に続く。
この館はなぞが多い館である。戦国時代以前の館である可能性もある。

この地は源義家が後三年の役で兵馬を養うために駐屯していた地と伝えられ、「八幡太郎の鞍掛石」と言われるものが館の直ぐ北にある。
どこまでが真実でどこからが伝説かは不明であるが、中世初期の義家が一時的に居館していた場所がこの館ではなかったかともいう。

義家鞍掛石の碑。左の囲みが鞍掛石 これが鞍掛石。確かに鞍の形をしている。 鞍掛石から見た南東の館跡。
林が曲輪Uである。
その館であるが、中々行きにくい場所にあるので躊躇していたがやっと行けた。
先端部の鉄塔のある位置から突入したのであるが、これは失敗。
ちゃんと西側から入る道があるのである。突入したは良いが、小竹が密集した凄まじい藪であった。
先端部からの突入は失敗と言えば失敗であるのだが、おかげで東端の堀を確認することができた。
館は予想以上に大きい。東西150m、南北最大80mほどである。
以下、縄張図を参照して解説する。
館は、東西に2つの曲輪が並び、さらに、北東側に突き出たような曲輪Vがあるので、逆L型をしている。
もしかしたら曲輪Vの西側の畑も館の領域であるのかもしれない。
曲輪Tが主郭であるが、その西側に50m四方の広さの曲輪Uがある。
内部は養鶏場である。
曲輪Uの西側の道路は堀跡であったようである。北側に堀があり、これがこの道路に合流していたようである。
曲輪Uの東側に幅10mほどある堀があり、主郭の曲輪Tがある。南側に土橋がある。
この土橋の両側に土塁がある。北側の土塁は高さは2mほどであるが幅が広く、櫓台のようである。
肝心の曲輪T内部は凸凹していて何が何だか分からない。もしかしたら内部は堀か何かで仕切られていた可能性もある。
先端近くに来ると、徐々に下りとなる。このため、東端に堀を一本置いている。曲輪Tの広さは東西100m、南北60mほどである。
この堀は深さが2m、幅は8m程度ある。埋没を考慮すればこの堀も大きかったのだろう。
曲輪Tの北側は曲輪Uの北側の堀が延び、一気に幅15m位の大きさになる。
今は深さ2.5mほどであるが、これだけの幅なら当時はかなり深いものであったのだろう。
この堀の先で堀は2つに分岐し、その間に物見の曲輪とも言うべき曲輪Vがある。
この曲輪の北側に1つ小曲輪があり、その先は崖である。

以上がこの館の概要であるが、藪に阻まれ良く見れていない部分が多くある。
これが戦国城郭であるのか、それ以前の館なのかは何とも言えないが、メリハリや新規性は余り感じない。
意外と古い形式のようでもあり、義家が滞在していたとしても不思議ではない。

南東側から見た館跡。
鹿島台地の東端部に位置し、水田部が谷津。
曲輪U西側の道路は堀跡ではないだろうか。 曲輪U(右)とT間の堀。 曲輪T北側の堀は巨大である。
曲輪Tの土橋を入ると南側の縁部沿いに土塁がある。 曲輪T内部。
一部はスッキリした杉林であるが、ほとんどは藪。
曲輪T、V間の堀であるが、
これじゃなんだか分からん。
曲輪T東端の堀。ここも藪が酷い。

白河内台坪館(門部字白河内台坪)

南酒出城の西1km谷津が複雑に入り組んだ台地の南側にある。
谷津を挟んで東側が縄文早期から古墳時代にかけての複合遺跡、山王原遺跡である。
 北に装飾古墳である白河内古墳があり、館の南は谷津を隔てて那珂台地平坦部に続く。
館主等は不明。

追記)2007年2月3日、茨城県遺跡地図で場所を特定し、館跡に突入。
館は台地先端部にあり、地勢は台地続きの西側が若干高い。
肝心の館跡は、比較的平坦な1辺100mほどの三角形をした杉林であり、写真に示すように内部は平坦であった。
台地続きの西側にあったと思われる土塁と堀は失われていた。
館の西側は既に民家と畑であり、壊されてしまったものだろう。
かすかに堀の痕跡と思われる窪んだ溝が西側に見られた。
また、南西側に土塁の残痕と思われる盛り上がりが見られたのみである。

 みの内館(菅谷みの内)

菅谷中宿水郡線の西側が館址。西側は一関溜から流れる用水で低地が開発された水田地帯である。
水田地帯からの比高は3m程度である。東側は台地に続き、水郡線が通る。
現在は「みの内団地」になり隠滅しているが、それ以前、団地造成以前に既に畑となっており、既に遺構はなかったという。
江戸時代にはここに水戸藩の「稗蔵」が置かれ、飢饉の時に米を供出し、住民を飢餓から救ったという。
天保の飢饉でも各地に置かれた稗蔵のお陰で、水戸藩領内では餓死者は出さなかったという。
また、これを聞いて奥州からかなりの難民が流れ込んだという。
写真は北から見た館跡。住宅が建つ場所が館跡。水田地帯が一関溜から流れる用水で開発された水田である。
柏村越前守の館と伝えられる。

稲荷山館(鴻巣稲荷山)

水郡線の上菅谷と鴻巣の中間地点にあり、館の南を水郡線が走っている。
周囲を堀に囲まれた長方形の郭が3つ並んでおり、そのうち2つの郭は2重の堀に囲まれている。
 館の北に池があり、その水を堀に引き込んでいたと思われ、堀は用水路も兼ねていたものと思われる。
水郡線の線路を挟んで南側の字名を中丸といい、現在は何もない畑であるが、ここにも郭が存在していたと思われる。
館主等は不明である。
左の写真は鴻巣踏切から見た館跡がある林である。ちょうど見えている部分が下の図の5に当たる。
線路の左側の畑が中丸という地名であり、ここも城域であったようであるが何もない。
この館の概要図を左に示す。
この図は「那珂町市の研究第12号」掲載図と余湖さんの図及び管理人の現地調査結果を元に描いてみたものである。
畑となって隠滅した部分もあるが、林の中の遺構も堀が途中まで存在しているが突然、途切れたりしている状態であった。
非常に立派な2の部分もあるが、ほとんどは曖昧な感じである。
堀が埋もれていることもあるだろうが、埋められたか、始めから存在しなかったと思われる部分もある。
後者ならここは未完成の館ということになろう。

最も立派な遺構は1の部分であり、見事な二重堀になっている。
直線部が50m以上続くが、北側で西に曲がるが何故か消えてしまう。

そのカーブの北東側に2の堀が東に曲がっている。これはほぼ長方形の曲輪を1周する。
その東の杉林の中に東側に延びる細い溝が数本ある。
これはどうやら用水路のようである。
南側の曲輪にも堀が綺麗に残っているが、埋没は激しい。
東側の4の堀は畑のため、半分は埋められてしまっている。
3の部分の堀 1の部分の二重堀。右側に土塁がある。 4の部分の堀、半分埋められている。

島崎館(後台字島崎)
以前の記事にはこのように記載した。
『バードラインが常盤自動車道下を抜け東に向かい走るとその北側の微高地上にあった。
現在は畑で遺構は見られない。館主等は不明。』

場所をもっと詳しく言うと、バードラインの常盤自動車道下のトンネルから南東に900m、イセキ農機の整備工場のバードラインを挟んで北側である。
ここに行ってみると、館跡は北側の水田地帯となっている低地を望む微高地上にあったようである。
ちょうどこの低地の北側の微高地には中坪館がある。
館跡は半分は畑になっているが、まだ、南側に杉林が残っている。

もしかしたらこの山林内に遺構が残っている可能性があると思われ、冬を待って突入。

やはり、一部ではあるが、遺構は存在していた。
特に南西端の堀は幅が4mほどあり、水があった。
ここが最外郭のようであり、ここから北東側の林の中に数本の堀が確認できる。

ただし、堀はかなり埋没している。
調査結果を基に描いた縄張図を右に示すが、どうも主要部は畑となっている部分であったように思える。

この畑あたりが主要部であったのではないだろうか
北東側中坪館から見た島崎館。
両館の間には水田となっている低地がある。
南西側の堀には水があった。 左の堀の北西側。

中坪館(福田中坪)
 那珂町役場前の道を南西方向に1km行った所に春日神社がある。館はここから南東400mに位置する。福田公民館がすぐ南にあり、ここを目指すのが一番手っ取り早い。
館は西と東が水田地帯であるその間にある微高地上にある。2郭からなる館で、本郭部は100m四方の方形である。
館内部は鬱蒼とした竹と杉林であり、とても内部へ入れる状況ではないが、強行突入。突入した墓地の脇、1の位置に堀跡が確認できる。
墓地の北側はすさまじい藪であったが、内部は歩けないほどではなかった。
その藪の中に2の位置に、幅4m、深さ2mほどの堀が確認できた。
この堀は途中で90度曲がり東に続いているが、途中で不明瞭になる。写真を撮ったのだが、藪でよく写っていない。
 築館は福田和泉守と伝えられるが、はっきりしない。この地の字が福田というので、地名を姓にしたものであろうか?
後に山入の乱に乗じて江戸氏が佐竹氏より横領し、家臣の吉原氏が館主となったと伝えられる。
福田氏は帰農したと言われ、吉原氏の子孫とともに福田氏の子孫も続いている。

1の位置に確認できる堀跡。 2の位置の堀。

木戸館(鴻巣字木戸)

那珂市役所から県道31号線を瓜連方面に約3km。県道31号線の東側の松林が館跡である。
場所が分かりにくいが、常陸鴻巣駅から瓜連方向に走って1つ目の信号のある交差点の北側の杉林がその場所である。
館跡のど真ん中をJR水郡線が貫通しており、館が東西に分断されている。
館の場所は分かっていたのだが、ここはなかなか行きにくい場所である。
何とか東側の門部側からの未舗装の農道からアプローチすることができた。

この館について、那珂町史中世・近世編には、
「二重の堀を持つ方形の館であり、内郭が40m四方の大きさで土塁と堀があり、外郭が70m四方の大きさで土塁と堀があった。」と記述されている。
現地を見て、確認できた遺構は右の縄張図の範囲であった。
那珂町史の記述に従えば、縄張図に書き入れた堀はどうやら外郭のものらしい。
水郡線の西側には土塁と堀が存在していたが、水郡線の東側の山林内には堀は確認できたものの、土塁は確認できなかった。
西側の堀と土塁ははっきりしており、堀はかなり埋没はしているものの、堀底から土塁上までは2mほどはあった。
ただし、内部は藪であり、写真を撮ってもさっぱり分からない。
線路東側の堀は1m未満の深さしかなく、埋没していると言うより、土塁を崩して埋め立てたような感じであった。
途中が用水路で分断されているが、この用水路の南側にも堀が延びていた。
土塁が崩されたためなのか、線路東側には土塁は確認できなかった。(もともとなかったのかもしれない。)
北東端には土橋の痕跡がある。肉眼では堀が明確に確認できるが写真を撮ると、やはりさっぱり分からない。
南端は崩されて、南側が水田になっているので、堀がどこまで延びているのかは分からない。
内郭部は、人家、畑となり、おまけに水郡線が貫通しているため、ほとんど破壊されているらしい。
また、内郭と思われる場所には山林があるが、いばらが密集しており、とても入れるものではない。
(位置的に水郡線の線路が堀跡を通っているような感じがするが?)
館主は伝承によれば、木戸左衛門尉と伝えられているが、どのような者であったのだろうか。
佐竹氏の家臣で開拓のために入植した者ではなかったのだろうか?
この付近の館としては規模が大きく、南側400mにある文洞溜の水利を管理していたのではないかと思われる。
線路東側に残る堀であるが、埋没が著しい。 線路西側の土塁(左)と堀。こっちは藪が凄い。