水戸周辺の小城館
 水戸市は戦国時代江戸氏の本拠地であり、水戸城、河和田城、見川城、長者山城、吉田城等代表的な城郭が、市街化の波の中でも結構、遺構を残している。
当然、江戸氏家臣団の館も多く存在したが、いずれも小館であり、激しい市街化の中で姿を消している。
中には所在場所さえ不明になっているものさえある。ここで紹介する城館もほとんど遺構らしいものを残さないものが多い。

加倉井館(水戸市加倉井町)
水戸市中心から国道50号線を笠間方面、西に進み、常磐自動車道下をくぐり、加倉井の交差点を右折して常北方面に向かい、400mほど行った地点、東側に妙徳寺がある。
ここが館跡である。この付近の地形は東西が水田となっており、館のある部分は南北に長い微高地である。
妙徳寺の正面南側には館址の碑が建つがこの付近には遺構はない。
しかし、寺や駐車場の裏にまわると土塁や堀が残っている。


↑妙徳寺北側に残る堀と土塁

↑館内部から見た北側の土塁。

特に西側は墓地造成で一部失われているが、北側に堀と土塁が東に続き、北東端で南に折れて続くが曖昧になって消える。
堀幅は7mほど、土塁は曲輪内から約3mの高さがある。
堀は埋没が進んでいる感じである。

南側に用水路があり、ここが南側の堀跡であったと思われる。西は道路が堀跡であろう。
館規模としては東西約220m、南北約110mほどの規模を持つ長方形であったと推定され、かなり大型の館である。
外郭が存在するのではないかと周囲を歩いてみたが、遺構と思われるものは確認できなかった。

正安年間(1299〜1302)に波木井実長が築城したと伝えられる。
5代後、通久の時に姓を加倉井に改めた。
この頃、水戸城を手に入れた江戸氏の家臣になったのではないかと思われる。
久光の代には江戸氏五家老の一人に数えられていたが、天正18年(1590)12月江戸氏が佐竹氏の攻撃を受けて滅ぼされたとき、加倉井久光も水戸城攻防戦で戦死して滅び、館も廃された。
なお、秋田に行った佐竹家臣の中に加倉井姓を持つ者がおり、現在もこの付近で加倉井姓を持つ者が続いている。
このため、江戸氏滅亡後、加倉井氏一族は佐竹家臣になったり、この地で帰農したのであろう。

(以前の記事)

加倉井館(加倉井町)

 水戸市中心から国道50号線を西に進み、常磐自動車道をくぐり、加倉井の交差点を右折して常北方面に向かい、400mほど行った場所に妙徳寺がある。
 ここが館跡である。
妙徳寺の正面南側には館址の碑が建つが何の遺構もない。
しかし、裏にまわると土塁や堀が残っている。
 特に北側、西側は一部失われているが、堀の両側に土塁を持つ館遺構が現れる。
 館規模としては東西220m、南北110mほどの長方形でありかなり大型である。
城と言っても良い規模である。
 正安年間(1299〜1302)に波木井実長が築城したと伝えられる。

 5代後、通久の時に姓を加倉井に改めた。
この頃、水戸城を手に入れた江戸氏の家臣になったのではないかと思われる。
 久光の代には江戸五家老の一人に数えられていたが、天正18年(1590)12月江戸氏が佐竹氏の攻撃を受けて滅ぼされたとき、加倉井久光も水戸城攻防戦で戦死して滅び、館も廃された。
写真は妙徳寺北側、西側に残る土塁と堀である。

全隈城(全隈町)
全隈、この字、何と読むのか分からないと思うが「またぐま」と読む。
城は水戸市立山根小学校の北側500m、谷津を挟んで北西の森林公園から東に張り出す尾根先端部にある。
この城も「Pの遺跡侵攻記」で初めて紹介されている。

それ以前、石崎勝三郎氏より2007年2月に森林公園の南東の山に堀が存在するという話を聞いたが、どうもこの城を指すようである。
城のある部分の山の比高は25mほどであるが、南北の斜面の勾配は結構急である。
城域は長さ400m程度と広い。

かなりの広さはあるが、尾根を3本ほどの堀で分断しただけであり、郭内はほとんど未整備であり、自然状態に近い。
城へは先端部から登るルートと西側から尾根に出るルートがあり、前者のルートで登った。このルート、畑の中を通って行くので、畑にいた人に挨拶して登る。
畑の西端に高さ2mほどの土塁があり、ここが城の東端であろうか。

その西側が曲輪Vであるが、ここは緩斜面であり、曲輪とも思えないような場所である。
80mほどの長さがある。西端に堀がある。長さ30m、幅は7mほど。その西側が曲輪Uであるが、堀底から南側を回って曲輪内に入る。
曲輪U内はこの堀に面した部分だけが平坦化され、土塁があったようであるが、残りはただの自然状態である。
この曲輪長さ70m、幅30mほどあるが、斜面部には土塁はない。

西端に堀があり、その西側が3mほど高くなり、本郭である。
堀は長さ30mほど、末端は竪堀となって斜面を下る。

本郭には北側から入る。北側に帯曲輪(横堀?)があり、井戸跡らしい窪みがあり、虎口がある。
虎口を入ると直径20mほどの窪んだ空間があり、西側以外は土塁がある。本郭は長さ80mほどあり、やはり内部は自然の山である。

北側の帯曲輪は本郭の北側を覆う。
本郭の西端は高さ4mほどの切岸になっており、土橋があり、竪堀があったと思われる。
さらにここから下りとなり、40m西に土橋と竪堀がある。ここが城域の西端である。

この城については一切の歴史は分からない。
現地をみた所、城域は広いものの曲輪内はほとんど未整備状態であり、人が住むような感じではない。
緊急時に住民が家財道具を持って一時的に避難するためのいわゆる「里の城」という類の城ではなかっただろうか?
東から見た城址。 南の麓にある館跡のような場所 @曲輪V東端の土塁?古墳か? A曲輪U、V間の堀切
B本郭と曲輪U間の堀切 C本郭北側の横堀?(帯曲輪?) D本郭西端の切岸、
土橋状になっている。
南側から見た本郭の西端部

なお、この山の南の麓にいかにも城の切岸になっている資材置き場があるが、元々あった山を削った感じでもある。
ここは館跡にも見えるが、違うかもしれない。
鳥瞰図は北東側から見た全隈城である。○付き数字は写真の撮影場所。

飯富長塁(飯富町)
水戸市の北西、国道123号線を常北方面に進み、常磐自動車道の下をくぐり、200m進み県道51号線を左折して常北方面に進む。
道は那珂川の低地から台地を登る。
台地の東縁に飯富養護学校があり、この前を900m北に進むと大井の交差点がある。
ここを左折すると市民運動公園である。

この交差点の南に二重の土塁(二重堀)が存在する。
図と写真に示す@とAの部分である。
この付近の標高は38m、台地下が8m程度であるので、比高は30mほどである。
この遺構は南に100mほど続く。幅は30mほどある。

ここは、大部館とされているが、大部館はこの場所から南東側の半島状台地にあったという。
しかし、そこは畑と民家であり、明確な遺構は見られない。
この二重の土塁も館の一部であるようであるが、実はこの二重の土塁はここから北東に断続的ではあるが延々と600mにわたって続くのである。
北東の外れがどこか不明確であるが、どうも一度、東に折れて台地の東縁に続いていたと思われる。
しかし、詳細は冬場を待って確認しなければ分からない。

明らかに、この遺構は、館の外郭の一部ではなく、長塁と言ったほうが良い性格のものである。
「飯富長塁」と言うべきであろう。
所々は民家や道路で分断されているが、藪の中に二重の堀が確認される。
二重の土塁と書いているが、西側の道の脇に土塁があり、道も堀の跡のようである。
さらにその奥に二重の堀と土塁が存在する。Bの部分は堀と土塁が破壊され、埋められているが、この部分を見ると、二重土塁(二重堀)ではなく、どうも三重の土塁(三重堀)ではなかったかと思われる。
Bの部分では、堀も深く、北側で道路から見える部分は、堀底から土塁上まで4mほど、堀幅は10m程度ある。
なお、交差点近くでは土塁間の間隔は15mほどもある。

長塁と言えば、台地を閉塞する性格のものが多いが、台地東縁にある飯富大井の集落を守るためのものであろう。
この長塁を築いたのは、江戸氏の家臣大部氏ではなかったかと思われる。
大部館の一部であるとともに城下町である飯富大井の集落を守るためのものであったのでろう。
したがって、飯富大井の集落は中世から続く、城砦集落であったことになる。

この地の北2.5qは佐竹氏の那珂西城であり、ここは境目の地でもあったのであろう。
この飯富大井地区を攻撃するなら東の国道123号が走る低地は湿地帯であったと思われる。
このため、この方面からのルートは適切ではなく、やはり台地続きの西側からであろう。
台地続きの西側にも加倉井忠光館や神生館もあるが、これらも出城のような存在であったのかもしれない。
それにしても三重の土塁(三重堀)というのは例がないほど厳重である。
これも境目の地の緊張の表れなのであろうか?

@の部分の堀と土塁 Aの部分の堀。かなり埋没している。 Bの部分の土塁と堀

(追加)
2008年1月13日 所用のついでに再訪。
前の記事には 北東の外れがどこか不明確であるが、どうも一度、東に折れて台地の東縁に続いていたと思われる。
しかし、詳細は冬場を待って確認しなければ分からない。」と書いた。
今回は東に折れる部分を確認に行ったのだが、さすが藪の勢いが衰えた冬場である。
推察どおり、Bの堀が東にカーブし、台地縁まで続いているのが確認できた。
相変わらず堀は藪状態で確認不能であったが、道路で分断された土塁が明瞭に確認できた。
以下追加写真。

Bの部分の堀底。深さは4mくらいか。 最南端の稲荷神社の遺構。この南は湮滅。 Bの部分は東にカーブしている。
台地縁に土塁の一部が分断されて残る。

神生城(成沢町)

「神生」と書いて「かのう」と読む。
那珂川低地の南側にある丘の上に飯富小学校があるが、その西側の台地上は非常に平坦である。
城跡は小学校西側の道をさらに500mほど西側に行った場所にある。
背後、北側は藤井川の谷である。
「城跡には民家と畑があるだけで土塁も堀も何もない。」と以前の記事に書いたのであるが、撤回。
遺構はちゃんと存在していたのである。

ここ塙地区に「塙不動尊」があるが、この東側に堀と土塁が断続的であるが、150mにわたって残る。

堀は土塁の西側に残るが、かなり埋没し、土塁は低くなっている。
ただし、土塁の下幅はかなり広いので当時はかなり高く、堀は深かったものと思われる。

天正16年(1588)、江戸氏家中を揺るがすお家騒動「神生の乱」が起こったが、その主人公神生遠江守の居館がここであると言われる。

 江戸氏の重臣である神生氏と当主江戸但馬守は徳政令の施行をめぐって対立し、神生氏が江戸氏の長男小五郎を殺害して、額田小野崎氏を頼って逃亡、今度は神生氏を匿う額田小野崎氏と江戸氏の戦闘に発展。
 仲介する佐竹氏により神生氏を結城氏に逃して和睦成立というゴタゴタである。

 この騒動は重臣を失ったことで江戸氏の弱体化を招くことになり、小田原の役での対応判断に失敗し、そこを佐竹氏に突かれて滅亡を招く遠因になったと言われる。

なお、那珂町の最北東端、本米崎に同名の「神生城(館)」があるが、額田小野崎氏に匿われた神生氏が住んだ館という。

@の部分の土塁を東側から見る。
反対側に堀がある。
Aの部分の土塁を東側から見る。 Aの部分の土塁の西側には堀跡が残る。
一般的にはここまでで記事は終わるだろう。
しかし、どうもこの城については、おかしいところがある。

今残る遺構は土塁の西側に堀がある。つまり、土塁の東側、飯富小学校側に主郭部があることになる。
しかし、小学校までの間には何もないのである。

この付近は耕地整理が行われているので消滅した恐れもある。
そこで台地縁部をじっくりと観察した。
しかし、堀や土塁の痕跡はないのである。

さらに国土地理院の耕地整理前の撮影した昭和55年の航空写真(右の写真)を見た。
赤い線で示した神生城の土塁の東にはやはり何もないのである。
これはどういうことだ?

その航空写真を良く見ると、神生城の堀、土塁と平行する道路(今は耕地整理で存在しない。)が、ずっと真っ直ぐ南に延びているのが分かる。
その600〜700m延長した先が飯富長塁の北東端部なのである。
つまり、この道路に沿って土塁と堀が存在していたのではないだろうか?

これを地図(国土地理院の25000分の1の地図の当該地区を切り抜いて使用)に書き込んだのが青の線である。
すなわち、この神生城とは、飯富長塁と同じ長塁ではなかったか。
さらに、飯富長塁に接続する長塁ではなかったのではないだろうか。

守る方向は台地続きの西側である。やはり東の那珂川の低地は湿地帯で通行はできず、北の石塚方面から水戸に侵攻する場合は、藤井川上流の西側に迂回してから、この台地に上がって水戸に向かうルートではなかったかと思われる。
はたして、飯富小学校付近に守るべき部分はあったのであろうか。
神生氏はどこに居住していたのだろう?全く関係ないのか?


平戸館(平戸町)

国道51号線を水戸から大洗方面に進むと、塩崎の交差点があり、その東は大洗市街に入る道と旭村方面に行く本道が分岐する立体交差になっている。
 平戸館はこの立体交差の南側、吉田神社付近にあった。

 河川が開析した微高地に造られた館であり、西側と東側が低地であり、現在は水田になっている。
 東側は2mほどの段差が見られる。当時は水堀の役目を持つ湿地帯であったものと思われる。
 その間にある南北に長い微高地上に2つの郭があったという。

現在は畑と宅地になりほとんどの遺構は失われている。
 北側の吉田神社の地が二郭であったといい、館址碑が建ち、神社の西側に土塁と水堀がわずかに残る。
また、吉田神社から100mほど南側の道沿いに土塁が残り、土塁上に八幡神社の小さな社が建てられている。
この付近が本郭であったらしい。

 

大掾氏の一族平戸氏の居館であったという。
『東茨城郡誌』には「応永の頃(1395〜1427)、大掾氏の一族、平戸甚五郎の居りし所にて、按ずるに大掾氏の一族、石川氏胤の子寛幹あり、其子宣幹、孫久幹、久幹の子久国は平戸甚五郎にて、其子通国には皆ここに居たり。」と記載がある。
 平戸家の始祖石川久幹の子、平戸甚五郎久幹が、城主であったということである。

 その後、平戸氏は佐竹氏に従ったようであり、室町時代初期の佐竹氏の家臣団名簿「地之譜代」の那珂下の奉公5人衆に平戸氏の名が見える。
 さらに、江戸氏が水戸に進出した後は江戸氏に従っていたようである。
江戸氏とともに滅亡し、その時、廃館になったものと思われる。

吉田神社西側に残る土塁と水堀。 南東側から見た二郭に当たる吉田神社
左の民家辺りが本郭

森戸館と久保山館(森戸町)

 旧常澄地区にある。実はずっとここが森戸館だと思っていた。
しかし、後で知ったが、本当の森戸館は実はこの館の北東側下の台地平坦部にあったという。
現在は土砂取りのため湮滅状態である。
 この場所は水戸市立大場小学校の南を流れる石川川の低地を挟んだ南岸600mにある鹿島神社の建つ丘が館跡に当る。
 左の写真は森戸館跡から見た久保山館がある山である。
写真中央部に森戸館の土塁が見える。
この土塁の幅は、南東、北西で3.5m〜4.0m、高さは道路面で1.8m、水田面からで3.5mを測り、堀については明確ではないが、自然地形を考えて、外側には堀を有せず、内側の堀のみであったかに推定されるとのことである。
 森戸館自体は径200m程度の大きな単郭の館であったらしい。
 
久保山館は森戸館の南西側の防御または詰めの場であったらしく、その意味では森戸館の一部とも言える。
 この丘の比高は15mほどであり、東は涸沼川の低地を望む。
鹿島神社への登口は現在は石段になっているが、これは後付けであろう。
その東側に斜面をS字に登る道跡が明瞭に残り、虎口となっている。これは館当時の遺構であろう。
神社境内は結構、でこぼこしており、かつては土塁があったのかもしれない。 

 境内の西側は谷状になっており、北西側が尾根状に台地とつながっているが、この尾根が土塁状に加工されており、土塁の北側に堀がある。
 おそらく、当時は土塁上が道になっていたものと思われる。

  この土塁と境内の間には堀があり、当時は木橋がかかっていたものと推定される。

 久保山館、森戸館の創設は明らかではないが、『新編常陸国誌』、『東茨城郡誌』に「中世大掾氏吉田の族人此処に住み盛戸氏となる。其館址今塙の地に存して東西一町四十間、南北一町二十間、元禄十五年の石高百八十八石五斗九升七合にて、天保十三年の検地には田畠二十八町五反八畝二十八歩、分米二百三十七石四合となれり。」と記載されている。
館がいつごろまで存続したのか、盛戸氏がどうなったかについては良く分からない。
主郭跡に建つ鹿島神社。 西側の堀 南に残る虎口。

加倉井忠光館(成沢町)

 茨城県遺跡地図によると県道51号線の「成沢十文字」の東北角にある大きな民家が館跡である。
 それにしても大きな屋敷であり、100m四方の宅地面積はあるようである。
 門構えも武家屋敷そのものである。
 周囲に土塁があるが、戦国時代のものであるかは分からない。
 内部はさすがに入りかねる。
 何かありそうである。
 加倉井忠光という人物は、加倉井氏から別れた人物であろう。

右の写真は、館南側、県道51号沿いの土塁である。

椿山館(東前)

水戸大洗ICの西700m、国道51号線の南、東前団地の東の那珂川低地を望む比高10mほどの台地上にある。
 館跡は三和工業の敷地になっている。
 遺構はほとんど隠滅しているが、左の写真のように西側に土塁上のようなものがある。(単なる削り残しの部分か?)
また、右の写真に示す東側の台地先端部もいかにも城址っぽい。
 城主等は不明であるが、江戸氏の家臣の館ではないかと思う。


和平館(栗崎町)

 椿山館の西800mにある。
 国道51号線の「栗崎」交差点から南に入り、芳賀神社手前を東南に400mほど行った場所にある。

 館跡の碑がなぜか 古墳のところに建っている。
 遺構はまったく確認できないが、古墳の墳丘を物見台に利用した館であったと思われる。
 やはり江戸氏家臣の館であったのであろう。




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