上檜沢田尻館(常陸大宮市上檜沢)
上檜沢城の西の標高259.3mの山にある。
西下を流れる緒川からの比高は約120mあり、標高は上檜沢城より約50m低い。

当初、上桧澤城の支城なので、向館と考えたが、向館は川や街道を挟んだ対岸にあるので向館ではない。
このため、館付近の字名を付けの「上桧澤田尻館」とした。


↑ 館から見た東にある上桧澤城。
至近距離にあるが、深い谷が間を隔てる。
←西下から見た館跡の山。
ここからは上桧澤城は見えない。

両城間の直線距離は約300mに過ぎなく上檜沢城の支城として築城されたのであろう。
しかし、その間に谷が入るので直接の連絡は困難である。
鐘や太鼓で連絡を取り合っていたと思われる。
南北に長い尾根を利用した城であり、東西約50m、南北約150mの広さを持つ。

東に下る竪堀@を過ぎると城域となる。
山頂から南斜面に比高約40mに渡り、高さ3、4mおきに幅2〜3mの10段の帯曲輪Aが展開する。
山頂部Bは特に何もないが、その背後、北に下る尾根筋に堀切C、Dが2本ある。
さらに堀切Dの北側に長さ約20mの平場があり、そこからは急斜面となり、さらに鞍部に堀切がある。

@城域最南端部、竪堀が東下に下る。 A山の南斜面には帯曲輪が10段ほどある。 B山頂には特段、何もない。
C山頂部の北下に豪快な堀切が・・・ DCのさらに北下にももう1本、堀切が・・

従来、上檜沢城が緒川上流の西側高部方面の監視と緒川沿いの狼煙リレーを南側の下檜沢方面に伝える城と考えられていた。
しかし、狼煙リレーはともかく、上檜沢城からは緒川上流方面の監視は本館のある山の死角となり西直下が全く見えないという欠点がある。
その点、本館からは西下直下に緒川沿いの街道を見下ろすことができる。

上檜沢城は多くの人員を収容できるが、遺構は古臭い。
南下の満福寺にあった居館の避難所といった感じである。
常陸国が安定していた戦国末期には使っていなかったのではないだろうか?

一方、本館は収容人員は少ないが、堀切は風化、埋没が進んでおらず上檜沢城に比べ新しい感じである。
戦国末期に街道監視、狼煙リレーに使っていたのは上檜沢城ではなく、本館であろう。


氷之沢物見台(常陸大宮市氷之沢)

旧緒川村の小瀬地区、旧美和村の桧沢地区との境界付近が氷之沢地区である。
高部地区を東流していた緒川が桧沢地区で大きく南にカーブし西流に変わり小瀬地区に向かい、川が直径約6qの半円を描くが、その半円内が氷之沢地区である。
そこは標高200〜350mの山ばかりであり、緒川に合流する南流する沢沿いに4つの谷が形成される。

氷之沢物見台は「ささの湯」の北西約1.2qの野沢と元沢の2つの谷間の山地にある標高237.2mの山(36.6380、140.3174)にある。
物見台の伝承が残り、南東約200m、標高182mにある家が代々物見の役目を課せられていたと伝わる。

物見台のある地は山間の直径約200mの小盆地であり、物見台はその小盆地の北西端に位置する。
ここに向かったのであるが、野沢から入る道はまさに「ポツンと一軒家」に出てくる道そのものである。

相違点は小盆地内には一軒家ではなく、家が二軒あることくらいである。
他はあの番組とほとんど大差ない世界である。
しかし、山間に開けた小盆地の風景は桃源郷といった感じの素晴らしい風景である。
立地、光景は「高井釣」に似た感じである。

通勤・通学、買い物には不便であろうが、この風景を見ながら暮らせるのは別の意味、贅沢かもしれない。
その物見台に行ってみる。民家から登って行くと、その間は段々畑@になっており、ブドウ園である。
西側は尾根が張り出し、谷戸式城郭に似た地形である。

物見台西下約30mに北側を土塁に囲まれた22m四方の区画VAがある。
ここから小盆地の西を覆う尾根が張り出す。
尾根上には道があり、広くなっている場所もあるが、堀切等はなかった。

@ Aの位置から見下ろした南東方向。
民家の場所が居館か?
A 物見台南西下に北と西を土塁で囲まれた一角Vがある。
ここに
駐屯者の小屋があったのでは?
B物見台直下の東西を土塁が覆う曲輪Uから見た物見台

東側にも切岸を持つ梅林になっている平場が続く。
土塁を持つ区画のさらに10m上Eに東西を土塁に囲まれた25m四方のもう1つの区画U Bがある。
小屋等があったのであろう。

伝承では「老婆」が住んでいたというが、交替制で誰かが常時居たのかもしれない。
物見台Tはさらに20m高い場所にあり、頂上部Cが径約6mの平坦地になっている。
ここに櫓か小屋があったのか?

ここから北に尾根が延びるが、堀切はない。
その代わり、北側に岩場Dがある。
これが堀切代わりになると思われる。

C物見台T上は径約7mの平坦地。
 南方向が良く見える。
D物見台から尾根が北に延び、岩場がある。
尾根沿いからの防御ポイントにもなると思われる。
EBの曲輪の南側の切岸、高さは約10m。

この物見台、いわゆる城郭とは違う性格のものであり、防衛とか戦闘は考慮していない。
さて、この物見台の目的は?何を見ていたのか?
物見台上は杉、檜の林により眺望は効かない。
木がなかったとしたら見えるのは野沢の流れる谷が開けている方向にある小瀬城と高館城である。
どうやらこの2つの城を見ていたようである。
それ以外の方向は高い山があり眺望が開けていない。
したがって、この2つの城で上がる狼煙を見ていたものと思われる。

緒川沿いの谷は狼煙リレーに関わる城館が並び、下野方面の異常を緒川沿いに伝えていたようである。
しかし、この山間の地区は緒川沿いの谷からは死角になり、狼煙が見えない。
おそらく高館城、小瀬城の狼煙を見て、異常情報をこの死角になっている氷之沢の武家等に伝えたのでないだろうか?

なお、この物見台には狼煙機能はなさそうである。
もっともここで狼煙を上げても氷之沢地区内からは良く見えない。
おそらく、鐘とか太鼓で地区内に周知したのではないだろうか?
と、すると物見台上にあったのは物見の台(櫓)と鐘撞堂か?

松之草入山砦(常陸大宮市松之草)36.6027、140.2924 
小瀬支所の西約2q松之草地区にある。ここを流れる小瀬沢川の谷沿いではなく、少し南側に入った場所にある。
長倉方面から延びる街道が当時はこの砦の北側の谷津沿いを通っていたとすれば、その街道を監視する城館であった可能性がある。
または小瀬城を攻撃するための陣城、付城の可能性もある。
西から延びる山の尾根の東の末端部に平坦地があり、そこが城址である。
東側、北側は谷津に面し、南側は緩斜面である。
遺構は後世、畑になって改変を受けていると思われるが、街道が通っていたと推定される谷津を見下ろす北側に2段構造になった土塁が約40mに渡り残る。
土塁は高さ2.5mが2段になっている。谷津部までの比高は約30mである。
西側に谷津部に下りる虎口が確認できる。
また、東にも北東下に降りる虎口があり、下に曲輪がある。

南側はかつては畑であったが、現在、耕作は放棄され、猛烈な孟宗竹の藪である。
南側に道があり、道の脇が盛り上がっているが、これが土塁の残痕である可能性がある。
この畑跡の竹藪が曲輪であるが、約50m×30mの広さである。

@館の北西縁部の2段構造の土塁。2段で高さは約5mある。 A館南側に土塁の残痕と推定されるものが残る。

この竹藪の西側が山になっているが、尾根末端部が若干平坦ではあるが、明瞭な遺構は確認できない。
だらだらした尾根が下っているだけである。
この山の210mの最高箇所(36.6018、140.2902)まで行ってみたが、山頂部には巨石があるだけである。
物見には使っていた可能性はあるかもしれない。
立派な土塁があるが、その他は中途半端である。弱点と思われる背後、西側の山はほぼ無防備である。
これでは防御は成り立たなく、土塁の意味がない。
整備中に山入の乱が終息するなどの事情で工事を取りやめた可能性もある。
ただし、小瀬城を攻撃するための陣城、付城であればこれで十分である。
場所的に小瀬城の出城と思われるが、小瀬城攻撃用の城とすれば長倉氏の築城か?

この砦は孟宗竹に覆われ、縄張図は非常に困難である。
添付の縄張図は畑として使われていた頃、昭和50年国土地理院撮影の航空写真から作成したものである。

下桧沢館(常陸大宮市(旧美和村)下桧沢)
上桧沢城の南、緒川を隔てて対岸の標高291mの山上にある小城郭。
氷の沢館がちょうど800m真南に位置する。
東の緒川の流れる谷にある東の宿地区の標高が135mというので比高は150mほどである。
ヤブレンジャーツアーで攻略を試みる。

しかし、この館、どうやって行くのか誰も分らなかった。
結果から言えば城のある山の直ぐ、西側を完全に舗装された林道がとおり、途中に駐車場のある場所がある。
この場所がすでに標高250mあり、ここから南東に見える山に高さで40mほど登れば良いのである。
ここから城址まではわずか10分程度である。ところが、そんなことは知らない。
似た感じの山がいくつもあり、どれが城のある山か分らない。林道を走りまわり、目ぼしい山に登ってみるが何もなし。


仕方が無いので東の山麓に下りる。そこで館入口の標識を発見する。そこを辿れば間違いないということで、谷間の道をせっせと比高100mほど登る。
もう完全に足に来てしまい。足がガクガク。尾根らしきところに出るが、その直前の道が竪堀状なのである。(本物の竪堀かもしれない。)
やっと来たかと期待が膨らむが、頂上に出てみると、なんとそこは先ほど車で走りまわった林道である。

ここで完全に座り込む。
その後、まだ体力が残っている元気な斥候隊が探し回り、何とか城址に至るのだが、そこには堀切が2本、山頂に20m×10mの広さの主郭と思われる平場と,そこから東に延びる尾根が若干、削平になっている場所があるに過ぎない。

これはどう見ても、戦闘用の城なんかではなく、物見台、狼煙台の類である。
高沢⇒河内⇒花立山⇒高部と続く、狼煙リレーがここを通り、高館⇒小瀬と続いたのだろう。
(もう1本が花立山⇒小舟⇒小瀬というルートだろう。)
新編常陸国誌では「藤原義種の居館と伝えられる。」と書かれているが、少なくとも居館ではない。
居館があったとしたら東の麓だろう。そこには、ちょうど「堀の内」という地名もある。

東の麓からの登り道。尾根に出る直前
は御覧のように竪堀状(本物かもしれない。)
左の竪堀状の道を登りきると林道が・・。
この道はさっき車でとおった道じゃないか!
左の写真の南側の山に堀切があった。
北側の堀切である。
291mの三角点のあるピーク部は小さな
平坦地があるだけである。これが主郭である。

氷の沢館(旧美和村氷の沢)
下桧沢館と同じ山系にあり、その800m南にあり、日帰り温泉「ささの湯」からは北1.5kmに位置する山にある。
この地区を流れる緒川の標高が100m、城址のある山が260mであるので下桧沢館よりは30mほど低く,川面からは比高160mということになる。
城へは支谷の北奥に位置する元沢地区に向う途中の道沿いに城址案内柱があり、そこから登る道がある。

しかし、これは山を下る時に気が付いたことであり、登る時は知らなかった。
どう行くか分らず、山の南の先端部近くに山に入る道が見えた。

とりあえずこの道を行けば何とかなるだろうという見込みで進んでいく。
この道は谷底沿いに付いており、どんどん谷は深くなり、そのうちに道は無くなる。

この場合は得意の直攀以外方法はなく、山を登って行くと、ちゃんと人が通れる山道に出た。
この道が城へ行く正規の道のようであるが、実は城へ行く道などある訳がない。
この道を行くと小さな神社のある平場に出た。
ここを始め、城址かと思ったのであるが、広いがだらだらした平地はあるものの城郭遺構らしき感じは全くない。

後で気付くが、ここは1つ南側のピークであり、城址は鞍部を過ぎた北側のピークであった。
ただし、この付近の尾根は幅が10m程度あり、平坦である。
この尾根筋に堀切さえ入れれば、十分、城郭としての体裁は整うような感じである。

尾根に沿って北側の城址に向うが、まず、ほとんど埋もれた堀切が現れる。中央部に土橋がある。
さらに15mほど登るといよいよ腰曲輪である。結構、平坦である。
腰曲輪が2段ほどあるが、ここから山頂までは、また、だらだらした緩い斜面である。これは自然地形に近い。
山頂の本郭は長さ60m、幅15mほどの楕円形であるが、あまり平坦ではない。

中央部が若干盛り上がっている。西側の周囲を2段の帯曲輪が巡るが、切岸は明確ではない。
東側には4m下に明確な切岸を持った帯曲輪がある。その北側には竪堀がある。

本郭から北に続く尾根筋には2段ほどの不明確な曲輪があり、最後におなじみの堀切がある。
この堀切は比較的明瞭である。
構造や雰囲気は上桧沢城によく似るが、曲輪の切岸は上桧沢城に比べると不明確であり、自然地形に若干、手を加えた程度のものである。

どう見ても、ここも臨時の城である。
しかもかなり古い時代のもののようである。
ただし、南に延びる尾根筋の平場も含めると、かなりの人数が入れそうである。


新編常陸国誌では「三浦義隆の居館と伝えられる。」と書かれているが、ここも少なくとも居館ではない。
居館があったとすれば、西の麓、案内板のあった地がふさわしいような気がする。
ここは住民の避難場所であった可能性も高いのではないかと思われる。
その証拠が、右の写真に示す尾根伝いの南側にある小さな神社である。
あの神社こそがこの地の住民がこの山に昔から登っている証拠ではないだろうか。
それに尾根には古墳も存在するのである。

南側の腰曲輪である。
結構、平坦である。
山頂の主郭である。ここは平坦で
はなく、北側が盛り上がっている。
北に続く尾根筋にある堀切。
これが一番城郭遺構らしい。
左の堀切底から見た主郭方向の切岸。
中央部が通路のようになっている。

川崎城(常陸大宮市(旧緒川村)下小瀬

別名下小瀬城という。
旧緒川村役場のある小瀬支所から県道12号線を御前山野口地区に向かい約1.5km、緒川の東の台地上にある。
この谷あいの地区で緒川は蛇行し、一旦、東に蛇行した緒川が、西に蛇行し、再度、東に蛇行する。

城はこの蛇行する緒川に東側から突き出た台地先端部にあり、緒川に面する部分は崖となっており、この方面からの防御は心配ない。
城のある台地の標高は80m、西下を流れる緒川の標高が45mなので、この崖の比高は35mもあることになる。
城のある部分は1辺200mの正3角形であり、非常に平坦である。

これだけ見ると平城である。居館を置くには都合良い広さである。
城内は畑であり、城郭遺構としては北側に土塁が見られ、堀跡が南北に走っているのが確認される。
先端部が本郭であり、堀を介して東側の山側が二郭と思われる。
この東側は山になっており、この山が占領されれば、城内が丸見えとなるが、この山の東側は谷になっており、容易には占拠できないと思われる。
この山にも何らかの防御施設は存在すると思うが、そこまでは行かなかった。
この城は北の小瀬城の支城であり、小瀬の谷への南からの侵攻に対する備えの城である。

当然、小瀬氏一族の城である。
「新編常陸国誌」では小瀬氏初代、義春の二男孫二郎が築いたとしている。
那珂氏を駆逐し、この地が佐竹領となった南北朝後期の頃であろう。
この城の小瀬氏は9代で後継ぎがなく断絶してしまい、佐竹氏の家臣、川崎五郎が入ったというが、1代で秋田に去ったという。

西端の本郭部分は畑と果樹園である。 北端、崖縁に土塁が残る。 南側に残存する堀跡。

上桧沢城(常陸大宮市(旧美和村)桧沢)
「かみひざわ」と読む。
常陸大宮市の美和支所(旧美和村役場)がある高部城下の高部地区から、緒川に沿って県道29号線を小瀬方面に下り、桧沢地区に入ると満福寺がある。
この付近の川面の標高が120m、寺は一段と高い河岸段丘上にあり、標高が150m。
ここはテーブル状の台地である。東原遺跡がこの場所であり、縄文土器片が見られた。
この満福寺の北側に見える標高300mの山が城址であるが、寺からは直線で600mほどある。
道なんてある訳ない。寺の東側に道があり、寺の裏山の尾根に出る。そのまま尾根を歩いて行けば、城址ではあるが、ほとんど藪歩きである。

右の写真は満福寺前から北側にそびえる城址のある山を撮影したものである。
2つのピーク(この2つのピークも物見台であったかもしれない。)を越えて、比高150mを登りきるとようやく城址である。
歩く距離としては1kmだろうか。

所要時間は30分。(これは管理人の足だから30分で済んでいるのである。)苦労した割には、遺構は大したことはない。
これがこの城である。ただ、歴史の証人に会いに行っただけである。
城は、2,3段の段郭があり、北東に下る尾根に堀切が1本あっただけである。
明確な城郭遺構はこの堀切と堀切から下る竪堀だけである。

茨城県重要遺跡報告書には、この城について次のように記述されている。
「美和村役場から東へ約3km、満福寺北側の山頂(標高300m)にあり、ふもとの熊久保の集落との比高差約150mの高さにある山城である。
この城跡は、東西約25m、南北約15m(最大値)の四角形の本丸跡を中心に、高さ約3mの土塁、更に1段下がって高さ約6m(最大値)の土塁が、北側及び西側に築かれているが、桧の木、雑木が一面に植えられて全体の遺横を見通すことはできない。

 なお、この本丸跡(山頂)から南東側の尾根にそって約80m下ったところに幅6〜7m、長さ18mの平担地がある。
ただしこの山城との関係は明確ではない。」
この記述では土塁と言っているが、いわゆる「土塁」は存在していない。
ここでいう「土塁」は切岸のことである。土塁を切岸に置き換えれば、高さ等の数値は妥当である。
山頂の本郭は比較的平らであり、実測しても記述のとおり東西25m、南北最大15mの大きさであった。
ここは明らかに人工的である。郭の形状は四角形に近いが東側が広い「卵型」といえよう。
腰曲輪は西側から北側にかけて2段存在する。本郭15m下、北東に延びる尾根に小さな堀切が1本ある。

南西の尾根にある平坦地は、記述のとおり確かに存在していた。
おそらくこれは物見台であろう。ここから傾斜が急になる。
麓の満福寺。ここが居館ではないか。この
寺の東の道を進む。
途中にあるピーク。ここは物見台であった
のだろうか。
ここが本郭である。意外と平坦であり、人
工的である。
本郭の北東15m下にある堀切なのである
が、埋没してしまっている。
西側の腰曲輪から見た本郭。 南東の尾根筋の平場。物見台であろう。

茨城県重要遺跡報告書の記述を続ける。
「上桧沢城の成立経過については詳細不明である。
佐竹7代義胤の5男五郎景義が高部(美和村高部)に居住し、地名を名字にし、高部氏を称した。
その景義の2男鹿義が桧沢に居住し、桧沢彦四郎威義となり、築城したものと思われる。
その時期は1300年以降頃と思われる。
それ以降の城主は不明であるが、佐竹宗家と山入庶子家との対立の関係の中で、正長元年(1428)佐竹族の山入一門であった依上三郎が佐竹宗家に反抗して挙兵した時、高久右馬介入道義景(高久氏3代一東茨城郡桂村高久)と一緒に篭城した桧沢助次郎が記録に見えるが、この戦に敗れて桧沢氏は滅亡したようである。
その時をもって城は廃せられたのではないかと推測される。」

この記述のとおり、城の構造は古い感じであり、1428年ころ廃城になったという記述は妥当なものと思える。
ここは、あくまで緊急時の避難場所である。
おそらく、居館は満福寺の場所あたりにあったのであろう。 
満福寺付近は高台であり、しかも、北に山を背負った南向きの場所である。
縄文時代の遺跡が立地しているように、生活の場としては非常に理想的な場所である。