下桧沢館(常陸大宮市(旧美和村)下桧沢)
上桧沢城の南、緒川を隔てて対岸の標高291mの山上にある小城郭。
氷の沢館がちょうど800m真南に位置する。
東の緒川の流れる谷にある東の宿地区の標高が135mというので比高は150mほどである。
ヤブレンジャーツアーで攻略を試みる。

しかし、この館、どうやって行くのか誰も分らなかった。
結果から言えば城のある山の直ぐ、西側を完全に舗装された林道がとおり、途中に駐車場のある場所がある。
この場所がすでに標高250mあり、ここから南東に見える山に高さで40mほど登れば良いのである。
ここから城址まではわずか10分程度である。ところが、そんなことは知らない。
似た感じの山がいくつもあり、どれが城のある山か分らない。林道を走りまわり、目ぼしい山に登ってみるが何もなし。
仕方が無いので東の山麓に下りる。そこで館入口の標識を発見する。そこを辿れば間違いないということで、谷間の道をせっせと比高100mほど登る。
もう完全に足に来てしまい。足がガクガク。尾根らしきところに出るが、その直前の道が竪堀状なのである。(本物の竪堀かもしれない。)
やっと来たかと期待が膨らむが、頂上に出てみると、なんとそこは先ほど車で走りまわった林道である。
ここで完全に座り込む。
その後、まだ体力が残っている元気な斥候隊が探し回り、何とか城址に至るのだが、そこには堀切が2本、山頂に20m×10mの広さの主郭と思われる平場と,そこから東に延びる尾根が若干、削平になっている場所があるに過ぎない。

これはどう見ても、戦闘用の城なんかではなく、物見台、狼煙台の類である。
高沢⇒河内⇒花立山⇒高部と続く、狼煙リレーがここを通り、高館⇒小瀬と続いたのだろう。
(もう1本が花立山⇒小舟⇒小瀬というルートだろう。)

新編常陸国誌では「藤原義種の居館と伝えられる。」と書かれているが、少なくとも居館ではない。
居館があったとしたら東の麓だろう。そこには、ちょうど「堀の内」という地名もある。

東の麓からの登り道。尾根に出る直前
は御覧のように竪堀状(本物かもしれない。)
左の竪堀状の道を登りきると林道が・・。
この道はさっき車でとおった道じゃないか!
左の写真の南側の山に堀切があった。
北側の堀切である。
291mの三角点のあるピーク部は小さな
平坦地があるだけである。これが主郭である。

氷の沢館(旧美和村氷の沢)

下桧沢館と同じ山系にあり、その800m南にあり、日帰り温泉「ささの湯」からは北1.5kmに位置する山にある。
この地区を流れる緒川の標高が100m、城址のある山が260mであるので下桧沢館よりは30mほど低く,川面からは比高160mということになる。
城へは支谷の北奥に位置する元沢地区に向う途中の道沿いに城址案内柱があり、そこから登る道がある。

しかし、これは山を下る時に気が付いたことであり、登る時は知らなかった。
どう行くか分らず、山の南の先端部近くに山に入る道が見えた。

とりあえずこの道を行けば何とかなるだろうという見込みで進んでいく。
この道は谷底沿いに付いており、どんどん谷は深くなり、そのうちに道は無くなる。
この場合は得意の直攀以外方法はなく、山を登って行くと、ちゃんと人が通れる山道に出た。
この道が城へ行く正規の道のようであるが、実は城へ行く道などある訳がない。
この道を行くと小さな神社のある平場に出た。
ここを始め、城址かと思ったのであるが、広いがだらだらした平地はあるものの城郭遺構らしき感じは全くない。

後で気付くが、ここは1つ南側のピークであり、城址は鞍部を過ぎた北側のピークであった。
ただし、この付近の尾根は幅が10m程度あり、平坦である。
この尾根筋に堀切さえ入れれば、十分、城郭としての体裁は整うような感じである。

尾根に沿って北側の城址に向うが、まず、ほとんど埋もれた堀切が現れる。中央部に土橋がある。
さらに15mほど登るといよいよ腰曲輪である。結構、平坦である。
腰曲輪が2段ほどあるが、ここから山頂までは、また、だらだらした緩い斜面である。これは自然地形に近い。
山頂の本郭は長さ60m、幅15mほどの楕円形であるが、あまり平坦ではない。

中央部が若干盛り上がっている。西側の周囲を2段の帯曲輪が巡るが、切岸は明確ではない。
東側には4m下に明確な切岸を持った帯曲輪がある。その北側には竪堀がある。

本郭から北に続く尾根筋には2段ほどの不明確な曲輪があり、最後におなじみの堀切がある。
この堀切は比較的明瞭である。
構造や雰囲気は上桧沢城によく似るが、曲輪の切岸は上桧沢城に比べると不明確であり、自然地形に若干、手を加えた程度のものである。

どう見ても、ここも臨時の城である。しかもかなり古い時代のもののようである。
ただし、南に延びる尾根筋の平場も含めると、かなりの人数が入れそうである。
新編常陸国誌では「三浦義隆の居館と伝えられる。」と書かれているが、ここも少なくとも居館ではない。
居館があったとすれば、西の麓、案内板のあった地がふさわしいような気がする。
ここは住民の避難場所であった可能性も高いのではないかと思われる。

その証拠が、右の写真に示す尾根伝いの南側にある小さな神社である。
あの神社こそがこの地の住民がこの山に昔から登っている証拠ではないだろうか。
それに尾根には古墳も存在するのである。

南側の腰曲輪である。結構、平坦である。 山頂の主郭である。
ここは平坦ではなく、北側が盛り上がっている。
北に続く尾根筋にある堀切。
これが一番城郭遺構らしい。
左の堀切底から見た主郭方向の切岸。
中央部が通路のようになっている。

川崎城(常陸大宮市(旧緒川村)下小瀬

別名下小瀬城という。
旧緒川村役場のある小瀬支所から県道12号線を御前山野口地区に向かい約1.5km、緒川の東の台地上にある。
この谷あいの地区で緒川は蛇行し、一旦、東に蛇行した緒川が、西に蛇行し、再度、東に蛇行する。
城はこの蛇行する緒川に東側から突き出た台地先端部にあり、緒川に面する部分は崖となっており、この方面からの防御は心配ない。
城のある台地の標高は80m、西下を流れる緒川の標高が45mなので、この崖の比高は35mもあることになる。
城のある部分は1辺200mの正3角形であり、非常に平坦である。

これだけ見ると平城である。居館を置くには都合良い広さである。
城内は畑であり、城郭遺構としては北側に土塁が見られ、堀跡が南北に走っているのが確認される。
先端部が本郭であり、堀を介して東側の山側が二郭と思われる。
この東側は山になっており、この山が占領されれば、城内が丸見えとなるが、この山の東側は谷になっており、容易には占拠できないと思われる。
この山にも何らかの防御施設は存在すると思うが、そこまでは行かなかった。
この城は北の小瀬城の支城であり、小瀬の谷への南からの侵攻に対する備えの城である。

当然、小瀬氏一族の城である。
「新編常陸国誌」では小瀬氏初代、義春の二男孫二郎が築いたとしている。
那珂氏を駆逐し、この地が佐竹領となった南北朝後期の頃であろう。
この城の小瀬氏は9代で後継ぎがなく断絶してしまい、佐竹氏の家臣、川崎五郎が入ったというが、1代で秋田に去ったという。

西端の本郭部分は畑と果樹園である。 北端、崖縁に土塁が残る。 南側に残存する堀跡。

上桧沢城(常陸大宮市(旧美和村)桧沢)

「かみひざわ」と読む。
常陸大宮市の美和支所(旧美和村役場)がある高部城下の高部地区から、緒川に沿って県道29号線を小瀬方面に下り、桧沢地区に入ると満福寺がある。
この付近の川面の標高が120m、寺は一段と高い河岸段丘上にあり、標高が150m。
ここはテーブル状の台地である。東原遺跡がこの場所であり、縄文土器片が見られた。
この満福寺の北側に見える標高300mの山が城址であるが、寺からは直線で600mほどある。
道なんてある訳ない。寺の東側に道があり、寺の裏山の尾根に出る。そのまま尾根を歩いて行けば、城址ではあるが、ほとんど藪歩きである。
右の写真は満福寺前から北側にそびえる城址のある山を撮影したものである。
2つのピーク(この2つのピークも物見台であったかもしれない。)を越えて、比高150mを登りきるとようやく城址である。
歩く距離としては1kmだろうか。
所要時間は30分。(これは管理人の足だから30分で済んでいるのである。)苦労した割には、遺構は大したことはない。
これがこの城である。ただ、歴史の証人に会いに行っただけである。
城は、2,3段の段郭があり、北東に下る尾根に堀切が1本あっただけである。
明確な城郭遺構はこの堀切と堀切から下る竪堀だけである。

茨城県重要遺跡報告書には、この城について次のように記述されている。
「美和村役場から東へ約3km、満福寺北側の山頂(標高300m)にあり、ふもとの熊久保の集落との比高差約150mの高さにある山城である。
この城跡は、東西約25m、南北約15m(最大値)の四角形の本丸跡を中心に、高さ約3mの土塁、更に1段下がって高さ約6m(最大値)の土塁が、北側及び西側に築かれているが、桧の木、雑木が一面に植えられて全体の遺横を見通すことはできない。

 なお、この本丸跡(山頂)から南東側の尾根にそって約80m下ったところに幅6〜7m、長さ18mの平担地がある。
ただしこの山城との関係は明確ではない。」
この記述では土塁と言っているが、いわゆる「土塁」は存在していない。
ここでいう「土塁」は切岸のことである。土塁を切岸に置き換えれば、高さ等の数値は妥当である。
山頂の本郭は比較的平らであり、実測しても記述のとおり東西25m、南北最大15mの大きさであった。
ここは明らかに人工的である。郭の形状は四角形に近いが東側が広い「卵型」といえよう。
腰曲輪は西側から北側にかけて2段存在する。本郭15m下、北東に延びる尾根に小さな堀切が1本ある。


南西の尾根にある平坦地は、記述のとおり確かに存在していた。
おそらくこれは物見台であろう。ここから傾斜が急になる。
茨城県重要遺跡報告書の記述を続ける。
「上桧沢城の成立経過については詳細不明である。
佐竹7代義胤の5男五郎景義が高部(美和村高部)に居住し、地名を名字にし、高部氏を称した。
その景義の2男鹿義が桧沢に居住し、桧沢彦四郎威義となり、築城したものと思われる。
その時期は1300年以降頃と思われる。
それ以降の城主は不明であるが、佐竹宗家と山入庶子家との対立の関係の中で、正長元年(1428)佐竹族の山入一門であった依上三郎が佐竹宗家に反抗して挙兵した時、高久右馬介入道義景(高久氏3代一東茨城郡桂村高久)と一緒に篭城した桧沢助次郎が記録に見えるが、この戦に敗れて桧沢氏は滅亡したようである。
その時をもって城は廃せられたのではないかと推測される。」
麓の満福寺。ここが居館ではないか。この
寺の東の道を進む。
途中にあるピーク。ここは物見台であった
のだろうか。
ここが本郭である。意外と平坦であり、人
工的である。
本郭の北東15m下にある堀切なのである
が、埋没してしまっている。
西側の腰曲輪から見た本郭。 南東の尾根筋の平場。物見台であろう。

この記述のとおり、城の構造は古い感じであり、1428年ころ廃城になったという記述は妥当なものと思える。
ここは、あくまで緊急時の避難場所である。
おそらく、居館は満福寺の場所あたりにあったのであろう。 
満福寺付近は高台であり、しかも、北に山を背負った南向きの場所である。
縄文時代の遺跡が立地しているように、生活の場としては非常に理想的な場所である。