ひたちなか市の城館2
館山城(ひたちなか市館山)
館山城は那珂湊の市街地の北、浄光寺の建つ標高17m、比高約13mの独立丘、館山にあった。
この名前、「館(たて)」があったことが由来であり、城館であることは間違いない。
しかし、この名前を持つ城、いったい全国にいくつあるのか?どこの「館山城」か、混乱する。
しかし、この名前が定着した今となってはどうにもならない。
「要害城」、「城山城」も似たようなものであるが・・・。
この丘の北東側は台地に続くが、台地に続く部分、北東側は標高が一旦、約11mと低くなるため、ここは独立丘あるいは独立した小山といった感じである。
丘の大きさは東西約200m、南北約120m。
北東下には名平洞という溜池がある。
古い航空写真を見ると、丘周囲は中丸川の開析した沖積地に発達した水田であり、戦国時代当時は北東側以外の3方は湿地帯に囲まれていたと思われ、かなりの要害の地であったと思われる。
那珂湊地域では最も大きな城であるため、ここが地域支配の拠点であり、また天然の物見台でもあることから南を流れる那珂川の水運を監視、管理する役目があったものと想定される。
丘上には浄光寺を中心に7つの寺があり、寺の建つ場所以外は一面の墓地である。
遺構は東側から登る道沿いと浄光寺本堂裏に土塁の残痕が見られる。本堂北側の崖は鋭く、城の切岸といった雰囲気を感じさせる程度である。
また、西側にある正徳寺と清心寺の西側の墓地の部分が窪んでおり、堀跡と思われる。
古い航空写真を見ると寺が建つ東側が主郭であり、西側の径傾斜が緩やかな墓地になっている部分に堀があり、2段ほどの曲輪があった感じである。
「新編常陸国誌」には「大掾の末裔小泉左京亮重幹が築き、永禄年間に廃城になった。」と記載されている。
小泉左京亮重幹は平安末期の人物であるため、この記述によると平安末期の築城ということになる。
永禄年間はこの地は水戸の江戸氏の領土であり、江戸氏の城だったと思われる。
廃城になったのはこの場所が那珂川から約1q離れており、那珂川の水運と鹿島灘の海運を管理するには不便だったためだろう。
その移転先こそが現在の「い賓閣」がある場所である。
物流拡大による経済活動の活発化が廃城の要因だったのではないかと思われる。
@浄光寺山門は佐竹時代の水戸城の城門という。 | A浄光寺本堂裏に土塁の残痕がある。 ここの切岸は鋭い! |
なお、主郭部に建つ浄光寺は親鸞の弟子によって開基された寺で、江戸氏の祈願寺であったという。
始めは水戸の吉田枝川にあり、その後、水戸城内に移り、佐竹氏の水戸城攻略後、この地に移されたものという。
なお、この寺は幕末に天狗党の乱にも巻き込まれている。
元治元年(1864)の秋、天狗党騒動は激化、8月中旬から10月23日の終結までの2か月間、ここ那珂湊、大洗一帯が戦場となる。
この館山には、武田耕雲斎を中心とする天狗党の一隊が布陣し、幕府の追討軍や諸生派と対峙した。
このころ那珂湊には、水戸藩主名代として、江戸より領内鎮撫のため下向した支藩の宍戸藩主松平頼徳の率いる一隊が布陣しており、諸生派らと戦闘を交えていた。
ここ浄光寺も兵火を被り、荘厳を極めた十一間四面の本堂も失った。
この戦いは浄光寺に本拠をおいた武田耕雲斎らの一行がこの地を脱出して終了する。
現在、浄光寺の墓地には、この戦いで戦死した追討軍・福島藩兵の墓石が10基建っている。
天狗党は敦賀で壊滅するが、その流れを組む集団は復活し、水戸藩の主導権を握り、それまでの主流諸生党を粛清する。
浄光寺は住職は諸生派の頭領市川三左衛門の縁戚であったため、諸生党に通じていたとされ、明治維新後しばらくの間当地から追放され、寺も廃寺となり、史跡の面影を失った。
しかし、檀家の運動により、明治11年に再興され今に至る。なお、山門は佐竹氏時代の水戸城の門と伝わる。
富士の上館(ひたちなか市富士の上)
那珂湊漁港を見下ろす橿原神宮の地が館跡である。
100m×60mの規模を持つ。北から湊方面に延びる台地の南端部に当たり、標高は20m、西側は比高8mの急坂である。
神社の南東側に境内からの高さ約2m、南東下の道路からの高さ約5mの土塁がある。土塁下には堀の痕跡が認められる。
その反対側、境内北西側にも土塁が存在するが、台地続きの北側にはない。
この部分は土塁が破壊され、堀を埋めたような感じにも見える。
橿原神宮は火災に会い、寛文12年(1672)にこの地に移り再建されたものという。
この地は富士の上遺跡として弥生、古墳時代の遺跡と重複しており、遺物や住居跡が検出されている。
しかし、城館としての記録は確認できない。
この丘からは那珂湊の漁港が良く見えため、海運、漁業と関係がある館かもしれない。
神社の社殿の周囲をコ字形に土塁で覆うこともあるので神社建設に伴うようにも思える。
しかし、南東側の土塁は大きく、堀も持つので神社の周囲を巡る土塁の規模からは大きく逸脱する。
また、土塁の位置が社殿から離れすぎているため、神社に伴うものではないと思われる。
北側、北西側に堀が存在したようにも見えるが、現状では何とも判断できない。
@南東側の土塁間に開く入口は後付けだろう。 | A境内南東側の土塁 |
B神社境内、本殿の左右に土塁がある。 | C境内南西端は高さが約8mの切岸。 先に那珂湊の漁港が見える。 |
大夫屋敷(ひたちなか市高場)
JR常磐線佐和駅の西約400mにある「上高場公園」が大夫屋敷の跡である。この館については勝田市史に測量図が掲載されている。
それによるとこの地に湧水があり、湧水による池を取り込み土塁を配置した屋敷だったようである。
構造を見た限り、分社された神社が祀られた土塁に囲まれた約30m四方の場所が北東側に存在したり、池の中に島があったりし、多少の戦闘も考慮した「館」とは思えない。
土塁はあるが、これは神社に伴う神聖な場所を守るためのものと思える。
居住や管理を目的とした「屋敷」がふさわしい感じである。
那珂台地に多く存在する小城館同様、水利権を持ち、付近の水田を管理していたのではないかと思われる。
那珂台地の小城館と決定的に異なるのは戦闘的な要素が極めて希薄な点である。
勝田市史掲載図を元に再現 | 昭和36年国土地理院撮影の航空写真に写る大夫屋敷、池が見える。 |
この付近はほぼ平坦な地ではあるが、小さな河川が流れる低地部があり、若干起伏があった。
それらの河川は湧水が水源であり、河川に雨水が合流し台地を開析し低地部が形成された。
その低地部はかつては水田であり、微高地が宅地や畑に利用されていた。
この大夫屋敷は低地に近い台地縁に近い場所にあり、湧水により池があったらしい。
そこから小さな河川が流れ出していたようである。この状況は那珂台地の場合と同じである。
ここは佐和駅に近いという絶好の立地のため、現在は急激な宅地化でかつての風景は所々に見られるのみである。 土地の高低も分からなくなり、道路も付け替えられてしまっている。 ←この上高場公園に来てみると土塁の残痕のような高まりの中を遊歩道が通ったりしている。 完全な住宅地の中の公園となっている。 しかし、測量図に照らし合わせてみても、土塁と公園内の高まりの位置がどうも一致しない。 土塁の一部を利用したのではなく、両者は全く無関係なもののような感じである。 周囲は区画整理され、古い道はなくなり、碁盤の目のように道が造られている。 湧水を利用して造られた池も痕跡さえない。 現地には解説板さえなく、この屋敷が存在していたということ自体、まったく無視されている。 中世の屋敷が存在していたという雰囲気は全くない。 かつて、室町時代前期ころ、この高場の地は、村松虚空蔵の知行地であり、その知行地の管理人、代官、禰宜である「大夫」の事務所、居館がここだったという。 戦闘的な要素がほとんど感じられないことからもそれが裏付けられる。 |
しかし、山入の乱でこの地方が乱れると、佐竹氏や佐竹氏関係の寺社の所領が有力な武家により押領され、この地も水戸の江戸氏に奪われてしまったという。
それにより、大夫もこの地を去ったという。最近まで遺構が残っていたというので、誰かが代わりに入り継続して使用されていたものと思われる。
柴田カジ屋敷(ひたちなか市中根)
JR勝田駅から東の国道245号線方面に延びる昭和通りの茨城高専南東の「中野・上野交差点」から南に新しい道が延びる。
この道の行き止まりの場所、交差点から約1qの場所にこの屋敷があった。 「あった。」というのは湮滅していることであるが、昭和時代末まではあったようである。 勝田市史によると東西約40m、南北約80mの長方形をしており、高さ約1mの土塁が巡っていたという。 堀が存在したという記録はない。(土塁があったので存在していたのかもしれない。) 屋敷の西側は中根川が流れる低地であり、この低地の下流側、直線距離で南南東約1qに中根城が存在する。 この屋敷については何らの伝承もないという。 中根城が近いため、中根城の城主の家臣の居館であった可能性もあるという。 また、「カジ」は「鍛冶」のことであり、鍛冶職人の屋敷であった可能性もあるという。 ただの屋敷なら区画を示す程度の低い土塁で十分であろう。 後者の場合、鉄滓などが出土するはずであるがどうであったのだろうか? ←は昭和36年国土地理院撮影の航空写真に写る柴田カジ屋敷、 左の低地に中根川が流れる。この下流に中根城がある。 |
大山館(ひたちなか市馬渡)
勝田駅から東に延びる大通り「昭和通り」沿い南側にある本郷台団地の北東端「日本加工紙」の工場付近が館跡という。
東は本郷川の低地であり、比高は15mほどあり、旧勾配である。
この本郷川の低地を背にした台地西側縁部に立地する。
すでに湮滅してしまったが、勝田市史によると東西100m、南北150mの方形館であり、高さ1.5mの土塁が巡っていたという。 |
昭和36年国土地理院撮影の航空写真に写る館
鹿志村館(ひたちなか市稲田)
勝田養護学校のすぐ東側にあったが、館跡に稲田十文字から佐和駅に延びる道路ができてほとんど湮滅してしまった。
この付近は水田となっている低地が複雑に入り組み、その中の微高地上に立地していたようである。
写真の竹やぶ付近が館の名残か? 鹿志村氏の館と言われる。 この付近には鹿志村姓が多く、子孫かもしれない。 航空写真は昭和49年国土地理院撮影の館跡付近。方形の館だったようである。 |
武田館(ひたちなか市武田)
常磐線が那珂台地に登る口の西側に秋尾神社がある。
ここが武田館の跡と言われる。
言うまでもなく、甲斐武田氏発祥の地である。
八幡太郎義家の弟新羅三郎義光の3男義業が、この地を領し、地名を取って「武田」を名乗る。 しかし、義業の子義清は、この地の豪族たちと争いを起し、甲斐国に移る。 それが甲斐武田氏の起こりであるという。 ちなみに2男が興したのが佐竹氏である。 館跡の秋尾神社は2段になり、北側の道路が掘跡のようである。 神社の西に武田館が復元されている。 武田義清時代の館をイメージしたものという。 簡素な武家屋敷である。 航空写真は昭和49年国土地理院撮影の館跡付近。 |
秋尾神社境内は2段になっている。 | 神社西に復元された武田氏館 |
天神山館(ひたちなか市津田字天神山)
天神山団地となって湮滅してしまったが、勝田市史によると南が那珂川の低地、東側から北側にかけて谷津となっている西から東に突き出た比高20mほどの半島状台地を掘り切った三角形の館であったという。
鳥瞰図は勝田市史掲載図を参考に描いたものである。 館跡の西側からは戦国時代の小型の五輪塔が多数出土したという。 おそらくこの館の館主に係るものであろう。 館主は不明であるが、おそらく江戸氏家臣の館であろう。 |
新平館(ひたちなか市三反田)
しんぺい」ではなく「にいだいら」と読むのだそうである。
三反田小学校の西側、新平溜の北側の台地縁にあったという。
勝田市史によると方形単郭の館であったというが、耕地化され湮滅したという。 鎌倉時代に新平氏が築き、その後、江戸氏家臣菊池氏が住んだという。 |
堀口館(ひたちなか市堀口)
堀口小学校の南西側、谷津を挟んで北西側から南東側に突き出た半島状の台地先端部が館跡である。
館跡は杉林であるが、平場、切岸、南東下に延びる登城路と思われる部分が認められるが、土塁は確認できない。
先端部は櫓状になっている。
すぐ西側まで宅地化されつつあり、畑に一部堀跡のようなものが認められる。
館主等は分からない。 鳥瞰図は昭和49年国土地理院撮影の館跡付近。
@ここは虎口か | A館内部は藪状態 | B館北西端には堀跡らしいものがある。 |
筑波館(ひたちなか市市毛)
国道6号線が那珂川の低地から那珂台地に登った場所のすぐ西側が館跡である。
南側が那珂川の低地に面した台地端部を利用している。
しかし、すでにそこは宅地化されており、遺構はまったくない。何となく道路が堀跡のような感じもするが・・。 江戸氏家臣の館であり、枝川城の支城と思われる。 写真は那珂川の低地側から見た館跡である。 |