ひたちなか市の城館2

大山館(ひたちなか市馬渡)
勝田駅から東に延びる大通り「昭和通り」沿い南側にある本郷台団地の北東端「日本加工紙」の工場付近が館跡という。
東は本郷川の低地であり、比高は15mほどあり、旧勾配である。
この本郷川の低地を背にした台地西側縁部に立地する。
すでに湮滅してしまったが、勝田市史によると東西100m、南北150mの方形館であり、高さ1.5mの土塁が巡っていたという。
「前渡郷土誌」によると大山氏の館という。
南側から金くそが大量に出土しており、大山氏は鍛冶を業とし、その居館かもしれない。
鳥瞰図は勝田市史掲載図を参考に描いたものである。


鹿志村館(ひたちなか市稲田)

勝田養護学校のすぐ東側にあったが、館跡に稲田十文字から佐和駅に延びる道路ができてほとんど湮滅してしまった。
この付近は水田となっている低地が複雑に入り組み、その中の微高地上に立地していたようである。
写真の竹やぶ付近が館の名残か?
鹿志村氏の館と言われる。
この付近には鹿志村姓が多く、子孫かもしれない。
鳥瞰図は昭和49年国土地理院撮影の館跡付近。方形の館だったようである。

武田館(ひたちなか市武田)

常磐線が那珂台地に登る口の西側に秋尾神社がある。
ここが武田館の跡と言われる。
言うまでもなく、甲斐武田氏発祥の地である。
八幡太郎義家の弟新羅三郎義光の3男義業が、この地を領し、地名を取って「武田」を名乗る。
しかし、義業の子義清は、この地の豪族たちと争いを起し、甲斐国に移る。
それが甲斐武田氏の起こりであるという。
ちなみに2男が興したのが佐竹氏である。
館跡の秋尾神社は2段になり、北側の道路が掘跡のようである。
神社の西に武田館が復元されている。
武田義清時代の館をイメージしたものという。
簡素な武家屋敷である。
鳥瞰図は昭和49年国土地理院撮影の館跡付近。
秋尾神社境内は2段になっている。 神社西に復元された武田氏館

天神山館(ひたちなか市津田字天神山)

天神山団地となって湮滅してしまったが、勝田市史によると南が那珂川の低地、東側から北側にかけて谷津となっている西から東に突き出た比高20mほどの半島状台地を掘り切った三角形の館であったという。
鳥瞰図は勝田市史掲載図を参考に描いたものである。
館跡の西側からは戦国時代の小型の五輪塔が多数出土したという。
おそらくこの館の館主に係るものであろう。
館主は不明であるが、おそらく江戸氏家臣の館であろう。

新平館(ひたちなか市三反田)

「しんぺい」ではなく「にいだいら」と読むのだそうである。
三反田小学校の西側、新平溜の北側の台地縁にあったという。

勝田市史によると方形単郭の館であったというが、耕地化され湮滅したという。

鎌倉時代に新平氏が築き、その後、江戸氏家臣菊池氏が住んだという。

堀口館(ひたちなか市堀口)
堀口小学校の南西側、谷津を挟んで北西側から南東側に突き出た半島状の台地先端部が館跡である。
館跡は杉林であるが、平場、切岸、南東下に延びる登城路と思われる部分が認められるが、土塁は確認できない。
先端部は櫓状になっている。
すぐ西側まで宅地化されつつあり、畑に一部堀跡のようなものが認められる。
館主等は分からない。 鳥瞰図は昭和49年国土地理院撮影の館跡付近。

@ここは虎口か A館内部は藪状態 B館北西端には堀跡らしいものがある。

筑波館(ひたちなか市市毛)

国道6号線が那珂川の低地から那珂台地に登った場所のすぐ西側が館跡である。
南側が那珂川の低地に面した台地端部を利用している。
しかし、すでにそこは宅地化されており、遺構はまったくない。何となく道路が堀跡のような感じもするが・・。
江戸氏家臣の館であり、枝川城の支城と思われる。
写真は那珂川の低地側から見た館跡である。