ひたちなか市の城館1

 ひたちなか市周辺には、真崎浦周辺に立地する城郭があるが、これらの城郭については別にレポートしているので、ここではそれ以外の中小城館をとりあげる。

勝倉城(ひたちなか市勝倉)

那珂川の左岸、那珂川の低地を見下ろす標高23m、低地からの比高20mの台地の先端に築かれ、ひたちなか市立勝倉小学校、勝倉幼稚園の地が城祉である。
城のある台地は東側に侵食谷が入り、県道63号線が通っている堀跡とグランドの北東側に存在した堀で台地に続く部分を遮断してたようである。

主郭部は一辺、約250mのL形をし、3つの曲輪からなっていた。
このうち勝倉幼稚園付近が本郭であったと思われる。
曲輪間は堀と土塁で区画されていたが、堀と土塁のほとんどは失われている。
小学校の東端にある古墳は物見台であったという。

県道63号線(馬渡水戸線)となっている堀跡に沿って勝倉幼稚園側にも土塁が見られ、南東側にも土塁の痕跡と堀跡が見られる。
県道西側の防衛省勝倉官舎の地は外郭部であったと推定され、武田溜付近までに及ぶ広大な城域を持っていた可能性もある。
武田溜により台地下の水田の灌漑権を管理するとともに、南西側に「船渡」という地名があるように那珂川の河川港が存在し、その管理も行っていたものと思われる。
 
築城は「日本城郭体系」によると「鎌倉時代初期 嘉禄2年(1226)平井越後守明綱が築き、その後、大掾一族俊幹の子孫が居城した。」とあり、新編常陸国誌でも「吉田太郎広幹の第四子、勝倉四郎俊幹が居城した。」と記されている。
その後、江戸氏の水戸城奪取により、江戸氏の家臣飯島氏が城主になったが、天正18年(1590)佐竹氏の江戸氏攻撃で落城し、廃城となった。

本郭南側の那珂川低地より本郭を見る。 勝倉小学校西側(県道側)の土塁 小学校南東側に残された土塁

勝倉城(ひたちなか市勝倉)再訪
2019年の年末、12月28日、勝倉城があった場所、勝倉小学校の構内に15年振りに入った。
何しろ、小学校とカメラを持ったおっさんは最悪の組み合わせである。
入るのは休日しかない。当番の先生の了解を取って。
しかし、15年も経つと記憶はかなり薄れてしまっている。「こんなんだったけ?」
改めて見てみると、小学校や幼稚園の建設でほとんどの遺構は失われしまってはいるものの若干の遺構は残っていた。
写真を撮ってきたので追加アップ。


@本郭(左側)と三郭間を区切る堀と土塁は破壊され、
校庭になっている。東側から見る。建物は防衛省の官舎。

A本郭南東側の櫓台跡を本郭側から見る。
現在は土壇上に富士権現が祀られる。
堀は写真の土壇の反対側にあった。
B本郭北西端の土塁。
土塁の反対側は堀跡を利用した県道63号線が通る。
C本郭から南側の腰曲輪に下る搦手口は良好に残る。 D三郭南端の物見台と言われる古墳。

枝川城(ひたちなか市枝川)

水戸城の北東約1.5km 那珂川の北岸にあった。
水戸城の東を守る城郭であるとともに那珂川の水運を管理する渡し、河川港を併設していたと思われる。
主郭は東西約200m、南北約100mの長方形であり、対角線を県道232号線が通る。

周囲は土塁と堀が巡らされていたと言われ、道路が堀の位置らしいが、遺構はない。
この地は早戸川とその支流が枝のように分岐して流れ、那珂川に注いでいる。
このため、この地が枝川と呼ばれるようになったと言われるが、川は台地を浸食し、深い谷となっている。

川が浸食した谷と那珂川が天然の水堀となり、3方を囲み、平地に続く北西側に堀を巡らし、その外側は水田、湿地が存在し、今の姿から想像する以上の要害性を有していたと思われる。
城の形式は長方形の主郭の周囲に曲輪を配置した輪郭式であったらしい。
城域は径約500mと推定され、巨大な平城だったと思われる。
枝川小学校の地も曲輪の1つである。
主郭は広く、城主の居館の他、政庁、客殿があったのではないかと思われる。
その外側の曲輪は河川港に係る倉庫等の施設や家臣団の屋敷のみならず城下町も存在し、総構を有していたのではないかと思われる。

水戸城を奪取した江戸通房が応永33年(1426)一子通弘に築かせた。以後、子孫が枝川氏を名乗りこの城を管理した。
四代重氏は枝川播磨守を称し、江戸氏の旗本、野々上30騎の旗頭であったが、天正18年(1590)佐竹氏の江戸氏攻撃時に落城した。


本郭跡地(枝川小学校北側)道路が堀跡、
その右が館跡。
本郭の北西端部分 東側を流れる早戸川付近

新地館(ひたちなか市佐和)

 「あらじ」と読むそうである。
新地館は、国道6号線の佐和十文字から600mほど北西に入った通称、天道山と呼ばれる場所にある。
 館跡は山林になっており、この林は遠くからでも目立つ。
 平地城館は遺構の残存状態が不良の場合が多いが、幸いにも遺構は林の中に結構残っていた。
 館は輪郭式に近い構造であり、中央部に本郭に当る部分があり、その周囲の南側とそれ以外の方向から包むように2つの郭が取り巻く。
 全体の規模は、70m四方程度あり結構大型の部類に属する。
館周囲の堀は失われて、痕跡が認められる程度であるが、土塁は低くなっているが、一部認められる。
本郭に当る部分は遺構が良好に残り、幅5mの堀と高さ2mの土塁が見られる。
 東側から水路が館内に延びており、それに沿って土塁と土壇が存在する。
その土壇の一つに宝篋印塔が安置されている。館主が安置したものという。
本郭の堀。 本郭西側の郭内部。 南側から見た館跡。

 館の場所は真崎浦の最奥に位置し、北側に向かって緩く傾斜している。
また、すぐ西側は那珂市菅谷地区であり寄居城等の中小平地が多く立地している。
これらの城館は水路を管理する土豪の館であり、新地館も同様である。

現在は行政区分上、ひたちなか市側に入るが、地理的、機能的に那珂市平地城館群の範疇に入るものと考えられる。
館主については良く分からないが、江戸氏系の城館と額田小野崎氏系の城館の境目にあたる場所であり、どちらかの系統の館であったと思われる。
ひたちなか市側には那珂町平地城館群に属する鹿志村館等数館があるが、新地館を除いては姿を留めない。

中根城(ひたちなか市中根)

中根城は東中根台地の南西端、中根小学校の南西600mほどの所にある連郭式の城郭である。
 南側と西側は中丸川の低地を望み、北側は谷津状になっているため、東側のみ台地平坦部に続いている。

 

 本城は連郭式に3つの郭からなっていたようであるが、宅地化や農地化でかなりの遺構が失われている。

 さらには元治元年(1864)に天狗諸生の争乱時諸生党や幕府軍が修築して使っていたといい、とどめは、大平洋戦争末期、駐屯していた兵士が土塁下の断崖に壕を掘ったりして遺構の破壊に拍車をかけたそうである。

 なお、勝田市教育委員会が詳細な測量図を残しておりこれが結構参考になる。
遺構は特に台地辺部に良く残っている。
 

 西端が本郭であるが、100m四方以上の規模を持ち、周囲に低い土塁を持つ。
なお、西端には堀に隔てられた腰曲輪が存在する。
 本郭の東が二郭であるが、ここは民家である。
ここから東側は堀も土塁も失われ、いも畑である。

 『水府志料』に「何人の居所なる事を知らず」と記載されており、築城者や城主名については不明としている。
小田野辰之介の『常陸史略』には、「義頼の2男を那珂郡の中根に配して中根氏としたが、その後山入与義の3男言義が中根に移り中根尾張守と称した」と記されている。

また、『那珂郡郷土史』には、「佐竹氏の季年に至りて中根大蔵なるもの居り、蓋し言義の子孫ならん」としているが明確ではない。
築城年代は、出土遺物(古瀬戸類、常滑大甕、鉢形土器、石臼、焼けた土台石など)から鎌倉後期と推定されている。(勝田市史参考)

鎌倉時代後期にこの地に佐竹一族がいるのは不自然であり、当時は吉田氏がこの付近を支配していたはずである。
佐竹氏から養子が入った可能性もあるが、いずれにせよ吉田氏の一族が築城したものではないかと思われる。

尼ヶ弥館(ひたちなか市部田野)

国道245号線を東海村方面から南下し、ひたちなかICを過ぎると台地から中丸川の低地に道が下る。
館は道が低地に下りた右手(西側)にある北から張り出した尾根状台地の先端部にある。
周囲の低地は海の入り江が堆積で埋まった跡であり、今は水田地帯であるが戦国時代は湿地帯であったと思われる。
それなりに当時は接近困難で要害堅固な場所であったと思われる。

この岡の比高は15m程度であり、尾根状台地全周に岩が剥き出ている。
この台地先端部には金上神社があり、ここも岩がむき出しになっている。
この岩は部田野石といい、古代から古墳の石室用にこの場で切り出されて使われていたという。
岩が剥き出しになっているのは切り出された名残であろう。

金上神社の社殿は岩の陰にあり、まるで岩屋のようである。
神社のある場所はテーブル状になっているがここは岩を切り出し加工した場の跡地であろう。
肝心の館はこの岩の上である。

岩の上には南側から登ることができる。
岩の上は狭いが比較的平坦になっている。
北に向かうと30mほどで主郭部と推定される場所に出る。南北30m、東西5m程度の広さに過ぎない曲輪である。
その北側は5mほど低くなり、二重堀切となる。堀切の間には長さ10m程度の曲輪となっている。
幅は3m程度に過ぎず、東西の斜面は急であり竪堀が延びる。
南の低地から見た館跡。
半島状台地の先端部を利用した
小城館である。
先端部は崖、この岩は部田野石といい
古墳の石室用に切り出された。
これが本郭。
といってもただの藪に過ぎない。
北西側は台地を2本の堀切で遮断している。

この尾根状台地の最も狭い部分がこの付近である。
その先は登りとなり、台地の幅が扇状に広がる。
こちらにも何らかの城郭遺構があるかと思い行ってみるが、行けども行けどもただの藪であり、堀も土塁も何もない。
結局、先端部から60m位までが城域であったと思われる。
二重堀切が城域の外れであるようである。

この館の歴史は全く分からない。
規模も小さく物見の砦程度のものである。
果たしてどこの城を根拠地とした者に属していたものであろうか?

(追記)
後で茨城県遺跡地図を見たら、館跡の位置が上記の遺構のある尾根状台地ではなく、その東側の台地にマーキングされているではないか!
下の航空写真は国土地理院が昭和49年に撮影したものである。
左側の木々に覆われた半島状の部分が上記の遺構がある場所である。

右の畑となっている部分が茨城県遺跡地図記載の場所である。
こっちの台地の方が居館を置くのには適している。
そこで、その場所に行ってみた。

しかし、一面畑で何もない。
ここに館が存在したら台地を東西に走る堀で遮断していたはずである。
しかし、堀や土塁が存在した痕跡もすでに確認できない。

い賓閣(ひたちなか市湊中央)
 本来なら「い」を漢字で書くべきであるが、漢字が出ない。
「ひたちなか市」のHPを見ても「い」はひらがなである。
HP作成者も悩んだことだろう。
ちなみに「い」は「寅」という字の上にカタカナの「タ」を付けた漢字である。

 場所は那珂湊漁港を見下ろす湊公園がその場所である。
この台地は東西に長い比高15mほどの独立台地であり、南に那珂川が流れ、北は那珂湊の市街地である。

台地上は西半分が高校や小学校の敷地となっており、東の突端がい賓閣跡、すなわち湊公園である。
 そもそもい賓閣は、元禄11年(1698)水戸藩主水戸光圀によって水戸徳川家の別邸として築かれたものであり、幕末には徳川斉昭によりは、反射炉、水車場、水門の帰帆、観涛所なども併設した。
別荘ではあるが、海上の監視、港の監視の役目もあったようであり、かなり大きな建物が建てられていた。

 しかし、幕末の元治元年、天狗党の騒乱で幕府方の本陣が置かれ対岸に本陣を置いた「天狗党」の渡河作戦で幕府軍が破れ、建物は焼失。
これを那珂湊戦争といっている。

い賓閣跡。湊公園。 湊公園西端に残る土塁。 公園西側の切通の道。かつての堀跡。

 その後、明治30年「湊公園」として整備され、今日に至っている。
 公園に行くには北側の市街から登る道と南西側の華蔵院駐車場辺りから登る道があるが、途中が切通になっている。
これは明らかに空堀の跡であろう。
ちなみに公園側にこの切通の上に沿って土塁がある。

 この公園はい賓閣跡として知名度があるが、その前身は佐竹氏の湊城であったという。
 那珂湊港を管理する上でまた那珂川の水運を管理するうえで格好の場所である。
しかも独立台地である。
ここに城を置かないほうが不自然である。

 おそらく佐竹氏が支配する以前は江戸氏が管理していたものであろう。
 佐竹氏の支配下に入ってから、佐竹氏の水軍担当の船奉行である真崎城主の真崎氏が城代として入城していることからも、海運、水運を管理する城であったことは明白である。
 切通の道は当時から堀底道であり、城域は那珂湊一校付近までの台地全体であったのであろう。
学校の敷地になっている部分の遺構は期待薄であるが、城域は東西650mに及ぶほどの広大なものであったと思われる。

ホームに戻る。