高原館(日立市十王町高原
名称は地名から取った仮のもの。
茨城県十王町は日立市の北の太平洋を望む町であり、海水浴や鵜の岬で代表される海沿いがメインである。
でも、今は日立市に吸収合併されて「十王町」としては消滅してしまっている。

戦国時代、十王は佐竹氏の重臣小野崎一族本家の拠点の山尾城があった。
今の十王中学校の地である。
十王の西は阿武隈山地の南端の多賀山地があり、山からは十王川が流れ出し、街道が山地を横断するように西に延びる。
今の県道60号線である。

この道を行くと、常陸太田市の里美地区の南部に至り、ここから福島の棚倉方面、水府方面、大子方面、常陸太田方面に通じる。
今は山間を通る交通量も少ない道であるが、戦国時代は太平洋沿いから内陸に通じる何本か存在した「塩の道」の1つであり、この街道筋を塩や海産物が内陸部に運ばれ、佐竹氏や小野崎氏に莫大な利益をもたらしたという。

この館は山尾城から十王川を遡ること約5q西にあり、ここで北の花貫方面と南の入四間(いりしけん)、常陸太田方面に通じる広域農道が交差する。
その交差点を見下ろす西側の山に館がある。
今ののどかな山間の田舎の風景からは想像もつかないが、交通の要衝であった可能性もあるが、第一には山尾城防衛上の西方面の重要な場所だった訳である。

県道60号線沿い西側から見た妙見社のある西側のピーク
街道の真正面に見えるため、西側を監視する城だということが分かる。
県道60号線沿い東側から見た館跡、2本の木が東のピーク

この館の存在は「Pの遺跡、侵攻記」の記事で知り、チャレンジしてみた。
しかし、こんな山間である。
過疎が進み、人口は減少している、空家も多い。
山にはかつては多くの山道が縦横無人にあったようであるそれが、通る人もいなく、管理する人もいなくなりほとんど道は閉ざされ自然の中に埋もれてしまっている。

館の中心部には「妙見社」があるので、当然、参道が存在したはずであるが途中で分らなくなっている。
(航空写真を確認すると山の南斜面を東から登る道がある。
これが正規の登り道だったようである。
ただし、始めその道を行ったのであるが藪に阻まれ断念せざるを得なかった。)

かくなる上は得意?の藪をかき分けての直登である。
登攀始点は山頂の北東下を選定した。
理由はここから山頂がよく見えたからである。
たしかに途中までは道跡らしい部分はあったのであるが・・結局、道はなくなり、ひたすら藪の中の強行突破となった。

しかし、藪と言っても小竹、さらに野ばらがあり、最大の脅威「タラの木」が生え、倒木が逆茂木となって立ちふさがるのである。
十王川の流れる県道60号線付近の標高が206〜210m、館がある山頂は291m、けっこうな比高はあるが、道のない状態はそれ以上の比高に感じる。
ようやく山頂部まで到達するが、疲労困憊、息が上がる。

山頂部には重機が入った跡があり、木は切られ、そこら中が削られる悲惨な状態であった。
多分、山砂採取のための破壊ではないかと思うが酷い状況であった。
破壊を途中で止めたような感じであるが、休止しているのか、止めたのか判断できない。
東のピークから見た県道60号線、十王(海)方向。 @ ここが東のピークであるが、自然地形である。

でも、木が切られていたのでさすがに眺望は抜群であった。
この眺め、まさにここが物見の砦である証拠である。
山は東西2つのピークがあり、東西に長く、南北の斜面は急である。

2つのピークとも標高は291m、その間の鞍部は標高285mほどである。
東側のピーク@はほとんど自然地形であり、遺構は確認できない。
こちらからは東の十王方面がよく見える。


一方の西側のピーク、こちらは東のピークからは行けそうで行けない。
逆茂木と野ばらそしてタラの木に阻まれる。
↑Aは東のピークから見た西のピークであるが、その間は重機が山を削っている。
すぐそこなのであるが、野ばらとタラの木が立ち塞がるのである。

ようやく到達したその場所は・・・妙見社社殿の倒壊した廃墟があった。B
思わずゾクとする光景である。
しかし、そこは25m×15mほどの楕円型をしており、鞍部に通じる東側以外を高さ1mの土塁が覆う間違いない城郭であった。
虎口が南側にあり、登城路が下り、道沿いに下に4段ほどの腰曲輪が展開する。
山頂部からは東方向は見えない。
見えるのは西側方向のみである。

B西のピーク周囲は土塁が覆う。崩壊した妙見社が悲しい。 C 西のピークの南下には腰曲輪がある。番小屋があったかも。

非常に小規模なものであり、南斜面の腰曲輪Cは山頂で北風も防げ、日当たりも良いので番小屋があったのではないかと思われる。
西方向を優先して望めるため、この館は西側方向を重点的に監視する役目があったと思われる。
やはり、山尾城の西の防衛施設であるということになる。
山尾城が西を警戒しなくてはならない時期はいつか?
おそらく山入の乱のころまでの話ではないだろうか。
戦国末期、佐竹氏の支配が安定したころは、この付近一帯の警戒は不要であり、すでにこの館は使っていたとは思えない。

なお、この館の攻略後、帰還が大変であった。
登って来た道はとても戻る気はせず、重機が入ったと思われる道を行ったのだが、どれも途中で切れており、下る道が特定できない。
おそらく南側に下るのが正解ではなかったかと思うが、それは結果論。
北西に下る谷津があり、ピンクのリボンでマークが付いていたのでそこを下った。すると十王川に出た。対岸が県道60号線なのであるが、橋がない。
そこで、橋を探して岸を西に移動するが、山と川の間を行くことになり、しかも藪。どうしても橋は見つからない。
絶望的な状況に陥る。これはプチ遭難である。

最後の手段として強行渡河を決断する。
川幅の広い浅い場所を探し、靴と靴下を脱ぎ、Gパンを膝までたくし上げ、裸足で川床を横断する。さすが冬の川水は冷たいが、そんなこと気にしている余裕はない。
そしてようやく現実世界に生還。

もう2度と行かん。田舎の人知れぬ山城は怖い!

入四間館(日立市入四間町)
日立市というと太平洋に沿った工業都市であるが、この入四間館のある地も一応、日立市である。
なお、「入四間」、この名前、普通は読めない。「いりしけん」と読むのである。

ここは海とも全く隔離された阿武隈山地南端の多賀山地にある山郷である。
すぐ東に日立鉱山が位置し、日立市中心部からこの地を通り里川の谷に県道36号が通じる。
ここは内陸の里川沿いの谷から海に通じる街道筋であるが、街道を監視する城の存在は予想されたが、それらしいものは知られていなかった。。
しかし、やはりあった。

Pさんが「竹ノ内」という地名から発見したのである。
「竹ノ内」はだいたいにおいて城郭地名であり「館(たて)の内」が訛ったものという。
でも、城ではあったが、戦国時代の街道を監視する城館とは思えないものであった。

城はほとんど自然地形に近い古いタイプであり、背後に比較的広い平坦な尾根が続き、住民の避難城という感じであった。
伝承によるとこの地は平家の落人伝説がある。
平家の末裔が源氏の追手に襲撃された場合に避難する施設だったのかもしれない。

県道36号沿いから見た北の城址のある山
県道36号沿いの切岸上の民家の地が居館跡らしい。
館の場所は中里スポーツ広場の北の標高330mの山である。
中里スポーツ広場からの標高は80mである。

麓の民家周囲が切岸となっており、居館であったと思われる。
山には高橋工業さんの資材置き場裏から登るが、途中で道はなくなり、あとは直登となる。
しかし、この山の南斜面は急である。

山は北から南に張り出した尾根状であり、東西は沢で浸食された谷となっている。
山頂近くになると幅2mほどの帯曲輪が存在する。
この帯曲輪は山先端部を一周する。
肝心の山頂部であるが、そこは自然地形である。

物見程度のものがあったのであろう。
山頂部は長さ80mほどである。

北に向かうと地勢は下がり、井戸のような窪みがある。
直径7mほど、深さは3mほど。西には竪堀が下る。
この部分は堀切を兼ねた井戸であろう。
明確な人工遺構はここくらいである。

そのから北に向かう尾根は平坦で幅は15mほど。
このスペースには小屋掛けも可能であり、住民の避難用ではないかと思う。
多分、戦国時代には機能していなかった可能性が大きい。

@山頂部5m下、山頂部周囲を巡る帯曲輪 A北側にある井戸兼用の堀切 B北に延びる尾根上は平坦、避難スペースか?

この街道筋、海と山を結ぶルートであるが、里川との合流地点にある丸山砦、天号山砦も小さい規模であり、街道としては重視されていなかったか、佐竹氏の本拠に近いため、安全が保障された地であったのかもしれない。
Pの遺跡、侵攻記 、余湖くんのホームページ 参考)