権現山館(北茨城市中郷町小野矢指)
龍子山城の北東約2q、JR常磐線南中郷駅の西に見える塩田川の低地に南から突き出した丘先端部(36.7567、140.7216)にある。
別名、「小野矢指(おのやさし)館」とも言う。
館のある地の標高は36.5m、比高は約30mである。遺構は埋没は進んでいるがほぼ完存である。
しかし、行きにくい。

↑西側から見た権現山館

館のある場所は藪ではあるが、歩けないほどではない。
でも、この丘周辺の藪が酷く、丘に登る道が既に分からない状態となっている。
そこを西下にあるため池脇から強引に突入。
藪を突破すれば館西下を巡る道に出る。(帯曲輪の可能性がある。)

ところが、晩秋なのに黄色と黒のストライプ模様の戦闘機にスクランブル発進され、威嚇を受ける。
暖冬化の影響なのか?巣などに接触したら危険このうえない。

館は尾根続きの南側@と傾斜の緩い西側Bに横堀をL形に配置する合理的な構造を取る。
横堀は埋没が進んでおり、深さが2〜3mほどしかない。

横堀の端部にあたる東端、北端、西端は竪堀となるが、南側の横堀@から派生する竪堀は登城路を兼ねていたものと思われる。

傾斜が急な東側には帯曲輪が断続的に存在するが、連続した横堀はない。
先端の北側には堀切があり、その先に突き出し状の曲輪がある。
館主体部の広さは東西80m、南北150mほどである。

土塁が横堀に面し、南側Aと西側にあるが、曲輪内からの高さは最大でも1mほどである。

土塁に面した部分は抉れており、土塁の構築が横堀を掘った土では不十分であり、曲輪内の土も使ったようである。
曲輪内Cは平坦ではなく整地は不十分である。
やや南側に土壇があるが曲輪内部が仕切られていた感じである。

総じてこの館の立地は北に位置する島崎城に似るが、島崎城は曲輪内部が平坦であり、居住性を持つが、ここは居住性をそれほど感じない。

居住を目的とした城というより、塩子川を水堀と見なした龍子山城防衛用の施設として管理されていたのではないかと思われる。
基本的には単郭であると思われる。丘続きの南側は未踏査。

@館南側の横堀、かなり埋没している。 A@の横堀に面し土塁がある。
B西側の横堀、こちらも埋没が激しい。 C曲輪内部、けっこう凸凹している。北側は藪!


権現山館追加確認
以前に行った北茨城市小野矢指の権現山館、単郭の館と思っていたが、いくつかの資料を見ると南側にもう1本の堀があり、複郭の城館のように描かれている。
そのため、近く通ったついでに2019.12.14、確認のため再突入した。

西下にある溜池の脇から藪に突入し、西下にある帯曲輪跡ともされる道に出る。
前回は黒と黄色のストライプ模様の戦闘機にスクランブル発進され怖かったが、さすが12月になると戦闘機には遭遇しなかった。
南に延びる道を進み、主郭から西に下る竪堀との合流点を過ぎると、さらに南に続く道がある。
そこを進むと台地を横断する道に合流する。この道を堀としているようである。
この道を進んでみるが、若干窪んでいるが横堀という感じではなかった。

堀の北側、すなわち主郭がある側は自然状態であり、手が加えられた感じではない。
丘の東側は道が2つに分岐し、竪堀状になるが、道が丘を下るだけにしか見えない。
その部分に面して土塁も確認できない。ということでこの部分は城郭遺構とは判断できないと考える。

小山館(北茨城市中郷町粟野)
権現山館から塩田川の低地を挟んで北側約900m、久保内集落がある丘の北側谷津を挟んだ1つ北の標高41.5mの山(36.76544、140.7193)にある。
この山は西側と南側が今は水田になっている谷津であり、これが天然の堀となる。
谷津部の標高が8mなので比高は34mほどある。

↑南側から見た館跡、水田は当時は湿地帯で水堀の役目があったと思われる。

しかし、北東側は山裾に当たる千手堂地区につながり防御力は弱い。
館主要部は東西最大約100m、南北約170mの二等辺三角形をしており、段郭から構成される古い感じのものである。

内部は3つほどの部分に区画されるが、ほぼ単郭と言えるだろう。
堀は確認できない、土塁は北東端部の腰曲輪の北側に見られるが、風避け土塁のような感じである。
館は比較的ずんぐりとした山を平坦化したものと思われ、曲輪内部@は平坦であり居住性を感じさせる。


@館内部、南側はすっきりしているが、北側はド藪!
A南端部の腰曲輪の切岸 B館北東側の切岸、高さ2m位か?藪!

主郭部周囲は高さ3〜4mの帯曲輪が南端部以外の部分に巡る。
南端部は曲輪が2段ほどあり、東西に位置する帯曲輪が合流する。
南端部から東に腰曲輪が張り出し、下に降りる道がある。

館北東下にある民家の地が北風が防げ、日当たりも良く平時の居館の地ではなかったかと思う。
龍子山城の大塚氏の家臣丹生氏の館と伝わる。

菅股城(北茨城市磯原町大塚)
北茨城ICの西2q、県道299号線沿いにある明徳小学校から西明寺地区に向かう道路を1qほど進んだ平野部と山地の境目にあたる標高48.2m、南東側の水田からは比高30mの山にある。
山は南西から北東に延びており、日当たりが良く、背後の山が風避けにもなっている山の南東の面に多段に曲輪を造り出している。

その末端部の曲輪が現在も宅地であり、畑になっている。
おそらく当時の城主の居館もこの場所だったのだろう。

↑ 東から見た城址、民家の場所が居館跡だろう。そこが城の主体部だろう。

山には宅地の南側からの登り道があり、そこを登る。
下側の畑2段@はもちろん曲輪跡であるが、上側の畑の奥、杉林の中に横堀状の通路がある。
多分、当時からの登城路と思われる。

ここを登ると帯曲輪なのだが、歩くのに難渋するほどの藪状態である。
この帯曲輪Eが山の北西側以外、山裾をほぼ2/3周する。
幅は場所により変わるが広い場所で12mほど、狭い場所は2mほどの犬走りとなる。
北端は物見台のように出っ張りとなり、竪堀が西側に下る。

帯曲輪から上に斜めに登る坂虎口があり、そこを登ると堀切Aがある。
そこから北東側に3段の曲輪がある。
ここが山の最高地点である。

しかし、物見台程度のものである。大きな石Bがあるが、これは毘沙門堂の跡だそうである。
このためこの部分を毘沙門平という。
先端部Cを天神林という。
天神様を祀った祠があったのであろう。

おそらく城主の氏神であり、この場所が神聖な場所であったのであろう。

堀切から南西に長さ30mにわたり土塁が残るが、これは山の尾根の削り残しであろう。
兼風避け土塁でもある。

土塁の先は40m四方ほどの平坦地になっている。
ここの標高は47.3m、二重作平と言われる曲輪であり、本郭相当の曲輪のようである。
しかし、内部Cは藪である。
西側に虎口Dがあり、そこを下ると堀切状の場所となり、周囲を巡る帯曲輪に合流する。

@民家の上の段の柚子畑が曲輪跡 A山頂部の曲輪への虎口 B毘沙門堂の礎石が曲輪にある。
C東端の曲輪、天神平内部 D二重作平西の堀切 E南を巡る帯曲輪は藪状態。

さらに西方向に尾根が延び、尾根周囲にも曲輪も存在するが、尾根上には堀切も確認できず、ここは城域からは外れるようである。
全体的な印象は古風な小城塞であり、少人数での襲撃には対応できる程度の防御性を持った小土豪の居館というイメージである。
鎌倉時代末期、この地の土豪、大塚掃部助員成が築き、応永年間、大塚氏に石神小野崎氏から与二郎が入り、南の竜子山城に移転したため廃城になったという。