菅股城(北茨城市磯原町大塚)
北茨城ICの西2q、県道299号線沿いにある明徳小学校から西明寺地区に向かう道路を1qほど進んだ平野部と山地の境目にあたる標高48.2m、南東側の水田からは比高30mの山にある。
山は南西から北東に延びており、日当たりが良く、背後の山が風避けにもなっている山の南東の面に多段に曲輪を造り出している。

その末端部の曲輪が現在も宅地であり、畑になっている。
おそらく当時の城主の居館もこの場所だったのだろう。

↑ 東から見た城址、民家の場所が居館跡だろう。そこが城の主体部だろう。

山には宅地の南側からの登り道があり、そこを登る。
下側の畑2段@はもちろん曲輪跡であるが、上側の畑の奥、杉林の中に横堀状の通路がある。
多分、当時からの登城路と思われる。

ここを登ると帯曲輪なのだが、歩くのに難渋するほどの藪状態である。
この帯曲輪Eが山の北西側以外、山裾をほぼ2/3周する。
幅は場所により変わるが広い場所で12mほど、狭い場所は2mほどの犬走りとなる。
北端は物見台のように出っ張りとなり、竪堀が西側に下る。

帯曲輪から上に斜めに登る坂虎口があり、そこを登ると堀切Aがある。
そこから北東側に3段の曲輪がある。
ここが山の最高地点である。

しかし、物見台程度のものである。大きな石Bがあるが、これは毘沙門堂の跡だそうである。
このためこの部分を毘沙門平という。
先端部Cを天神林という。
天神様を祀った祠があったのであろう。

おそらく城主の氏神であり、この場所が神聖な場所であったのであろう。

堀切から南西に長さ30mにわたり土塁が残るが、これは山の尾根の削り残しであろう。
兼風避け土塁でもある。

土塁の先は40m四方ほどの平坦地になっている。
ここの標高は47.3m、二重作平と言われる曲輪であり、本郭相当の曲輪のようである。
しかし、内部Cは藪である。
西側に虎口Dがあり、そこを下ると堀切状の場所となり、周囲を巡る帯曲輪に合流する。

@民家の上の段の柚子畑が曲輪跡 A山頂部の曲輪への虎口 B毘沙門堂の礎石が曲輪にある。
C東端の曲輪、天神平内部 D二重作平西の堀切 E南を巡る帯曲輪は藪状態。

さらに西方向に尾根が延び、尾根周囲にも曲輪も存在するが、尾根上には堀切も確認できず、ここは城域からは外れるようである。
全体的な印象は古風な小城塞であり、少人数での襲撃には対応できる程度の防御性を持った小土豪の居館というイメージである。
鎌倉時代末期、この地の土豪、大塚掃部助員成が築き、応永年間、大塚氏に石神小野崎氏から与二郎が入り、南の竜子山城に移転したため廃城になったという。