川ノ辺館と出城(常陸大宮市野口平)
管理人の同僚に川野辺さんがいる。出身は地元、常陸北部である。
おそらくこの地で活躍し、多くの資料に登場する川野辺氏の一族の末裔であろう。
その川野辺氏は、常陸北部に勢力を張り佐竹氏に協力したり反抗したりした武家、小野崎氏、江戸氏(那珂氏)等、藤原秀郷から出た一族と言われ、その中の那珂氏から出た一族という。
川井氏、平沢氏、戸村氏などが同族である。

伝承では、正暦2年(991)藤原秀郷の子孫、藤原通直が兄藤原通延(太田郷地頭)とともに常陸国に移り、寛治4年頃(1090頃)、通直が野口城を築城し、川辺大夫を名乗ったとされる。
川野辺氏としては通直から四代、那珂通泰の次男那珂資明が川野辺を称したことが最初という。
その川野辺氏の所領は現在の常陸大宮市野口平字御城であったという。

「御前山村郷土史」によれば
「野口城はその昔、川野辺郷に造られたことから川野辺城ともいい、東西150間、南北50間ほどの規模を有した。西北に空濠が巡らされ、一の堀、二の堀を構え、東に馬場があり、南に三二七米、四方を平垣で囲い士卒で敵の来襲に備えた」という。
「築城は通直、嫡男那珂通資が川野辺大夫を名乗り城を継承した。
その嫡男は通重は那珂彦次郎または川野辺彦次郎とも名乗り、那珂と川野辺の名字を併用していたと見られる。
その子那珂通兼に二子あり、嫡男 通泰が那珂城に移り、那珂姓を継承、次男の資明が川野辺氏となり、川野辺城及び出丸を監守した。」
とされる。

その後、川野辺氏は騒乱に巻き込まれ、南北朝の戦いで那珂一族として南朝方についたため敗れて没落、
生き残った那珂通泰とともに川野辺光計が山方の山奥「高井釣」に隠れ、通弘の代に佐竹氏の家臣となり久慈郡西金に住んだとされる。

なお、川野辺氏には別説があり、川辺左衛門尉通朝が祖であり、通朝の子、川野辺下野守昭通が承久の乱で戦功を挙げ、鎌倉に住み、南北朝の騒乱で没落するが、新太郎経高の代に佐竹氏に属したという。
さらにその子孫は山入の乱、部垂の乱で佐竹宗家側につき、佐竹氏の秋田移封に同行せず久慈郡盛金邑に居住したとされる。

その子孫と思われる者が幕末期に登場する。
久慈盛金村の里正 川野辺太一衛門則美が天狗党の乱にて榊原新左衛門率いる天狗党に与して戦ったとされ、幕府方に捕縛されたという。
太一衛門はその後、慶応2年(1866年)7月1日、武蔵国川越藩を経て江戸佃島にて獄死している。
また、この時、太一衛門の同族である久慈郡金村の義民 河野辺儀之介利義、四郎次盛義も天狗党の与党として捕えられ、江戸佃島にて獄死。死後、三名は靖国神社に合祀されたという。
(以上、「WIKIPEDIA]等を参照。)しかし、ドラマチックな波乱に富んだ一族である。

この川野辺氏の歴史の中で野口城、川野辺城等が登場する。
どうもこの2つが混同されているようである。

↑南東の緒川の堤防上から見た北西の館跡。上部は平坦である。水田は河床跡。

一般に野口城と言えば、御前山の北岸、那珂川大橋の北にある城である。それを川野辺城ということもある。
この城があるのは野口平ではない。
御前山郷土誌の「東西150間(270m)、南北50間(90m)」とも規模は一致しない。
しかし、野口平にそれにぴったりの場所がある。
字の「川ノ辺」である。そこがここである。
こここそが御前山郷土誌でいう「川野辺城」であろう。
でもこっちも「野口城」とも言っているのでこんがらがる。
一応、字名を取り「川ノ辺館」と書くが、「川野辺城」と書くべきか?いや、城というほどの規模じゃないし・・・。

↑館跡北側の切岸。

その場所、水田地帯の中にある独立丘である。丘の西側を県道12号線がかすめる。
東西約300m、南北約100mの規模であるので御前山郷土誌の記載と一致する。
周囲の水田地帯の標高が32m、丘状は38.2m、比高は6mである。

この丘の周囲、現在の水田地帯は航空写真を見れば、昔は緒川が大きく蛇行して流れていた跡である。
当時は周囲に川の流れと湿地が広がり、ここはその中に浮かんだ島だったのであろう。
那須烏山の稲積城と良く似る。

西側の高台からは城内が見下ろされるという欠点があるが、周囲が湿地帯という要害性がその欠点をカバーする。
また、野口平城もその欠点をカバーする役目があり、さらに南方面の物見を兼ねたものであろう。
ここに館を置けばまさに「川の縁」である。
それが「川野辺」の名の起こりであろう。
丘上には住宅と畑と墓地がある。
切岸は今でも城らしい雰囲気がある。

↑ 北東に見える出城。西端の切通しは堀切を拡張したものだろう。

なお、ここの出城と思われる場所がある。
1つは野口平城であるが、もう1つは北東約250mに見える丘である。
標高は46m、比高は約10mである。150m×100mほどの規模である。
この丘、西側が緒川の東岸、越郷に通じる切通の道になっているが、これは堀切を拡張したものと思われる。

その東の丘は独立丘となっている。
この丘の北側は崖であり、かつては緒川が流れていたらしい。
丘の東側は住宅となり丘を削っているそうである。
丘上は特段の遺構はなく自然の山である。
川ノ辺館は低地にあるので視界が限定される欠点がある。
この出城は北方、緒川上流側を見張る役目があったのだろう。

野口城(常陸大宮市(旧御前山村)野口)

御前山大橋を城里方面からわたって右手(東)に見える丘が城址である。

おそらく岡の先端部全体が城域であったと思われるが、南側の先端部は集落となり遺構は失われている。
しかし、主郭部は畑となり、一部の遺構は失われているが、ほぼ完存している。

城のある台地は北から那珂川に向かって張り出ており、東は緒川の低地、西が谷津となった半島状である。
東の水田地帯からは30mほどの比高がある。
この半島状の台地の北に続く部分を2重の堀切で遮断している平山城の基本パターンを踏んでいる。


築城は正暦2年(991)に藤原秀郷の子孫通直という。
秀郷の流れかどうかは別として那珂氏や小野崎氏と同じ流れを組む一族であろう。
彼は那珂郡と川野辺両郡に領地を持っていたので川野辺太夫と呼ばれたという。
しかし、川野辺郡とは現在のどこだろう?(どうやら野口平の川ノ辺だろう。)

このため別名を「川野辺城」という。
← 昭和50年 国土地理院撮影の航空写真

その後、川野辺氏代々が居城するが、南北朝の乱で川野辺氏は南朝に組したため、一時的に滅亡してしまう。
(その後、那珂氏とともに復活する。)

何しろ北は南朝方の中心人物、那珂通辰の領地であり、川野辺氏も那珂一族として行動したのであろう。

対岸の御前山城も南朝方の城であったとの伝承があるため、この一帯は常陸の南朝勢力の1大根拠地であったのであろう。

川野辺氏滅亡後、しばらく廃城であったと思われるが、応永元年(1394)、大田城から佐竹景義が移り、城を復興し、野口但馬守を称した。

しかし、天文9年(1540)、当主、野口直之允が佐竹義篤に滅ぼされ、野口城も落城したという。
部下であった野口四天王は降伏し、佐竹家臣に組み込まれ、城は廃城になったと言われる。
この城を見てみると非常に居住性が良いし、城も要害の地にある。
さらにこの地は那珂川が山間を抜け、平野になる部分に立地しているとともに茂木街道が通り、緒川方面と大宮方面に街道が分岐する交通と防衛上の要衝である。

このため、本城と御前山城が築かれたのであろうが、戦国時代末期もこの重要性は変わらなかったであろう。
天文9年(1540)に廃城となったとは考えられず、御前山城同様、城代が置かれ機能していたものと思われる。
@南からの登城路。解説板が見える。 A本郭内は3,4段になっている。
B西側の横堀。
本郭からは8mほど下にある。
C 北側の二重堀切の二重目、
本郭から15m下。

その後、2012年7月22日 野口城の北に二重堀切が存在するという情報があり、ヤブレンジャーツアーで確認した。
御城北の巨大二重堀切の北側の岡は墓地であったが、その北に確かに二重堀切は存在した。

この北の台地、150m×100mほどの広さがあり、内部は平坦ではあったが、城郭の一部とは思えなかった。
しかし、ここを二郭というべきであろう。
堀切は一重目Dは深さ5mほどあるが、二重目Eは規模は小さかった。
一重目の堀切は東では横堀となる。一方、台地西側は帯曲輪になっていた。
この部分を入れるとかなり大型の城であったことが分かる。

D北側の二重堀切、一重目の堀。深さ5m。 E北側の二重堀切、二重目は規模は小さい。