野口城(常陸大宮市(旧御前山村)野口)

御前山大橋を城里方面からわたって右手(東)に見える丘が城址である。

おそらく岡の先端部全体が城域であったと思われるが、南側の先端部は集落となり遺構は失われている。
しかし、主郭部は畑となり、一部の遺構は失われているが、ほぼ完存している。

城のある台地は北から那珂川に向かって張り出ており、東は緒川の低地、西が谷津となった半島状である。
東の水田地帯からは30mほどの比高がある。
この半島状の台地の北に続く部分を2重の堀切で遮断している平山城の基本パターンを踏んでいる。


築城は正暦2年(991)に藤原秀郷の子孫通直という。
秀郷の流れかどうかは別として那珂氏や小野崎氏と同じ流れを組む一族であろう。
彼は那珂郡と川野辺両郡に領地を持っていたので川野辺太夫と呼ばれたという。
しかし、川野辺郡とは現在のどこだろう?

このため別名を「川野辺城」という。

← 昭和50年 国土地理院撮影の航空写真

その後、川野辺氏代々が居城するが、南北朝の乱で川野辺氏は南朝に組したため、滅亡してしまう。

何しろ北は南朝方の中心人物、那珂通辰の領地であり、川野辺氏も那珂一族として行動したのであろう。

対岸の御前山城も南朝方の城であったとの伝承があるため、この一帯は常陸の南朝勢力の1大根拠地であったのであろう。

川野辺氏滅亡後、しばらく廃城であったと思われるが、応永元年(1394)、大田城から佐竹景義が移り、城を復興し、野口但馬守を称した。

しかし、天文9年(1540)、当主、野口直之允が佐竹義篤に滅ぼされ、野口城も落城したという。
部下であった野口四天王は降伏し、佐竹家臣に組み込まれ、城は廃城になったと言われる。
この城を見てみると非常に居住性が良いし、城も要害の地にある。
さらにこの地は那珂川が山間を抜け、平野になる部分に立地しているとともに茂木街道が通り、緒川方面と大宮方面に街道が分岐する交通と防衛上の要衝である。

このため、本城と御前山城が築かれたのであろうが、戦国時代末期もこの重要性は変わらなかったであろう。
天文9年(1540)に廃城となったとは考えられず、御前山城同様、城代が置かれ機能していたものと思われる。
@南からの登城路。解説板が見える。 A本郭内は3,4段になっている。
B西側の横堀。本郭からは8mほど下にある。 C 北側の二重堀切の二重目、本郭から15m下。

その後、2012年7月22日 野口城の北に二重堀切が存在するという情報があり、ヤブレンジャーツアーで確認した。
御城北の巨大二重堀切の北側の岡は墓地であったが、その北に確かに二重堀切は存在した。
この北の台地、150m×100mほどの広さがあり、内部は平坦ではあったが、城郭の一部とは思えなかった。
しかし、ここを二郭というべきであろう。
堀切は一重目Dは深さ5mほどあるが、二重目Eは規模は小さかった。
一重目の堀切は東では横堀となる。一方、台地西側は帯曲輪になっていた。
この部分を入れるとかなり大型の城であったことが分かる。

D北側の二重堀切、一重目の堀。深さ5m。 E北側の二重堀切、二重目は規模は小さい。