長倉城(常陸大宮市(旧御前山村)長倉)
御前山村長倉にあり、那珂川に沿った谷の北側、標高120mの山上にある。
北から東にかけて城址のある山を取り巻くように大沢川が流れ、川からの比高は70m程ある。

 城址一帯は沢が開析した侵食谷が複雑に入り組んでおり、谷が天然の堀となっている。

 城址の南側と西側はやや勾配が緩く、多くの郭があった。
 南の長倉の集落もこの山の斜面にあり、東の丘下に大沢川を望む。ここがかつての根小屋、城下町であろう。

 西側は蒼泉寺があるが、ここも郭の一つと言われる。

肝心の主郭部は、ほとんど管理されていなく、杉林であるが、下草が全く伐採されておらず、鬱蒼とした藪状態であり、遺構が良く確認できない。
しかし、切岸や帯曲輪の形状は明瞭に確認できる。

 南西に続いている道が大手道と思われ、蒼泉寺側には土塁がある。
 蒼泉寺との間には堀(自然の沢を改変したものであろう。)がある。

 また、主郭部のある山の南に谷があり、その南側に広い平坦地がある。現在畑となっているが、居館の跡であろう。
ここが、江戸時代、陣屋に使われている。

その南にも段々状に曲輪らしい平坦地があり、長倉の集落に続く。
城域としてはかなり広く、御前山地方一帯を治める城であったことが伺える。

築城は鎌倉末期文保元年(1317)佐竹氏8代行義の2子義綱が築城して長倉氏を称したのが始まり。
 この城が騒乱の歴史に登場して来るのは永亨7年(1435)に勃発した「山入の乱」からである。
 この時は佐竹氏の跡目を上杉氏から迎えることに山入氏等が反発し、長倉義景を中心にこの城で反旗を翻した。
 これに対して鎌倉公方足利持氏が大軍を派遣し降伏させた。
 しかし、乱は再発し、最後まで山入氏に組していた長倉義久は山入氏を滅ぼした佐竹義舜に攻撃され降伏した。


 長倉氏はその後、佐竹氏に従うが、何度も反逆を企て、天正年間には柿岡城に移され、佐竹氏の秋田移封にも同行せず、この地で帰農した。

 城は江戸時代まで存続しており、水戸藩の陣屋が置かれていた。

左の写真は南側、四季彩館から見た城址である。

ただし、陣屋は前述のように山城の部分ではなく、谷津を挟んだ南側の尾根平地部にあった。
山城部分は佐竹氏秋田移封後には実質的に廃城になったものと思われる。

@本郭内部。かなりの藪である。 A 本郭東下の帯曲輪または横堀 B 東に豪快に下る竪堀
C 北側に下る竪堀 D 南側に位置する陣屋跡 E 陣屋跡の枡形。

航空写真は昭和50年国土地理院撮影