深茂内館(ひたちなか市足崎字北根)
奥山館から谷津を隔てて南西約300m、真崎浦に流れ込む沢の侵食谷が複雑に入り組んだ場所末端部にあり、館の付近は比較的起伏が緩やかな畑地と宅地になっている台地にある。
北側、東側には侵食谷が入り込む。
緩やかな台地ではあるが、そのうちの最も標高が高い場所(31.7m)に一辺約60mの四方の土塁を方形にめぐらした単郭式の館であったらしい。
その周囲の標高は28〜30mと少し低い。


↑ 唯一の明確な遺構、南西端の土塁

館内部はかつては畑であったが、藪状態である。
土塁はほとんど失われ、段差程度の痕跡が東側に残るが、南西端に土塁残存部の一部@が確認できる。
しかし、土塁の外側に堀があったかどうか分からない。
おそらく堀を掘った土で土塁を築き、その土塁の土で堀を埋めているので±0ということで痕跡が失われているのかもしれない。

なお、曲輪内からは室町時代の土器や建物の礎石の石が出土しているそうである。
北側の素鷲(そが)神社付近に谷津を利用した箱堀状の遺構がある。
さらに南にも谷津を利用した堀跡Bのような場所もある。
勝田市史は北側の素鵞神社付近から南側の谷津を利用した堀跡のような場所までの南北約300m、東西を南北に走る道路間の東西約220mの範囲を城域と推定している。から外れるはずである。

このため、館は単郭ではなく複数郭を持ち、城域はより広かった可能性がある。
勝田市史掲載図では東西を南北に走る道路に沿って堀の存在を想定しているが、現地を見た限り、道路が堀であったか、または今の道路に沿って堀が存在した感じはない。
ただし、少なくとも素鷲神社境内は谷津が箱堀状になっていることもあり、城域であった可能性はあったようにも思える。
この素鵞神社、館の北東に位置し鬼門に当たる。
館主が建てたと考えるのが妥当である。

A北西側にある池跡、ここは谷津の先端の湧水地ではないか? B南側の堀跡?埋没した自然の谷津を利用したものだろう。

さて、館主は誰であろうか?
「勝田市史」は大掾氏系多良崎氏没落後、この地を領した江戸氏として復活した那珂氏一族の足立氏(五郎左衛門、又五郎の2名の名がある。)が居館にしたとしている。
本来なら新領主として、前任の大掾氏系多良崎氏の居館、奥山館に入るのが普通であろう。

入らなかった理由はどうやら奥山館の西約200m、素鵞神社Cの北約200mにある「牛頭天皇」という変わった名前の神社の存在である。
現地では素鵞神社を天王、牛頭天皇を古天王と呼んでそれぞれ崇拝されている。

C北東端にある足立氏の崇拝した素鷲神社。 Cの北約200mにある古天王

当然、牛頭天皇の方が古いことになる。
こんな至近距離に神社が2つ存在することも普通ではないが、牛頭天皇(王)はスサノウ信仰に係る神であり、一方の素鵞神社も祭神はスサノウ、元々は天王宮と言ったものを皇室に憚り、素鵞に変えたという経緯があり、両者は同じ神社である。
どうやら、牛頭天皇こそが奥山館主、大掾氏系多良崎氏が崇拝していた神社であったようである。
違う神社が至近距離にあるのはあり得るかもしれないが、同じ神社が至近距離に存在するのは異常である。
まるで老舗の「本家」「元祖」争いである。

新しい領主、足立氏も旧領主の影を消すため、廃止したかったようだが、地元の住民も崇拝していたのでそれを考慮して廃止できず、奥山館に入らずに新に深茂内館を築き、鬼門の北東に新領主の勧進する新な別の天王宮(社、素鵞神社)を置いたのではないかと推定している。
なお、領主の交替で多良崎城も足立氏のものになったと思われるが、不便な地であるため、詰めの城として、深茂内館を居館として使ったものと思われる。

しかし、館を見ると構造は簡素で古い形のものである。
勝田市史の記述のように南北朝期末期ころの館という感じである。
戦国末期までは使われた感じはない。(改修せずに使用していた可能性もある。)
照沼館の照沼氏(戦国時代は寺沼氏か?)が足立氏の出であるので、足立氏がそのまま移ったのか、他所、例えば小山城とかに移った可能性もある。

(以前の記事)
深茂内館(ひたちなか市足崎字北根)

奥山館の西側300mの侵食谷が複雑に入り組んだ場所にあり、館の西側以外の周囲は緩やかな起伏がある台地、西側は侵食谷である。
台地の最も標高が高い場所に一辺60mの四方の土塁を方形にめぐらした単郭式の館であるが、館内部は一面の藪であり入れないが、周囲に土塁が確認できる。
館跡からは室町時代の土器が出土している。
右の写真の林が館跡であるが、そこから60m北の素鷲神社付近に箱堀等の城郭遺構がある。ここは城域から外れるはずである。
このため、館は単郭ではなく複数郭を持ち、城域はより広かった可能性がある。
少なくとも素鷲神社境内は城域であったのだろう。
なぜ、防御性が劣り、堀底を通路として使う箱堀が存在するか疑問である。

 館主等は不明である。
「勝田市史」によると、北と南を谷津で囲まれた台地の東西に堀を掘って台地を独立した郭とし、その中に土塁を巡らした方形の郭が存在していたと言う。
鳥瞰図は「勝田市史」掲載の図から想像したものである。

素鷲神社西の箱堀 素鷲神社境内と東側の堀

篠根沢館(ひたちなか市佐和)
真崎浦最奥の城館である。
西に500m程度行くと国道6号に出る。北約1kmには笠松運動公園がある。
館のあった地は佐和中小企業団地の用地となっているが工場は少しあるだけであとは農地等になっている。
おそらく、景気の低迷により、進出する企業があまりなかったのだろう。

東西約200m、南北約300mの広さがある結構大型の館だったようである。
この地は西側、南側が真崎浦から延びる谷津があり、東にも小さな谷津が入る。
3方を谷津が囲み、北側のみが台地につながる。
標高は33m、南の谷津部が18mであるので比高15mほどの丘である。

工業団地造成のために破壊されており、現地を歩いても遺構は確認できない。
勝田市史によると北東側に土塁が残存すると書かれているが確認できない。

勝田市史を見ると北東から南西に台地を分断するように堀と土塁が描かれ、北の台地続き部を分断するように緩やかな弧を描いて土塁と堀が存在していたらしい。
また、昔の航空写真を見ると土塁と堀跡と思えるものが映っている。
どうやら台地西側が主要部であった感じである。
縄張図は航空写真から土塁、堀があったと言われる位置を割り出し描いた推定復元縄張図である。

この館も館主等は不明であるが、規模からして大型の居館だったようである。
さて、いつの時代のものか?
この台地の東600mに佐和要害城が存在するのでペアの城郭であったかもしれない。
佐和要害城は遺構から推定し、戦国前期から中期頃のものと思われるのでこの館もその時期のものかもしれない。

以前の記事

篠根沢館(ひたちなか市佐和)
真崎浦最奥の城館である。
西に500m程度行くと国道6号に出る。北1kmには笠松運動公園がある。
館のあった地は民家、工場や廃車置場等があり、遺構は見られない。
台地端には土塁のような盛り上がりもあるが、これが館の遺構かどうか確信はない。
斜面の畑も曲輪のように見える。この館も館主等は不明。
写真は低地から見た館址。