佐和要害城(雄外城)(ひたちなか市佐和) 2019年2月再訪
柏野団地より旧真崎浦に流れ込む河川が開析した谷津を隔てその北岸にある。
城址の標高は31.5m、谷津部が11.6mなので比高は20mである。

↑南側、柏野団地下から見た城址。2000年1月5日撮影

ここは真崎浦の最奥近くである。戦国時代もここまでは湖水は入っていなかったのではないかと思われ、湖水交通に係わる城ではないと推定される。
雄外城ともいうが、これは要害がなまったものである。

城のある台地縁の東側は谷津を隔てて「さわの杜団地」南側が谷津を挟んで「柏野団地」、佐和高校があり、東と南の2方向が谷津に面する。
2005年10月、始めて登城した。
それまでは、一面の杉林に覆われ、内部に入るのは困難と思っていた。

偶然この付近が写っている航空写真を見た。
そしたら何と城址付近に畑が写っているではないか。
ということは行くことができるはず。
・・ということで、西側の県道脇から杉林内に細い道があり、このくねくねしたアップダウンする道を進むと土塁間に虎口が開き城址に至ることができた。

そこには航空写真どおり、確かに畑はあった。
さつまいも畑であり、おじさんが草刈をしていた。 
話を聞くと「城跡だと聞いている。」とのこと。

「こんな所まで来るなんて物好きだね。」と感心された。
確かにこんな所まで行くなんて物好きには違いない。

@南西側で横堀は竪堀となって台地を下る。 A土橋北東側の土塁と横堀。藪が酷い! B城址東側は緩斜面。東が湿地帯のため無防備なのだろう。

HPには「城は台地突端部に位置し、単郭。郭内は50m四方ほどの広さ。北に虎口が開き、虎口の左右の土塁は一段高い。
西側は二重堀になっており、北側は自然の谷津を利用した堀になっている。
旧真崎浦の低地に面した斜面には腰曲輪が延びている。
北側、西側は土塁が巡っていた。」と書き、その調査結果を基に縄張図とイラストを作成しアップした。

しかし、勝田市史掲載の縄張図を見ると驚き!
俺の描いた図とかなり違うじゃない!何だこれは?
ってことで再確認に2019年3月に突入。
一度、行っているのでルートは勝手知ったもの。

C2019年2月、主郭内にあった畑は藪 2005年10月の畑、当時は現役のさつまいも畑だった。

帰宅して航空写真を確認したら2012年撮影のものには手入れされた畑がちゃんと映っている。
どうやらその後に耕作が放棄されてしまったようだ。
それでも篠竹は一部、伐採されていた。
今回は冬場ということもあり、細かい部分も確認した。
その結果を基に描き直したのが添付の縄張図である。
結果として14年前の縄張図、それほど間違ったものではなかった。

南西側に2重の土塁を描いてしまったが、東側は畑にした時に削ったために土塁のように見えていたようだ。
勝田市史の図は南西側の堀の対岸の尾根に土塁を描いているが、そこには土塁はなく、自然地形であった。
ここは城外であろう。

南側、東側も畑にするため削平されているようであり、本来は自然状態の緩やかな土地であったようだ。
そこにに食い込んだ北側と西側の小谷津を利用して独立化を図ったのであろう。
上手く地形を利用し少ない労力で造り上げている。おそらく最も労力がかかったのは台地続きの虎口付近であろう。
その部分は土塁を高くし、横堀@、Aを掘っている。
虎口近くは土壇になっている。
丘の東側、南側は全くの自然状態、特に東側Bは緩斜面であり無防備である。
これは東下が湿地帯であり、この方面からの攻撃を想定していないためであろう。

城主等は全く不明である。
少なくとも戦国後期のこの地が安定したころには使われていなかったであろう。
遺構を見ると戦国期のものと思われるが後期の洗練された感じではない。
この地が不安定だった山入の乱のものだろうか?

南北朝時代の頃も不安定であったが、遺構的にはその時代のものとは思えない。
この付近の城館としては西に篠根沢館があり、その詰めの城の可能性もあるが、篠根沢館自体歴史が分かっていない。
または付近住民の緊急時の避難城なのだろうか。
いずれにせよ、この城、隠れ家っぽい印象が強い。
(城址にある畑は戦後、削平して造成したものである。それ以前は自然地形の緩斜面であった。鳥瞰図は畑造成前を再現した。)

(以前の記事)
要害城(雄外城)(ひたちなか市佐和)

柏野団地より旧真崎浦の入り江を隔て北岸にある。
真崎浦の入り江の最奥近くである。戦国時代もここまでは湖水は入っていなかったのではないかと思われ、湖水交通に係わる城ではないだろう。
雄外城ともいうが、これは要害がなまったものである。

東側はさわの杜団地。東側と南側の2方向が真崎浦の入り江に面した台地上にある。
一面の杉林に覆われ内部に入るのは困難とずっと思っていた。
偶然この付近が写っている航空写真を見た。
そしたら何と城址付近に畑が写っているではないか。と
いうことは行くことができるはず。

西側の県道脇から杉林内に細い道があり、このくねくねしたアップダウンする道を進むと土塁間に虎口が開き城址に至る。
確かに畑はあった。さつまいも畑であり、おじさんが草刈をしていた。 
話を聞くと「城跡だと聞いている。」とのこと。
「こんな所まで来るなんて物好きだね。」と感心される。

確かにこんな所まで行くなんて物好きには違いない。
城は台地突端部に位置し、単郭。郭内は50m四方ほどの広さ。
北に虎口が開き、虎口の左右の土塁は一段高い。
西側は二重堀になっており、北側は自然の谷津を利用した堀になっている。
北側、西側は土塁が巡る。
旧真崎浦の低地に面した斜面には腰曲輪が延びている。

城主等は全く不明。
佐竹氏関係なのだろうか?または住民の避難城なのだろうか。
南から見た城址。この杉林の中に城がある。手前
の低地は真崎浦の入り江跡。
北側に開く虎口。左右両側の藪の中
に堀がある。
郭内は畑。周囲を土塁が巡る。