真崎浦周辺の城館1

 現在、真崎浦一帯は太平洋への出口部への土砂の堆積及び干拓により一面の水田地帯である。
 しかし、中世以前は太平洋の入り江であり、権現山古墳を築いた古代の氏族はこの入江からこの地にやって来たと言われている。
 真崎、多良崎は岬を示す地名であり、船場という地名はそのまま港を示し、船の安全の神である須和間の住吉神社の存在等が入江が存在し、海運と関係していた証拠である。
 中世になると真崎浦に突き出た半島状の台地には多くの城郭が築かれる。

 中世に入江が存在していたのかは不明であり、一説には太平洋への出口部が海流により運ばれた砂の堆積で閉塞され、真崎浦は涸沼、北浦のような内海状態になっていたとも言われ、これらの城郭が海運と関係していたのかは不明である。
 多くの城館が築かれた要因の一つは、背後に真崎浦という天然の堀を持つ要害性が考えられる。もう一つは谷津の水田開発が想定される。

 しかし、海運に無関係であったともいちがいには言えない、例え太平洋への出口が狭くなったとしても真崎浦に流れ込む雨水は太平洋に流れ出る必要があり、その役目を果たしていた新川は、当時は現在より川幅が広く、より深かった可能性がある。
 その場合、中世の海運も湊から真崎浦へ、そして水木へという経路で行われていたと推定することも可能である。

 海運によってもたらされる利益は莫大であり、そのため、戦国時代には佐竹氏系や江戸氏系の領主が周囲に城館を構え、水運、製塩の管理により富を増やすとともに軍事面で水軍を編成していことも想定される。その証拠に真崎城主の真崎氏は操船にノウハウがあったと思われ、佐竹氏の船奉行を勤めるほか、後には海運支配の城である湊城を任されている。
 要害性という軍事面や谷津の開発程度の経済的理由で、城郭の存在した時期が同一時期とは限らない。

真崎浦の奥に位置する城郭は谷津の水田開発との関係が深いと思われるが、多くの城館が存在する理由を説明することは困難である。
少なくとも海側に位置する真崎城と多良崎城は海運と関係していた可能性が大きい。

この中で資料も有り、比較的知名度の高い城館は多良崎城、真崎城程度であり、清水館がこれらに次ぐ程度である。
他の城館については、城主も含めて来歴がほとんど不明の状態である。
 残念ながら多良崎城を除くと、篠根沢館、内城のように開発の波の中で遺構が隠滅したり、真崎城、深茂内館、小山城、雄外城のように深い林の中に埋没して遺構を確認することが困難な状態にある城郭が多い。それでも後者の場合は、遺構が林の中に保存されている確率が高いだけましである。

真崎城(東海村村松)
 真崎城は村松虚空蔵尊より西に500mほど行った真崎浦を干拓した水田地帯に突き出た標高約17mの細長い半島状の丘にある。
 通称、この丘を天神山と呼んでいる。天神様の祠があるとのことである。
 現在、周囲は水田であるが、城があった当時、周囲は太平洋の入り江であり、湾の中に突き出た半島の先端部に位置していた。
 この入り江は真崎浦といい、特に真崎城の北側を細浦という。
 現在、入り江は水田となり、要害性を全く感じない場所であるが、当時は3方を海に囲まれ、船以外では攻撃の手段がないという要害性を誇っていた。

真崎城の築城は、鎌倉末期弘安年間(1278−1287)佐竹五代義重の三男義澄の子義連によると言われ、以後、地名を取って真崎氏を名乗った。
 真崎氏は始終、佐竹氏の忠実な家臣として真崎城を根拠地に久慈川河口域の海運、製塩を管理し、水軍を統率していたと言われる。
 真崎氏は石神小野崎氏のような半独立的な領主ではなく佐竹氏の重臣旗本であったと言われる。

 佐竹氏の水軍についての活動の記録はないが、文明17年(1485)の岩城氏の常陸侵攻では岩城氏の水軍は真崎浦に侵攻し、村松虚空蔵尊を焼き、太田に迫ったと言われる。
 この時、真崎氏は虚空蔵尊の本尊をいち早く安全な場所に移動させたと言うが、指揮する佐竹水軍は敗れ、真崎城は一時的に岩城氏の手に落ちたと思われる。
 
真崎氏が水軍の将として明確な記録に登場するのは文禄の役(1592)の時であり、この時は真崎豊後秀俊が軍船を受け取り佐竹軍を渡海させている。
このことは真崎氏が佐竹氏の船奉行を務め、船の運航に知見を有していたことを物語る。
 文禄5年(1595)には真崎宣広は湊城に移り、佐竹氏の蔵入地の管理を任されている。
 真崎氏は慶長7年(1602)の佐竹氏の秋田移封で佐竹氏に同行し、この時点で真崎城は完全に廃城となった。


真崎城は水田からの比高10m、幅20〜50m程度、長さは長く350m程度の極めて細長い丘にある城であり、4郭があったと言われる。
 明確な城の遺構としては丘を2つに分断する大きな堀切のみである。
 城の現状は憂えるべき状態であり、郭のあった部分は完全な藪であり、郭内に行くことが困難である。

 また、堀切も粗大ゴミ捨て場になっている。城の主要な建物、物見台は郭は丘の上に存在していたと思われるが、丘を取り巻くように帯状に幅30mの平坦地が存在する。
 城の先端部の字名は舘岸といい、この地に船を係留する場が設けられ、水軍の軍船や海運船が係留され、平坦地には運ばれた物資の倉庫が存在していたものと思われる。
 城は非常に細長いため、船溜り以外の湖面に面した岸には瀬戸内海の海賊城同様、湖面に杭を打ち、湖上からの攻撃を防御していたものと推定される。

 追加)2004年1月4日城址突入記。
 横矢のかかった道を上がると祠のある平坦な梅林になる。
 これが天神様?
 ここが曲輪Tであるが、西側のより一段低い。北側がやや高く土塁らしい。
 そこから西は竹藪。その先に土橋と言われるものがあるが、昔土砂崩れを起こした場所と言う。
 土橋があり、両側は堀切となっている。この辺の郭の幅は15mしかない。ただし、内部は比較的平坦。
 土塁らしい盛上りがある。北側に家を建てた時、結構削られてしまったとのこと。

 この土橋を越えると曲輪Uであるが、かつては畑であったとのこと。
 堀と土塁が曲輪間を仕切っていたようであるが埋められてしまったという。
この痕跡と思われる部分が残っている。
この痕跡のような場所を越えると曲輪Ubであるが、ド藪である。
南側は崩落しているようである。
 そして、その先に大堀切がある。ここで南側の腰曲輪のようなところに下りる。
 例のゴミ捨て場の切通しはさらに先、この間に曲輪Vある。
この内部はあまり平坦ではなかった。

 この腰曲輪こそ館や倉が置かれていた場所と思うが、生活の場であったら陶器やカワラカケの破片が出るはずなのに、そんなもの出てきたことはないと言う。
 ただの戦時の逃げ城では?と言う。          

@城址先端部 人家のある所は館跡と言われる。 Aゴミ捨て場と化している大堀切。 B西側から見た城址、細長い城であるこ
とが分かる。
C先端の曲輪T内部。祠が天神?
北側に土塁がある。
D先端の曲輪T北側の土塁? E曲輪TとU間の土橋。両側は堀。 F曲輪Uの北側の草木が刈られ、
ようやく平坦な曲輪内部が姿を現した。
G大きな堀切がこの藪の中にある。

真崎城追記
2016年3月26日、真崎城に12年振りに行った。今回は東海村文化財担当の生涯学習課を通じての調査依頼によるものである。
前回行った2004年当時も酷い藪だった。それも篠竹という最悪の藪で遮蔽されていた。

その藪が地元のYさんらの有志によって伐採が行われ、藪の中から見事な遺構が姿を現した。
藪当時は良く確認できなかった土塁や堀切、曲輪が明瞭に確認できた。

それは想像以上に見事なものであった。
篠竹があるとどうしても小さく見えてしまうのである。

特に、以前は藪のためほとんど分らない状態であった曲輪Uと曲輪V間の堀切が明確に把握できた。
堀底から曲輪Uの土塁上までは7mほどの高さがある。
この土塁上に井楼櫓が建っていたのではないだろうか?

また、曲輪Vも藪がなくなり東西の堀切側の土塁がはっきりと確認できた。
なお、西側の土塁は古墳であった可能性があり、盗掘跡らしい穴も確認できた。

その土塁の西下が曲輪Vと曲輪W間の切通しとなっている堀切であるが、この堀切は軟らかい堆積岩の岩盤をくり抜いている。
そこに穴がある。この穴は防空壕という話もあったが、岩盤には石仏を置くための掘り込みがあることから、防空壕ではなく、横穴墓の可能性もある。
この付近には古墳群もあるので横穴墓があっても不思議ではない。
それなら、この切通しの堀切は戦国時代以前にあったものを利用した可能性も否定できない。

この堀切の西側が曲輪Wであるが、内部は削平されていない。
その最高箇所に茨城県で一番低い山「天神山」の看板があり、三角点がある。

なお、ここの標高は17mほどであるが、曲輪Uの方が標高は若干高い。
曲輪Wの西側に土橋と堀切があって、ここが城域の端となる。
この先は西側の押延方面に続く尾根が延びていく。

@曲輪Ub西端にある櫓台 A曲輪Ubと曲輪V間の堀切 B曲輪V内部、藪がないと素晴らしい遺構が見れる。

この城で分からないのは、いったい本郭がどこかという点である。
曲輪Ubか曲輪Vのどちらかと思われるが、両側に高い土塁と深い堀で囲まれ一番防御性が高いのは曲輪Vである。
しかし、曲輪Ubの西端の土塁は曲輪Vより高く、ここからは曲輪V内を見渡すことができる。
これはいまだに分からないままである。
曲輪Vは虚空蔵尊の仏像の避難用の建物があった神聖な場所なのかもしれない。

今回は城の西側の尾根状に続く部分の遺構確認が目的だったが、そこは手付かずの藪であった。
明確な遺構の確認はできなかったが、曲輪Wから西300m地点に凹凸のある尾根表面部を人工的に土手状に土盛し、歩きやすい通路に加工している部分や道を横堀状に蛇行させ、木戸か番所が存在したような場所も確認された。
道はあるのだが、尾根から下る道は確認されず、尾根を横断する道でもなさそうである。
尾根上をまっすぐ城方向に延びているのである。


尾根山頂部に残る横堀状の通路。

これらが戦国時代以降に加工されたものかもしれないが、城の西側の押延集落の住人が城まで避難するための通路や追撃してくる敵を阻止するための出丸のようなものだったのかもしれない。
そのような土手状の土盛りや窪地を埋めたような人工的と思われる部分は他にも所々に見られるが、ほとんどはほぼ自然の山であった。
掲載した鳥瞰図も今回の調査で描き直したものである。

東原館(ひたちなか市高野)
佐和の杜団地から国道245号に向う県道が県道豊岡佐和停車場線と交差する交差点の西300mにあり、清水西城の北400m地点にあった。
 清水西城とは谷津を挟んで西側の半島状台地の先端にある。
 県道が館址を分断しており遺構らしいものは見られない。
北、西、東側は真崎浦の低地であり、南側のみが台地につながる。
 館主等は不明。豪農の屋敷址ではないかと言われる。


清水城(館)(ひたちなか市高野)

真崎城、多良崎城以外の城館で城主の来歴がはっきりしているのは、本館のみである。

谷津を挟んで東側の小山城のある台地と向かい合うその西側の台地にある。
2つの郭よりなっていたと言われるが、現在、残存しているのは本郭部のみ。
しかも郭内は畑となっているので、二郭側の土塁の半分は失われている。
低地からの比高は12m。残存する土塁は非常に立派であり、3m近い高さがある。
往時は4m近くはあったものと思われる。土塁は台地の縁にも存在する。
西側は平坦部であるため、本郭の西側に二郭を置き、防御性を高めているが、二郭は畑となり失われている。

 築城は1500年頃と推定され、城主は清水氏。
清水氏は額田小野崎氏の家臣であり、額田小野崎氏が佐竹氏により滅ぼされると当主清水但馬守正重は佐竹氏直属の家臣となった。
佐竹氏の秋田移封時に正重の長男正永は帰農し、次男が秋田に移ったと言われる。
館の歴史はこの間の約100年間である。
清水城は測量図が勝田市史に掲載されており、それを基に作成した鳥瞰図を掲載する。
本郭内部。丘の縁側に土塁が見られる。 本郭西の土塁。 二郭西の堀跡の位置がら本郭方向を見る。

 県道を挟んで西側に西郭が存在していた。その間には浅い谷津がある。
 西郭は距離的には清水城(館)とは離れており、清水西城ともいう。東方向に谷津がある台地先端部の台地に続く部分を堀切り、周囲に土塁を巡らせた単郭の城館である。
独立した城館とも考えられるが、清水城とは双子関係にある城郭とも考えられる。本郭部は重機が入り土砂置き場になっている。
 勝田市史掲載図と現地の地形観察を基に描いた鳥瞰図を次に示す。

本郭を北東より見る。 本郭の西側。


甚平屋敷(ひたちなか市足崎)

 深茂内館の北350mにある。
 館のあった場所は写真のような林であり、比較的平坦な場所であるが、館址には、土塁、堀の遺構と思われる盛り上がりが若干見られる程度。
 館主等は不明。豪農の屋敷跡ではないかとの説もある。立地条件は東原館と類似している。