久慈城(日立市久慈町) 

茨城県北部では余り多くない水軍または海運、河川水運に係る城である。
国道245号を東海村方面から日立市方向に進むと久慈川にかかる久慈大橋、通称赤橋を渡る。
ここを過ぎて右に道がカーブし、留の交差点を過ぎ、茂宮橋を渡ると左手に岡が迫る。
これが久慈城の跡である。

城は比高20m程度の岡に過ぎないが、この岡は北東方面から尾根状に延びている。

今は海辺の平地に突き出た岡に過ぎないが、実はこの岡下の平地は埋立地であり、当時は久慈川が現在の国道245号線の場所を流れていた。

茂宮川は現在と同様、岡の南側を流れ、茂宮橋の位置で久慈川に合流していた。
現在の久慈川は西から真っ直ぐ東進し、太平洋に注いでいるが、かつては太平洋の沿岸流が南から北に流れ、久慈川が運んだ土砂が北側に向かって砂州になり、久慈川は太平洋近くで北に大きく蛇行していた。

ほぼ、現在の国道245号線やおさかなセンターの位置に久慈川が流れ、砂州を介し、その東側が太平洋であった。

現在、城は先端の本郭部分が残っており、二郭と推定される場所は、舟戸山共同墓地となって遺構は隠滅している。
ただし、本当に複数郭であったのか、疑問が残る。

墓地、南側は自然の山であるが、そこには城郭遺構らしいものは認められなかったので単郭の城と言ったほうがふさわしいのかもしれない。
 
本郭は、それでも結構遺構が残っているが藪である。
西側に横堀が100m程度続いている。

南側は民家の敷地であるが、本来、この堀はおそらく南側に回りこんでいたものと思われる。
北側の堀は本郭から8m程度の深さと15m程の幅を持ち見事である。
北側は二重堀切になっている。

堀の西側の土塁部分は崩され、曲輪状になり、現在は南側の曲輪に建つ民家に行く道路になっている。

本郭部は、その道路から堀を隔てて5mの高さがあり、堀に面して部分的に土塁がある。

↑昭和27年の国土地理院の航空写真より
本郭虎口は南側と北側に2箇所、明瞭に残るが、北東側にも存在していたようである。 
本郭内は広く、南北100m、東西50m程度はある。杉が鬱蒼と茂っている。
通常、本郭には西側の北虎口から入ることができる。

本郭内部にさらに土塁があると書かれているが、確認できない。
内部は平坦ではなく、でこぼこしている。このような不整地状態で大きな建物があったのか疑問が残る。 
北側に大きな窪みがあり、底は藪で確認できないが、これは井戸跡ではないかと思われる。
周囲が宅地化している中でこの本郭内は別世界である。

本郭の西は谷津状になっており、墓地に向かう道がある。その南端の茂宮川の川辺に舟付場があったと思われる。
ここは現在も舟付場であり、モーターボート、ヨットが係留されている。

佐竹氏の水軍については明確ではないが、河川河口に位置するため、水軍の城であったと思われる。
それとともにここは久慈川の水運を利用した物資の集積地であり、河川用の船、海運用の船間の荷物の載せ替えを管理していた城でもあったと思われる。
久慈川を上流に遡れば、石神、額田、前小屋、宇留野、部垂、山方といった佐竹氏の中心的城郭が川沿いに並んでおり、河川水運が存在していたことは確実であり、この城は河川水運と海運の接点であったと思われる。
おそらく、ここで積み替えた荷物を太平洋沿岸沿いに岩城方面に、また、湊城を経由して那珂川上流域、涸沼方面に、さらに鹿島方面、霞ヶ浦(当時は湾であったという。)へのルートが存在していたのであろう。
当然ながら船が武装すればそのまま水軍である。
@ 北東側の堀 A 西側の虎口 B 本郭南側の虎口。ここが大手か?
C 北側の深い堀 D Bの虎口から見た東の日立港。(埋立地)
かつては手前下に久慈川が流れていた。 
E 本郭西より見た茂宮川。舟付場があったと思われる。

築城時期は明らかでないが、宇佐美三九郎が城主の時、永禄5年(1562)相馬盛胤の攻撃を受け、まだ、未完成状態であったため落城したという。
(相馬氏の攻撃は本当にあったのか疑問である。
どうやって岩城氏の領土を通過してここまで来ているのか?
岩城氏と連合してその先方として来寇したのか?
少なくとも相馬氏の記録にはないとのことである。

あるいは南北朝時の北畠顕家による上洛戦、甕原の戦いに相馬氏の軍勢が参軍しているのでその史実との混同が起きているのか?)
その後の経緯は明らかでないが、佐竹の持ち城に復帰し、慶長年間には北義憲が城主であったという。
佐竹氏の秋田移封により廃城となった。