石沢小屋場館(常陸大宮市引田)
ひたすら藪の小さな城館である。
でも藪であっても冬場は何とか内部に侵入することは可能である。
国道118号線市役所南交差点から県道168号線を小場方面に向かい玉川を渡ると引田公民館(集会所)がある。
その西にため池があり、その北の山が館跡である。

市役所南交差点からは南西に直線距離で約1.5q、石沢館からは西約1qに位置する。
館のある台地は那珂川と玉川が侵食した台地の玉川を東に見る東側の台地突端部にあたる。

館のある台地の標高は64m、東下の水田からの比高は33mである。
館跡にはため池、西側の台地が抉れた部分から上がる。
ここを上がれば、堀切に出る。

この堀切は台地先端部を南北に分断し、長さは約40m、幅は約5m、深さは約2m、北端部近くに土橋と虎口が確認できる。
堀はかなり埋没している。

虎口の東側が主郭であるが、内部はあまり削平されていない。
堀切に面して低い土塁がある。
約50m×約40mの広さがあるが、曲輪の縁部が不明確であり、広さが捉えにくい。

一方、堀切の西側15mにもう1本の堀切があるが、埋没しており、堀切であるか、通路であるか確証が持てない。

ほぼ単郭と考えてよいと思われる。
曲輪内が未整地であり、簡単な構造であることから、見張り用の砦、兵を入れて軍事的圧力を加える役目の城はないかと思う。
造りからして一時的なもののように思える。

見張りの施設なら、見張る方向としては東の玉川か大宮台地である。
玉川の流れる低地に街道があれば、石沢館の向城としてその街道筋を監視する城である。
しかし、街道は大宮台地上にあり、低地である玉川に沿ってはいないと思われる。
したがって、街道筋の監視用は疑問である。
@西側にある堀切、唯一の城郭遺構。
これがなければ城郭とは判断できなかっただろう。
A主郭内部は藪、冬場だから入れる。整地もされていない。 B公民館側から見た館跡。山全部が藪のかたまり。

それではここで何を監視していたか?
管理人はこの台地を守るための施設、すなわち小場城に緊急事態を伝えるための出城ではないかと思うのであるが・・。
その時期としては、山入の乱あるいは部垂の乱のころの佐竹一族や家臣団が分裂状態で抗争が起きていたころのものではないかと思うのだが。

石沢館(常陸大宮市石沢)

常陸大宮市役所の南500m、国道118号バイパスから南西方向に県道168号線が分岐する石沢の交差点西側に「家具のオカザキ」があるが、その西側が館跡である。
南西200mが大宮二中である。
この館については川崎春二氏が昭和38年に調査した時のメモと平成28年2月に発掘調査した結果、堀が検出されたという情報により、その存在を知った。
ここは大宮台地の西の縁に位置し、西側は谷津状になり、玉川の低地につながる。

@県道168号線沿いに確認できる土塁の折れ
遺構はかなり風化し、堀は埋まり、土塁は低くなってしまっているが、かつてあった木が切られており目視により確認は可能である。
館の範囲ははっきりしないが、「家具のオカザキ」西側のS氏宅付近を中心とした100m四方ほどの範囲に遺構が確認できる。
ここに2つの曲輪があったようであり、S氏宅の敷地の北側に堀跡が東側と西側に土塁の痕跡が確認できる。

S氏宅の西側がもう1つの曲輪だったようだが、曲輪間は土塁のみで仕切られていただけであり、発掘の結果、S氏宅の北側に残る堀跡の延長線上に堀が確認されるが、どこまで延びているかは分らない。
延長線上は宅地造成が行われており、すでに遺構は湮滅していると思われる。

なお、昭和50年の航空写真を見ると「家具のオカザキ」の敷地から西側の「ヘ」字形に林が延び、この跡が若干窪んでいるので堀が存在していたようである。
その部分を考慮すると、東西100m、南北200m程度が館の範囲となり、3つ程度の曲輪が存在していたようである。
しかし、川崎氏作成の図と現地の状況がかなり違う感じなのである。道路状況は当然違う。

A@の堀は西側に延びていく B内部を区画する土塁、堀はない。
C南西側の切岸 D県道168号線沿いに残る土塁。

氏の図には土塁が描かれるが、現在確認できる土塁とは位置がずれている。また、堀は描かれていない。
館は大宮台地を下る街道筋に隣接した台地上にあり、街道を扼する関所でもあるのだろう。
それとともに部垂城等、大宮台地東縁に並ぶ大宮3城の西を守る出城的な役目があったものと思われる。

館主は甲神社奉加帳に石沢姓の者が8名ほど名が見えるので、この石沢氏ではないかと推定される。

なお、本館の西側で発掘が行われ、堀が検出されているが、写真の掲載は調査報告書の発行後にします。


八田八幡館(常陸大宮市八田)
この館名称は仮称である。
この物件については50storm氏が見つけてきたものであるが、果たしてこれが城館であるか断定はできない。
しかし、堀切や土橋のような遺構はあり、城館である可能性も否定しきれない。

それで確認に行ってみたのであるが、やはり結論は出せない。
ここよりはるかに曖昧な遺構の城館もあるし、物見台とか狼煙台ならこの程度のものでも十分城館と言えるだろう。

場所は常陸大宮市役所の北西2.5qに位置する八田地区である。
ここには国道293号線八田坂上から西部総合公園方向に広域農道通称「ビーフライン」が延び、約1qほど進むと「茅根製作所」がある。
その北西250mの岡が館跡である。

この付近は丘陵地帯が玉川に合流する沢が浸食して岡と低地が複雑に入り組み、その中の西側から半島状に延びた岡の先端部に位置する。
西側以外は水田地帯となっている。その岡先端部にある八幡神社の社付近が主体部である。

その場所の標高は90m、周囲の水田地帯からは比高25〜30m程度である。
神社には南側から登る石段があり、途中に鳥居もある。しかし、石段は藪化し既に登れる状態にない。
因みに社殿も悲しいことに崩壊状態である。
比較的平地に近いこの場所にも過疎の波は押し寄せ、神社を整備する人手も事欠いているのだろう。

神社へはやや西側から登る道がある。
その登り口には水が湧いている。
城館としたらここが水場として想定されるだろう。

北側から見た館?のある岡、林部分が神社の地、周囲は水田であり、当時は湿地だろう。 @南斜面の平坦地は居館跡か?

その道を登ると平坦地@が現れる。おそらく畑として用いたとは思うが、南向きの場所でもあり、ここに居館があっても不思議ではない。
さらに登ると鞍部Dに出るが、幅は5mほど。比較的平坦である。

西側が登りになり、少し行くと、土塁と土橋、堀切と思われる場所Aがある。
ただし堀状遺構はかなり埋もれており、通路か溝か判別がつきにくい。

発掘してみないと堀とは断定できないかもしれない。鞍部を東側に向かうと神社社殿が見えてくる。
社殿は鞍部から3mほど高くなった場所Bにあり、頂上部は直径15mほど。ここが城館だったとすれば、ここは物見台、狼煙台になるであろう。

南側に腰曲輪のような平坦地があり、北側に堀切Cのような場所がある。
ただし、この堀切も埋まった感じであり、ただの通路の可能性もある。

以上がこの館の状況であるが、前述したように城館としては否定も肯定もできないものである。
城館だったとすれは、北2qにある東野城の出城であり、家臣の居館兼用だったのかもしれない。

A堀らしい溝があるが、本物だろうか? B神社社殿の地は一段高く、物見には適している。
C社殿北下の堀切状遺構 D鞍部は平坦である。