鉾田市(旧大洋村)の城
武田城(鉾田市(旧大洋村)二重作)
北浦東岸、県道18号沿いの二重作から東の岡に登り1q、古屋山という比高25mほどの台地上にある。
この台地上南の縁部に淡島神社がある。ここからさらに未舗装の農道を東に500mほど行く。
農道はそこまで。後は畔道を歩く。この北側から城内に突入。
下の写真は北側から見た城址である。
城のある部分はこの台地の南側に半島状に突き出ており、そこに40m四方ほどの土塁B、Dで囲まれた単郭の曲輪が残されている。
残念ながらここも杉の藪でろくに歩けない。
北側に横堀Aが残り台地と遮断される。 さらに北側にも土塁@と堀が存在していたようであるが、耕地となって湮滅しているようである。 この横堀、東側は竪堀となる。 西側、東側は犬走りになっている。 南側は腰曲輪になっており、虎口が開き、外枡形になっている。 そして西下に道Cが下る。 |
A主郭北側の堀 | B主郭内から見た西側の土塁 | C先端部から西下に下る道 | D主郭南西端の土塁 |
甲斐武田氏の流れを組む武田次郎左衛門尉が築城したという。
彼は甲斐の騒乱を逃れ鹿島郡司小久保七郎元従を頼り、二重作に住むようになったという。
その後次郎右衛門信定、次郎右衛門尉就利、四郎右衛門信忠と続いた。
3代就利の時に佐竹氏の家臣となり、慶長6年の佐竹氏の秋田転封に同行せず、信忠は小見川の領主内田若狭守に属していた。
のち帰農し現在に至っている。
中居館(鉾田市(旧大洋村)中居)
南西側に残る土塁、この土塁の後ろは斜面。右手に虎口がある。
中居城の東700mの岡の上にある。
館という名前がついているが、居館ではない。
これは中居城付近にいくつか存在する長塁の1つである。
その中でも最大のものである。
土塁は台地を南北に走り、台地を分断するように築かれている。 総延長は600m位はあるだろうか? 南端部の土塁がよく手入れされており、200mほど続く。 高さは2.5m程度ある立派なものである。 この土塁、上に上がってみたら、西側がもう斜面なのである。 台地の縁部に築かれているのである。 切れ目の部分は枡形のようになっており、そのまま、台地南下に下る。 おそらくここが古道なのであろう。 |
中居城(鉾田市(旧大野村)中居)
県道18号線を札交差点方面から南下し、白鳥西小学校を過ぎると、東の中居地区に入っていく道がある。
この道を直線で1km進むと正面にいかにも城が有りそうな山が見えてくる。
これが中居城である。
山の比高は30m程度、北側以外は谷津上になっている。
城址は北東側が土取りで湮滅している。
道は山の下を右にカーブするが、少し行くと道沿いに、城の小さな案内図がある。
ここが中居城の登り口であるが、民家の入口も兼ねているようであり、注意していないと見逃してしまう。
この登り道、東側が土塁状になっている。
どうもこれは本物の城郭遺構らしい。
少し登ると、右手に堀切のような遺構がある。
その北側は鋭い斜面である。その上が曲輪Wである。
道は南側を西に登って行く。しばらく行くと土塁間に虎口が見える。
右側は郭 の切岸。左手に腰曲輪があり、竪堀が下る。
虎口を抜けると正面に郭Vの切岸が立ちはだかり、右は郭V東の堀底に続く。
この堀は本郭の北側の堀と合流して北側にある念仏堀まで続く。 左に行くと郭Vに出る。北側に本郭の切岸が迫る。 高さは5m位である。 郭Vとの間は堀があり、土塁がある。 本郭の南の曲輪を通り、本郭の南西側に本郭の虎口が開く。 ここの構造は郭Vの虎口と似ている。 右手に本郭の土塁が立ちはだかり、左手は竪堀、少し下がって郭Uがある。 すごいのは竪堀の右手にある堀である。 幅15〜20m、深さ8mほどもある豪快なもので、外側にもしっかりとした土塁を持ち、郭Uの西側から北側に回りこみ、本郭の北側を通って念仏堀まで続く。 本郭には稲荷があり40〜50m四方の大きさを持つ。 西側以外は土塁が回る。特に南側の土塁は高さ3mほどある。北側にも虎口がある。 虎口を出たところに曲輪があり、土橋があるようであるが、藪が酷くて確認できない。 |
南側から見た城址。 | 登城口、左側に土塁がある。 | 郭Vの虎口。 | 左の虎口前の腰曲輪と竪堀。 |
郭Vと本郭(左)間の堀。 | 本郭内部には高さ2mの土塁がある。 | 郭U南側の見事な横堀。 主郭部周囲を一周している。 |
郭Uの周囲の土塁。左が横堀である。 |
西側の郭Uは本郭より3mほどの段差がある。
30m四方程度の大きさであり、本郭のある東側以外は外周の堀に沿って高さ2mほどの土塁が回っている。
郭内は窪んでおり本郭の馬出のような感じである。
それにしてもこの窪んだ場所に溜まった雨水の排水はどうなっているのか分からない。
もしかしたら井戸曲輪も兼ねていたのかもしれない。
念仏堀方面までは行かなかったが、本郭北側は一部、二重堀構造の部分もある。
念仏堀は、もともと自然にあった沢を加工したものという。
この城は北側が台地続きであるため、防衛上考慮したものであろう。
この城は、鹿島大掾氏の一族、田野辺氏が築き、中居氏を称したのが始まりという。
中居氏は代々この地を支配していたが、佐竹氏による33館謀殺事件で殺され滅亡した。
この知らせを聞いた堀を掘る作業をしていた領民が、作業を中断して念仏を唱えたので念仏堀と呼ばれるようになったという悲しい伝説が残る。
中居城付近に存在する土塁と堀切(鉾田市(旧大野村)中居)
鹿島市と境を接する鉾田市南部、旧大野村の中居にある中居城の周辺に多くの土塁、堀切遺構が存在する。(「茨城の城郭」に詳しい。) これらの施設については、中居城の防衛のためのものか、集落の境界を示すものなのか、それとも馬防ぎ施設、はたまた猪避け、猪狩用の施設とか色々な説があり、用途が今1つ明確ではない。 防衛用のものとすると、城から離れすぎている感じもある。 これらは侵食され谷津が発達して形成された細長い半島状の岡を横断して構築されている場合が多く、場所によっては二重構造になっている。 しかし、これらの遺構については、あまり認識されてはおらず、かなりものが破壊されてしまったようであり、「新堀」「大堀」などの字名にのみ、存在の証が残ってはいるが、現物としては、一部として残存しているに過ぎない。 |
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大蔵近津堀切の土塁 | 阿玉大堀堀切の土塁 |
札城(鉾田市(旧大洋村)札)
札の集落に面する東側の山末端部全体が城域である。
西に北浦を望む。現在は北浦西岸とは鹿行大橋で結ばれているが、北浦方面から橋を渡ると正面に見えている山が城址である。
古くから北浦の水運に係った城であったのであろう。
この城、結構大きく、東西500m、東西200m程度ある。
札の集落内の道は狭く車で来ると駐車場探しが1苦労である。
この場合、札公民館が駐車場として最適である。
ここから少し北の安福寺の裏の道を北の松尾神社に上がっていけば良い。
そもそもこの参道の右手が高い切岸になっており城郭の一部である。
鳥居の所まで来ると右手に堀が見えてくる。
この堀は東で2本に分岐し、1本は鳥居の右手前方に見える郭Tをぐるっと回っている。
特にこの曲輪の東側と北側の堀は幅10m、深さ6mほどの豪快である。 この曲輪の西、鳥居のある平坦地にこの堀は合流するが、ここも腰曲輪である。 この堀に囲まれたこの郭Tが防御が厳重であり、本郭であろう。 先端部の松尾神社のある郭Uが一見、本郭のように見える。 この曲輪には郭1側に土塁を持ち、東に降りる虎口がある。 しかし、狭く、氏神が祀られていた神聖な場所であり、本郭ではないであろう。 言わば腹切り曲輪でもあり、物見にも使われていたと思われる。 同様な形式は付近の島並城、小高城も同じ形式であり、遠く佐竹系の宇留野城や石神城、水戸城も類似の形式である。 登り道の右手に見えるのが郭Vである。 西側と郭Vの切岸は鋭く、高さ10mはある。 |
本郭北側の横堀。 | 郭U南側の土塁。 | 郭Vと郭W間の堀切から見た郭V |
郭Vと郭W間の堀切 | 郭W東側の堀切。深さ8mほどある。 | 郭W南側にある櫓台跡。 |
また、この部分は堀切のような形で郭Vと分断されている。この堀切状の道を上がっていくと小盆地のような場所に出る。
東は山である。どうもここが館址ではないかと思われる。
東の山側から攻撃されたらひとたまりもないので、堀や土塁があってもよさそうであるが、主郭側から堀と土塁が延びているが、八幡神社の鳥居のあるところまでであり、その南には確認できない。耕作のため破壊されたのかもしれない。
ここまでが北半分の部分であるが、安福寺からの登り口の右手に勾配の急な切岸が見える。
この南側が南半分の部分である。
ここは普門寺の墓地になっている。
ここも曲輪であるが、「コ」字型をしており、北端と南端部がひときわ高くなっている。
北端部は3段ほど段々になっており、全面墓地になっている。
最上段部は北側にある郭T、Uよりも5mほど高い。南端側も土塁状になっており、一面の墓地である。
ここを東に行くと、深さ、幅とも10mはある大堀切に出る。
この堀切で東側の山と遮断するとともに、南に通じる堀底道も兼ねていたようである。
北側と南側の間は堀状になっている。
西側に下る道があり、ここを降りると郵便局前に出る。
常陸大掾の流れを組む馬場氏の一族が築城し、札氏を名乗ったという。
または平國香の後裔平繁幹がこの地に来て築いたともいう。
両説には300年以上の違いがあるが、ルーツは常陸平氏であることには違いはない。
以後、戦国末期まで札氏はこの地を支配する。
札氏も南方33館の館主であったため、天正19年(1591)佐竹義宣に常陸太田城に招かれるが、虐殺にはあっていない。
当主、札幹繁は小里に逃れてそこで病死したともいう。
佐竹氏との密約があって、生命だけは保証されたともいう。
しかし、城主としても生命は絶たれ、以後廃城となったと思われる。
城郭遺構は台地縁部に比較的良好に残っており、予想以上に広い感じの城である。
しかし、台地上、縁部東の山との間の平坦部の遺構が曖昧である。
この部分は畑にするには適切な場所であり、耕地化され長い年月が経って分からなくなってしまったのであろう。
阿玉館(鉾田市(旧大洋村)阿玉字城亀)
旧大洋村はかつては都会で働いていた人が退職後に住むための別荘地として土地が売り出され、そこら中に別荘風の建物が建っている。
老後は温暖なこの地で家庭菜園などをしながらのんびり過ごすというのが売りだったと記憶しているが・・・。
しかし、実際はどうなのか?
聞くところによると都会風の自分勝手な主張をして原住民との軋轢を生んでいるとか、税金を納める額より使う額の方が大きいとか、色々な話があるようだ。
別荘風の建物以外は林と畑といった田舎の地である。
一応、館南側の堀と土塁を写したのだが・・・ これじゃあ、さっぱり・・この館、どこを撮っても藪。 とりあえず、到達記念の証拠写真 |
その中にこの阿玉館がある。
別名は「城亀城」という。
館跡のすぐ北側に東電の大洋変電所があるので、これが目印である。
変電所は西の県道18号阿玉交差点から国道51号汲上交差点に向かい1.2kmほど走った市道沿いにあり、変電所の西側の小道を進めば堀があり、土塁がある。
そこが館跡なのだが・・・。ここも凄まじい藪である。
とても内部を歩ける状態にない。80m×60mほどの単郭の方形館であるが、遺構はほぼ完存のようである。
堀はかなり埋もれてはいるが、土塁上からの深さ3m、幅5mほど。虎口は西側にある。
航空写真は国土地理院が昭和49年に撮影したものを利用。
余湖くんのHPを参考。
阿玉城(鉾田市阿玉)36.1673、140.5204
大儀寺境内が城址である。
東約500mが北浦であり、標高は32.6m。
やや奥まった場所である。鹿行大橋からは北約1qに位置する。
@寺北側に残る長さ約70mの掘。 |
寺北側に土塁と幅約10m、深さ約2mの掘@が東西約70mにわたり残る。
寺の入口の土塁Bも遺構と思われる。
途中から南に掘と土塁が南に延びているAので複数の曲輪があったと推定されるが、全貌は分からない。
北約100mに掘と二重土塁が北東側の谷津に沿って残るが、この遺構と寺の遺構が関係があるのか分からない。
中居時幹の第3子、幹時が阿玉氏を名乗り、東約500mにある阿玉館に住んだが、後に阿玉城に移ったという。
(「茨城県の中世城館」を参考にした。)
A @の掘は途中で南に分岐する。 | B寺の入口の土塁も城郭遺構らしい。 |