磯浜海防陣屋と日下ヶ塚古墳、車塚古墳(大洗町磯浜町)
大洗町市街地の北側は太平洋と涸沼川に挟まれた丘陵地帯になっている。
そのうち、この磯浜海防陣屋と日下ヶ塚古墳(ひさげづか、常陸鏡塚古墳)のある丘陵は径約300mの標高30〜38mの独立した丘になっている。
この丘上には日下ヶ塚古墳を含む磯浜古墳群があり、丘上からは南下に大洗港が見える。↓
現在は埋め立てにより海までは遠くなっているが、陣屋が機能していた江戸時代末期は約500mの距離にある海岸道路付近が海岸だったという。
丘上からの眺望は抜群であり、権威を誇示するための古墳が築かれたした理由は現地に行くとよく理解できる。
また、ここは天然の物見台であり、海を監視する場所としても理想的である。

↑磯浜海防陣屋から見た南側の大洗港、右がマリンタワー、入港した苫小牧航路のフェリーが見える。

さて、この丘に行こうとするが、丘に登る道は分かりにくく狭いうえ、車を駐車するスペースも少ない。
丘下の大型店舗や公共施設に車を置き、徒歩で行くのが良いだろう。
タイトルの「磯浜海防陣屋と日下ヶ塚古墳」であるが、この2つは一応別物ではあるが、現実には日下ヶ塚古墳を取り込んだ磯浜海防陣屋と言うべきであろう。
陣屋の機能の一部に古墳を取り込んでいるのである。
古墳を取り込んだ城館は多いが、ここも同じである。
古墳を取り込んだ城館は戦国時代に限らないのである。

@ 陣屋の主体部「権現台」
A 権現台の西下に土壇がある平坦地がある。

ここに海防に係る施設が設けられたのは文政8年(1825)という。
「磯浜志」には、「権現台」の説明の中で、四方を眺望する勝景の地であり「文政ハ乙酉六月夷舳防御ノ官舎建 望洋館ト号ス」と書かれる。
日下ヶ塚権現台に「望洋館」という名の遠見番所が設けられたという。
さらに徳川斉昭が天保7〜13年(1836〜1842)にかけてこれを強化し海防陣屋としたという。
「大洗地方史」には、陣屋が日下ヶ塚の高台に天保5年(1834)に設けられ、天保10年(1839)には五百匁玉筒三丁を備え、一丁に付20発計60発の弾丸を常備していたと書かれる。
天保13年(1842)9月6日の記録では要員として陣屋付属与力2騎、同組同心20人、同足軽10人が配置され、初代同心頭は三木玄徳孫大夫で、全員が磯浜に居住させられたという。
しかし、元冶元年(1864)9月の天狗党の騒乱(元治甲子の乱)で天狗党の攻撃を受けて焼失したと考えられている。
助川海防城等と同様、海に対する防御施設であったのだが、敵は陸から来るという皮肉さであった。
なお、この間、安政2年(1855)4月に磯浜沖にアメリカ船が錨を下ろしたというが、この時、どんな対応をしたのだろうか?

B権現台から見た日下ヶ塚古墳の前方部。
右側半分は削られている。手前に周溝があった。
C日下ヶ塚古墳の後円部墳丘。
 ここに望洋台があっただろう。
D東から見た日下ヶ塚古墳後円部、周溝が残る。

権現台とは海側の縁部に位置する1.5〜2mの高さを持つL型をした土壇のことであり、東西約22m、南北約47mの広さを持つ。
南縁と東西縁が直状を呈するのに対し、北縁はL字状の屈曲する。
上面は平坦であり、周縁は垂直に立ち上がるのではなく急傾斜をもち、石塁等は観察できない。
この土壇全体が盛土されたものと考えられる。
南側に約25m四方の突き出しがあり、東西の先端に土壇がある。
いったいこれは何だろう。
さらにその下にも平場がある。

一方、北側の日下ヶ塚古墳の墳丘は東側が抉られた状態となっており、前方部の半分がなくなり、後円部も抉られている。
この破壊が陣屋建設に伴うものかは分からないが、南側の周溝が埋められているので、埋め立ての資材として墳丘を削った可能性があろう。
墳頂からの眺望は良く四方が見渡せる。この場所も陣屋の一部に間違いないであろう。
陣屋跡からは、軒桟瓦・桟瓦・軒丸瓦・丸瓦・平瓦などの瓦が発見されていて、当時建てられていた建物に葺かれていたものと見られているが、明治期のものも混じっているという。

海防陣屋を中心に書いたが、この丘は磯浜古墳群がある方が遥かに有名である。
この古墳群は陣屋の一部にもなっている日下ヶ塚古墳を含む前方後円墳2基(もう1つが坊主山古墳)、前方後方墳1基(姫塚古墳)、円墳1基(車塚古墳)からなる。
昭和24年(1949)に日下ヶ塚古墳の発掘調査が実施されている。
陣屋に利用された日下ヶ塚古墳は墳丘長約103.5mの大型前方後円墳であり、1949年の調査で人骨とともに鏡2面、石製模造品、玉類、鉄製品など4100点におよぶ豊富な副葬品が発掘された。
車塚古墳は直径約88mの円墳で、3段構造、高さは13m、円墳としては全国屈指の規模になる。
周溝部を含めると直径は120mにも及ぶ。

車塚古墳の墳頂部を下から見る。 車塚の墳頂。
古墳表面を葺いていた扁平な河原石が多く見られる。
墳頂から水戸方面を望む。家の場所が周溝跡。

この古墳群が作られた時期は、古墳時代初頭-前期の3世紀後半-4世紀頃と推定される。
近くの髭釜、一本松遺跡は弥生時代から古墳時代に続く大規模集落遺跡であり、そのた首長達の墓群と推定される。
この丘は太平洋を一望するとともに那珂川、涸沼川水系の河口部に所在することから、被葬者が海運、水運を掌握し繁栄したものと思われる。

古墳の工事量は膨大であり、その権力、財力の大きさと繁栄が推定される。
大洗磯前神社の神陵説のほか、仲国造一族の墓説なども挙げられている。
(大洗町のHP、磯浜古墳群のパンフレット等を参考にした。)

祝町向洲台場(大洗町祝町)
アクアワールド大洗の西側は標高20mの高台になっている。
その高台が「祝町向洲台場」である。
品川のお台場とまったく同じ幕末に築かれた砲台の1つである。

水戸藩第9代藩主徳川斉昭が、天保11(1840)年に水戸に帰ったとき、那珂川対岸の那珂湊の砲台のみでは海防が不十分であると考え、対岸のここ大洗の祝町へも砲台を建設することを計画した。
この計画はすぐに実施されなかったが、ペリー来航を受け、安政2(1855)年4月に縄張りが行われた。

その後、藩内の事情もあって、砲台築造は文久3(1863)年7月頃から工事がはじめられたというが、完成までは至らなかったようである。
翌、元治元年の天狗党の乱では、この砲台から大炮が発射されている。

右がアクアワールド大洗、左の岡の林が台場跡である。林の後ろが那珂川河口部である。
土塁の後ろの窪みに大砲が据え付けられていた。 南西端のこの部分は砲撃指揮所か?

明治期までは砲台の姿がよく保存されていたという。
コの字形のコーナー部を切り欠いた土塁の内側に大砲設置用の張り出し部を9ほど設けている。

土塁を築いたというより台地を刻んで土塁状にした感じである。
大きさは200m×100m四方ほどあり、北側は一部破壊されているようであるが、南側の方形台状遺構は良好な状態で残っている。
南西端は独立した感じであるが、ここは砲撃指揮所であろうか?
櫓か何かが存在し、測儀器が櫓上に据えられていたのではないかと思われる。

大館と小館(大洗町松川第二)
大館
大館の位置は大洗鹿島線の「涸沼駅」北東の丘の上にある。
駅を出た水戸方面に向かう電車は直ぐにトンネルを潜るが、このトンネルのある標高20mほどの岡の上が館址である。

館のある岡は東側から西側の涸沼方面に延び、南側は平地、北側は侵食谷、東のみ台地に続く。
この北側の100mほどしかなく狭い谷を挟んで小館がある。
ここからの西側の涸沼の眺望は非常に良い。

館の広さは南北200m、東西100m程度であり、南北に主郭が3つ並び、北側の郭が本郭であったらしいが、遺構はほとんど失われてしまっている。
鉄道の高架を潜って東に行くと、南側から台地上への上り道がある。
この道が大手道であったと思われる。

この道を登ると途中に腰曲輪が確認できる。
しかし、草が茫々である。台地上はほとんど畑地になっており、遺構は見られないが、岡を登りきった場所はどうも虎口だったようである。
北に向かうと段差があり、ここに堀があったらしい。その先にも段差がありここにも堀と土塁があったらしい。
この部分の堀と土塁は湮滅しているが、西側に行くと堀と土塁は完存している。
(この場所からは藪が酷くてとても行けない。)東は台地に続くが、地勢は低くなり、こちらの方面も畑であるが、土塁と堀で丘が続く東方面を遮断していたらしいが、すでに湮滅している。
この館の良好な遺構は台地の西側と北側に残る。
ちょうどトンネルの真上の部分である。

この方面は西側から小道が延びているのでこの道を行くと良い。
岡を登りきると、堀と土塁が見えてくる。
堀幅は4mほど、土塁は堀底から4mほどの高さがあり、二重土塁となっている。
それほどの規模ではないが、折れが見られる。
ここの堀と土塁は南に延び、東と南に分岐する。

堀と土塁の西側には腰曲輪がある。
北側の西側台地縁には土塁と堀は見られない。
湮滅したというより始めからなかったようである。
北側の台地縁には二重土塁がある。
この方面の土塁幅は8mほどあるが、堀はかなり埋没している。
やはり土塁に折れがある。

トンネルの北側出口上の部分は土塁が三重になっている。
結構大型の館であり、この付近では最大規模である。
地域支配の拠点である。
館の来歴については明確なことは不明である。
西に見える涸沼周囲は江戸氏が支配しており、湖上の水運も江戸氏が管理していたため、地域支配に水運管理も兼ねた江戸氏系の城郭であろう。

西側に残る二重土塁と堀。 北側も2重土塁になっている。
土塁幅は7mほどあり広い。
館跡東側は台地に続く。
この方面の土塁と堀は隠滅している。

小館
小館は大館と幅100m程度の谷津を挟んだ北側の台地西端部にある単郭の館である。
すぐ東は大洗鹿島線の切通しである。
館のある山は直径
100mほど、比高20mほどである。
この山の頂上部直径
4050mの範囲が館の領域である。
館には南から登る小道があり、この道を高さで
10mほど登ると虎口が開いており、主郭周囲を取り巻く堀底に出る。
主郭は少し西に登る道から入るがこの道はどうも後付けのようである。
郭内は直径
2530mの広さで高さ1.5m位の土塁が1周する。
郭はほぼ円に近い形状をしている。
虎口らしいものが東、北と西にあるがこんなに虎口が多いものであろうか。
周囲の堀は北側が腰曲輪状になっており前面に土塁はないが、この部分から北側に降りる道があったと思われる。
この館、遺構は完存状態であり、周囲に横堀をまわす先進的な構造である。
大館の出城であったことは間違いない。
戦国末期に江戸氏によって築かれたものであろう。
しかし、主郭部周辺は藪状態である。
特に東側の堀底は小竹が密集しており歩きにくいことこのうえない。
西を走る県道から見ると単なる小山にしか見えないが、この山の中にこんな素晴らしい遺構が眠っているとは想像がつかない。

館南側の虎口を通ると郭周囲の堀底に出る。 郭北側の虎口。 南側、大館北下から見た小館。
写真右端あたりに登城路
がある。

天神山館(鉾田市(旧旭村)箕輪)
大洗鹿島線涸沼駅の西南600m、西側から駅方面に突き出た半島状の丘の先端部が館跡という。
標高は約20m、比高は15mほどである。
東側の台地先端部下から登る道があり、この道を登って岡の上に出る。
ここが館跡らしいがただのイモ畑が広がっているだけである。どうもすでに湮滅しているようである。

西側に神社(天神社?)がある。
この境内に遺構が残っているのではないかと思って見てみても特段何もない。
ただし、台地先端付近の畑の中に盛り上がりがあった。近くによって見ると古墳である。
解説板に天神山4号墳とある。
立派な石室を持ち、馬具等が出土したとある。
4号墳ということは後3つ古墳があるはずであるが確認できない。
それにしてもこの4号墳、周囲は1つの畑であり、古墳まで行く道がない。
解説板を読むには畑に入るしかない。
不法侵入公認ってことか?
館は古墳と取り込んだものであったのかもしれない。
大館と涸沼駅周辺、大谷川沿いの平地を両側から抑える位置にあるため、ここも大館の出城であったのかもしれない。
江戸氏系の館であったのではないだろうか
畑の中に残る天神山4号墳。
これも城郭遺構の一部か?
館跡の畑。北に広がる涸沼が望める。

松川陣屋(大洗町松川)

松川陣屋は、涸沼を西に望む標高24m(比高20mほど)の大洗台地の西の縁にある。
小館からは北東700mの地点である。
ここの字名はずばり「旧陣屋」である。
陣屋のある岡の西側と北側は絶壁状である。この台地は太平洋と涸沼間にあり、陣屋跡の東は台地に続き、その東の端からは太平洋を望める。
陣屋のあったという地は現在はただの畑であり、特段何もない。陣屋は200m四方程度の範囲であったらしく稲荷神社から西側であったらしい。


しかし、陣屋跡から見る涸沼方面の眺望は素晴らしい。
特に日没時の風景は絶品である。
遺構はないが、台地西側の切岸は城郭遺構ではないかと思われる。
ところが、所用を足すために県道の南側の藪に入ってびっくり。
なんと道に沿って横堀のようなものがある。岡の中腹付近を南北に延びている。
これは一体何なのだろう。
昔の道のようでもあるが、道底に幅がないし、前面に土塁を持つ。
この付近は水戸藩の支藩である福島の守山藩の飛び地(支藩にした時に分与した領地)であり、守山藩が元禄14年(1701)に代官所を置いたのが始まりといい、後に藩主も移り陣屋を称したものという
南側の県道脇の横堀? 左の横堀?前面の土塁。 館南下の県道。左の法面は切岸? 館跡南の斜面は切岸か?