古屋城(行方市(旧麻生町)行方字古屋)
ほとんど知られていない城である。
しかし、堀と土塁にド肝を抜かれた。
土塁の高さ、堀底から最高で15mほどもあるのである。

堀の幅は20mほどある。
それが未確認ではあるが、3面を覆っているのである。
場所は霞ヶ浦東岸を走る国道355号線沿いにある「Kマート」から東に入っていく道を1kmほど行くと曹源寺という寺があり、その東側である。
城は南側の低地の面し、低地側以外に堀と土塁を回した単郭の城である。

堀を入れて100m四方程度の規模と思われる。
虎口は西側Aにあり、土橋がある。この部分、若干内側に入った感じとなっている。
上の写真のように北側@にも虎口があり、土橋があるが、後世のもののように思える。
残念ながら内部は民家があり、入れない。
土塁や堀の規模や構造からして戦国末期まで使用されていたことは間違いなく、かなりの有力者の城であろう。

隣の曹源寺は下川辺氏によって創建と説明板にあるされたというので、その関係者の城が最初であったとも思えるが、行方一族、行方郡司、行方忠幹の居館であったともいう。
いずれにせよ戦国末期、この地は行方氏の小高氏が支配していたので、小高氏が最後の城主であったのは間違いないであろう。
今に残る土塁の規模はこの地方最大級である。
その本家筋の城であったのであろう。

A西の土塁間に開く虎口と手前は土橋 B堀と土塁であるが、藪で・・土塁上まで最大15m。 C 南西側の堀は埋没が激しい。

古屋城(行方市(旧麻生町)行方於下)
2017.2.12再訪
今回は城址内の民家の方の了解を得て、曲輪内に入った。
土塁は特に台地続きの西側が高く曲輪内からも6mほどあった。D

おそらく堀を掘った土を盛ったものであろうが膨大な工事量である。
この土塁は東側になると4m程度に低くはなるがそれでも重厚である。E

北側と南側に虎口があり、北側の虎口を出た付近が半円状に少し高くなっている。
これは丸馬出の痕跡のように思える。
一方の南側の虎口を出ると正面が曹源寺である。
確かなことは分らないがこの境内も城郭の一部のような感じである。
二郭に相当する場所ではなかったのかと思う。

D曲輪内部から見た@の虎口付近の土塁。
高さは曲輪内からも6mほどあり、屋根より高い。
E曲輪内部から見た東側の土塁。この方面の土塁は低い。

なお、下川辺(しもこうべ)氏と行方氏、小高氏との関係はよく分らないが、鹿行地方は元々、大掾系氏族の支配地である。
一方、下川辺氏は藤原秀郷の系統という。この地方の武家としては異系統の者、よそ者である。

下河辺という姓は姓は領地であった下川辺庄から採ったという。
下川辺庄は下総葛飾郡にあった八条院領の荘園であり、埼玉県北葛飾郡と茨城県猿島郡の一部、および千葉県野田市の一部を含む江戸川と古利根川とに挟まれた地域と指すとされる。
藤原秀郷の流れを組む、下河辺行義が荘司となり、名字とした。

下河辺氏は承久の乱(1221)後、北条氏の家臣となり、『吾妻鏡』にも登場する。
下河辺氏の名は小山、古河城、志築城など多くの城に係って登場するが、下河辺庄を含め、当時広大な内海であった旧霞ヶ浦の沿岸及びそこに流入する河川沿いにある地である。
この行方の地も同じであり、船子城も関係する城である。船子城の麓にある浅間神社にある解説によると、足利持氏の乱(1439)で追われた関宿の城主下河辺義親が小高地頭を頼って当地に来て船子城を築いたという。
旧霞ヶ浦の沿岸付近に足跡を残していることから湖内水運に係り、沿岸に広がったのではないかと思われる。
この地に来た下河辺氏も水運仲間の小高氏を頼って亡命し、その家臣または同盟者となっていたのかもしれない。

船子城(行方市(旧麻生町)船子字要害)
船子にある浅間神社裏、北側から東側の比高15mほどの台地一帯が城址である。
ここも台地の周囲が民家であるので城址に行く道に迷うが、浅間神社@社殿裏の急な坂を上がるのが手っ取り早いだろう。
そもそもこの浅間神社の地も怪しい。

周囲には堀があった感じであり、この神社から東側の民家の地付近に居館があったのではないかと思われる。
そこは南向きであり、背後が城のある丘、居住地には申し分ない。

神社裏の急坂を上がると墓地があり、先端の曲輪TAになる。
この曲輪Tからは今は木で見えないが、西に霞ヶ浦が望まれる。
湖上監視にはいい場所である。
当時の地形は分からないが、おそらく霞ヶ浦はこの丘の西下まで入り込んでおり、船付き場があったのであろう。

と、なるとこの城は小高氏の管理する港に係る城だったのではないだろうか。
だいたい「船子」という地名自体がそれを暗示している。


一辺40m程度の三角形または歪んだ台形状をしており、東側には高さ3mほどの土塁が周り、その東側は深さ6mほどの堀切Bである。
東側の曲輪の方が規模は大きいが、防御が厳重な点から考えればこの曲輪が本郭に相当する曲輪のような気がする。

この曲輪の東には一段と低い平坦地(曲輪U)があるが、そこはすでに耕作が放棄され、藪化した畑であり、歩けたものではない。
北側に虎口がある。その東が盛り上がり、そこにこちらも本郭と思えるような周囲を土塁で囲んだ曲輪Vが存在する。

さらに南側にかけて横堀B(または前面に土塁を持つ腰曲輪)が回り、南側に大手曲輪のような直径20mほどの土塁で囲まれた曲輪WDがある。

南に虎口があり、曲輪が数段続き、南端に物見台Gがある。
ここが大手道であったと思われる。
ここを入り大手曲輪Wに入ると正面に曲輪Vの切岸が高さ7mほどにそびえたち、攻撃ができるようになっている。
曲輪Vにはさらに東に堀、(または前面に土塁を持つ腰曲輪)を迂回して入る。
入り口の虎口を入ると高さ2mほどの土塁Eが回っているが、藪で歩けない。
この曲輪50m四方くらいであろうか。
広さが藪のため全く分からない。もっと広いかもしれない。
曲輪Vの東には堀Fがあり、さらに東に曲輪Xがある。
ここに小さな社があり、周囲を低い土塁が囲む。

この土塁は社設置によるものだろう。この曲輪は70m×40mほどであろうか。
曲輪Xの東が深さ7mほどもある鋭い堀切Hがある。
さらに東側に墓地となっている曲輪Yがある。

また、曲輪U、V、Xの北側にも数段、曲輪があったようであるが、民家の敷地となっており、よく分からなくなっている。
本郭と思える曲輪が2つ存在する面白い形状であり、城域も東西400m、南北200m近くあり、広大で、技巧性もある。
しかし、それほど堅固かというとそれほどでもない。
米蔵などを置き、領主や住民の財産防護用の城だったのかもしれない。

@南西の麓にある浅間神社は居館の地か? A曲輪T内部、東側を土塁がU字型に覆う。 B 曲輪T東の堀切
C 曲輪V南の横堀または土塁付帯曲輪 D 土塁に囲まれる大手曲輪W E 曲輪Vの周囲は土塁が覆う。
F 曲輪V東の堀切。 G 南に延びる大手筋。堀切と物見台。 H 曲輪X東の巨大堀切

浅間神社にある解説によると、足利持氏の乱(1439)で追われた関宿の城主下河辺義親が小高地頭を頼って当地に来て船子城を築いたという。
その後、下川辺氏は、行方の中城へ移り、その後は小高氏の城となったようである。
小田原の役後、天正19年(1591)2月、三十三館主謀殺事件で小高氏は佐竹義宣に滅ぼされ、廃城となった。

航空写真は国土地理院が昭和49年に撮影したものを利用。
余湖くんのHPを参考。

永山城(行方市(旧麻生町)永山)

非常に見学しやすい場所にある城であり、遺構も完存で技巧面でも1級。
 まるで中世城郭を山から切り取って持ってきてこの場所に展示したといった感じである。
 おまけに「かすみの里公園」に隣接しているため、駐車場の心配もなく、歩いて0分というありがたさである。
 なお、この公園も城の一部であったらしい。地形からして居館などがあった場所ではなかったかと思う。

 
 城のある場所は霞ヶ浦東岸の丘陵を越えた東側の比高20m、長さ200mほどの小山にある。
 東は夜越川の平地があり、北側以外は水田地帯である。当時は泥田や湿地帯であったと思われる。
 南東1qには堀の内大台城が見え、さらに南に嶋崎城が望まれる。
 左の写真は西側から見た城址である。
 現存している部分は主郭に当る部分のみであるが、ここは真ん中に深さ10mほどの巨大な堀があり、この堀で東側と西側に主郭部が分けられている、このうち東側の郭が本郭であろう。
東側の本郭Tは東西に長い曲輪であり、周囲に土塁が回る。
 周囲は急勾配に加工されている。虎口も数箇所あるが南の虎口は枡形状になっている。
 本郭の南側は横堀が巡らされている。北側7m下は腰曲輪Vがあるが、この曲輪は本郭の切岸を鋭くした結果、形成された意味もある。
 この腰曲輪も北側の駐車場から5mほど高い。
 東側下には腰曲輪を経て、堀切があり、さらに曲輪W があり、堀切がある。
その東は物見台のような曲輪Xと続く。

 西側の曲輪Uの高さは本郭とそれほど変わらない。
 やはり周囲を土塁が巡り、南に枡形虎口がある。
 ここから下りる道は斜面を蛇行し、堀や曲輪が巧みに配置される。
 永山城は、大掾流の行方一族の小高幹平の子知幹が築城し、永山(長山)氏を名乗ったことが始まりである。
 永山氏は上杉禅秀の乱で活躍したが、同族の島崎氏に滅ぼされた。
 この時、島崎氏は、東を流れる川を渡って攻撃してきたので、この川を夜越川というようになったという。
おそらくこの城は台地続きの北側からの攻撃を想定している。
 このため、嶋崎氏の攻撃は想定外の方面から行われたことになり、奇襲になったのであろう。
 しかし、この城から嶋崎城までは直線で2q程度である。こんな至近距離で敵対していたのであろうか?すこし信じられない。
曲輪T、U間の深い堀切 曲輪Uの東に開いた虎口。 曲輪Uの南の虎口と土塁。 曲輪U南下の堀底道。
曲輪V内部。 曲輪T南の虎口と土塁。 曲輪T、W間の堀切。 曲輪W、X間の堀切。

その後、この城は嶋崎氏のものとなり、佐竹氏に滅ぼされるまで嶋崎城の出城として使っていたようである。
 この地が佐竹氏の手に落ち、堀の内大台城が築かれるとその出城として存続していたのではないだろうか。
 嶋崎城と堀の内大台城にとってこの城は出城として絶好の位置にある。
 したがって、今見られる姿は滅亡した永山氏オリジナルのものではなく、嶋崎氏、佐竹氏が手を入れたものであろう。

相賀城(行方市(旧麻生町)根小屋)
 字名が根小屋というので「根小屋城」ともいう。根古屋城、あるいは根小屋城という名の城は全国に無数にある。
 このため、この城は「相賀城」という別名を使った方が分かりやすい。相賀とはこの城の城主、相賀氏が由来である。

 北浦西岸、南に北浦の入り江を見下ろす北から南に延びた比高35mほどの半島状台地の先端部を連郭式に掘り切った城である。
 この最南端部、八幡神社がある地が本郭であろう。
 南の低地から見ると山の先端に展望台が見えるが、ここが本郭の地である。
 本郭である八幡神社には南から参道が延びているのでその階段を登っていけばよい。
 しかし、この道は分かりにくく、車で行く場合は駐車場の問題がある。
 このため竜翔寺の駐車場に車を置いて、山麓を50mほど西に行くと参道に出る。
 竜翔寺の地が居館ではなかったかと思う。
 当然、今の根古屋の集落はそのまま当時は城下町であったのだろう。
 右の写真は南側の低地から見た城址である。
本郭の切岸は鋭く、麓から30mほどの高さがある。
 神社直下西側まで登ると本郭を西から北をまわり本郭北の堀切に合流して、さらに竪堀となって東に下りる横堀が現われる。
 横矢がかかりよく整備されている。その場所の南には竪堀がある。
 本郭は直径30mほどの広さであり、東側には帯曲輪がある。
 ここからの北浦方面の眺望は素晴らしく、展望台を置く価値は十分ある。
 神社本殿の本郭北側と西側に土塁があり、その北側が郭Uと仕切る堀切である。堀底までは8mほどあり、土橋で郭Uと結ばれる。
 東側は竪堀となり、西側は横堀となっている。
 この横堀は途中で2つに分岐し、二重横堀となる。
 良く整備されているのはここまでである。城域はこの北側に広がるが、この方面は草茫々である。
 堀切の北側が郭Uであるが、郭内はとても入れる状態ではない。西側下7mには土塁を持つ幅15mほどの帯曲輪がある。
 
曲輪Tの土塁。 曲輪T西下の横堀。 曲輪T、U間の堀切。 曲輪Tから見た南の北浦の入江。
曲輪U西側の腰曲輪。土塁を持つ。 曲輪U、V間の堀切。 曲輪V、W間の堀の跡。 広大な曲輪W.一面の畑になっている。

郭Uの北側は堀切になっており、西側は竪堀、東側は横堀となる。
 郭Uから東に尾根が延びている。この尾根は竜翔寺北側の山に相当し、当然、この尾根にも曲輪があったはずであるが、そこまでは行かなかった。
 郭Uの北側に長さ30m位の曲輪がある。
幅は10m程度しかないが、途中に堀切がある。東下には帯曲輪がある。 

ここを越えると郭Vである。その間は堀切があり、土橋がある。
両側は竪堀である。
 郭Vも藪であるが、郭U側は土塁がある。やや西側に小さな社があり、その周囲に土塁がある。
 この郭の背後北側に幅10mの堀があるが、現在は深さが1.5mほどしかない。
耕地化により埋められているようである。
 その北が郭Wであるが、ここは一面の畑である。東西幅60m、南北100m以上もある。

 北のはずれに城址の説明板があるが、北側からここまで来ることができるのであろうか?
 本来、この説明板は八幡神社の地に建てるべきものであろう。
都合、南の八幡神社からこの説明板までは450mほどもある。
 この城、南端の本郭部付近はしっかりした造りであるが、北に向かうに従って手抜きになっている印象がある。
 どうも郭V以北は急きょ拡張したような印象である。
郭V、Wは広いだけが取り得であり、領民の避難場所ではなかったかと思う。

 説明板によると、相賀城が最初に築かれたのは平安時代、逢賀三郎親幹によるものだという。
 戦国時代に手賀氏によって再建され、相賀城と呼ばれるようになった。
 この時、手賀義元は相賀入道と名乗ったという。相賀氏も南方33館の1人であり、やはり天正19年、佐竹氏に本家筋の手賀氏ともども滅ぼされたという

島並城(行方市(旧麻生町)島並) 

麻生運動公園の南700m、谷津を挟んだ南側、是心院の地が城址である。下の写真は運動公園から見た城址である。 
西1qには霞ヶ浦がある。
それほど大きな城ではなく南北200mが城域である。
 城は島並の集落から北に突き出た比高20m程度の半島状の台地にある。
 台地の付け根部が土橋状になっており、この土橋で南側の台地と繋がる。

 
 両側が堀切状になり、台地下に通じる道が両側に延びる。
城郭遺構がちゃんと残っているのは北半分であり、南半分は寺院となり遺構は失われている。
 北端にある郭が本郭と思えるが、ここは狭く、札城の八幡神社のある場所と同様、氏神を祭った神聖な場所であり、本郭ではないであろう。
本郭と推定されるのは先端の曲輪の東南に位置する曲輪である。
 大きさは40m×30m位である。東側が腰曲輪であるが、他の3方は堀が巡り、この城の中ではもっとも防御は優れている。
 西側にある郭 は墓地造成で南側が崩されているので本来はもっと大きかったと思われる。

 西側下を北側から大きな横堀が回り、あるいはこちらが本郭であった可能性もある。
 是心院のある場所はすでに遺構は失われており分からない。
是心院の本堂当りの位置に堀や土塁があったのかもしれない。
 面白いのは島並の集落がある南側の台地より、城のほうが低く、集落側の台地先端から城内が一望の下に見渡せる点である。
 この感じは小諸城と似ている。
是心院の山門付近は一段高い。 曲輪T、U間の堀。 曲輪Tの西側から曲輪Uへの
土橋を見る。
城址のある尾根部付け根は竪堀状になっている。

こういう城を穴城というそうである。
 防衛上、島並の集落がある南の台地上に出城があって当然と思われる。
 しかし、宅地化でほとんど分からないが、それでも鋭い切岸や土塁のようなものが見られた。

ここには居館を兼ねた出城があったのではないだろうか?
 島並城は島並氏の居城であるが、島並氏の由来は不明な点が多いらしい。
 常陸大掾系行方氏の流れという説もあれば、それ以前の古代氏族の末裔という説もある。
 是心院は延慶2年(1309)の建立というが、この地に建てられたのかは不明である。
 島並氏の菩提寺であったらしく、おそらく廃城後、ここに移ったらしい。
 島並氏も佐竹氏により滅ぼされ、城は廃城となった。
 最後の城主、島並幹家の子であった島並幹國は、佐竹氏に仕えていたというので完全に滅亡した訳ではない。

右近館(行方市藤井)

玉川小学校南東600mにある根古屋集落から、さらに南東の香取神社方面に向かう山に登る道を上がった頂上部が館跡の東の堀切にあたる。
この道は西は国道355号線と平行に走る東側2本目の道である。

船子城からは北西900mに位置する。
山の高さは30mほど、切通しになっている堀切@が館跡の東端にあたり、堀切に面して土塁がある。



館跡Aは150m×30m程度の平地であり、北と南は急坂。西端に土壇がある。

この土壇から西と北に尾根が派生するが、藪で堀があるのか確認できない。

館に関する歴史は不明、右近とは官名であり、それが館の名になったのではないかと推定される。
@館跡東の道路は堀跡だろう。
道に面し土塁がある。
A館跡内部は杉林。東側に土塁がある。

藤平館(行方市藤井)
右近館から600m南東にある香取神社がある地が藤平館の跡という。下左の写真は香取神社の社殿である。
しかし、神社社殿の裏に土塁や浅い堀があるが、これが遺構かどうか確認できない。
南側に行くと、下右の写真のような虎口と思える場所があったが・・・。
城主等歴史は不明。