行方地方の城
 霞ヶ浦と北浦に挟まれた行方地方は最後には佐竹氏に滅ぼされてしまうが小領主達の城館が多くあった。
 ほとんどの城は湖に向かって延びた尾根状台地のの先端部に築かれているが、魅力ある城が多い。

小高城(行方市(旧麻生町)小高)
この城に始めて行ったのは2004年の夏、7月末だった。
城のある行方台地は起伏が激しく谷津が入り組んでいる。
したがって道路もアップダウンが激しく、しかも、城がなかなか分かりにくい場所にある。

常光寺の東側の岡が城址とはいうが、この方面からは道が狭く行きにくい。
何しろ当時乗っていた車は8人乗りの「ホーミー」である。走れる道路が限定されてしまう。
よく分からずそこら中、走りまわり、県道50号線を北浦方面から麻生方面に走り、井貝を過ぎ、道が東にカーブした辺りを西に曲がり、岡を下り、水田地帯を通り少し上りになる所に偶然、城址の説明板があった。
2017年2月12日に13年ぶりに再訪したが、今度はナビで誘導してもらう。
でも、それでも道がクネクネで結構迷ってしまった。

その案内板の北西側の岡が城址であった。
その岡はただのいも畑であり、城址と言われなければ城址とは分からない。

 
城は南西方向から北東に延びた尾根上の台地にあり、長軸500m、幅250mの範囲を有し、結構広い。
北東側の先端に近い部分に主郭部を置き、台地先端部は水田の中に突き出た状態になっている。
先端部の比高は20mほどである。

当時は3方を湿地帯に囲まれた要害性を有していたものであろう。
南西に延びる岡方面に連郭式に曲輪を構築し、この中を大手道が貫いていたのであろう。
岡の両側は谷津であるため、南西の付け根部は比高が低くなり、内宿の集落のある台地に通じる。

南から見たコダテと主郭部。手前の水田は当時は湿地帯であっただろう。

島崎城、麻生城、玉造城同様、常陸大掾系の行方平四郎景幹から分かれた行方4城の1つ行方城の長男為幹が、行方城から移って築き小高氏を称したという。
そして最後は南方三十三館謀殺事件に巻き込まれ、島崎氏、玉造氏同様、佐竹氏に滅ぼされている。
その後、佐竹一門の北義憲が城主となったが、佐竹氏の秋田移封によって廃城となった。

主な曲輪は大きく5つに分かれているが、本郭は曲輪Tであろう。
この曲輪は「ウチオンジョウ」または「ウチミジョウ」(漢字では「内御城」と書くのであろう。)と呼ばれていることや、周囲の土塁、堀の造りが入念であることから本郭として間違いないと思う。
形状は方形であり、100m×70mの大きさがあり広く平坦である。

この場所が居館の地であった可能性もあるが、政庁や迎賓館があった仕事場であったのかもしれない。
内部Bは畑だった。
曲輪周囲を囲む土塁は高さが2mほど。
周囲の堀@、Cは深さ7m、幅は15〜20mほどある立派なものである。

@曲輪T北側の横堀 A搦め手口の土壇 B曲輪T内部、周囲を土塁が囲む。
C曲輪T、V間の横堀 D曲輪V内部は畑。 E曲輪W中城内部。農道が多分大手道だろう。
F曲輪W、X間の段差、この間に堀があったが埋まっている。 G曲輪X南側 H曲輪X南側の腰曲輪

那須神田城や宮ヶ崎古館と似た形状であり、ここが築城当時の形状を残している部分のようである。
曲輪Tから周囲の横堀を経由して北に降りる道があり、その道沿いには3重の堀があり、先端が櫓台Aのような土壇になっている。
このルートが搦め手口だろうか?

その周囲の郭は、その後に拡張されていった部分であろう。
曲輪U「マンダイ」は台地先端部分の防御か最後の防衛(切腹?)のための曲輪であろうか。
そうではなく、氏神を祀ったり、城主の居館があったプライベートエリアだったのかのかもしれない。

石神城や宇留野城の最先端部にある御城と呼ばれる曲輪と位置や大きさが良く似ている。
ここは「マンダイ」とか「マンデー」と呼ばれているが、漢字では「万台」とか「万出」と書くのではないかと思う。
これは台所の意味だろうか?それなら居館だろうか。
虎口は本郭側の堀から入るIと南下の帯曲輪Lから入る2つがある。内部は高さ1.5〜2mほどの土塁Jが一周する。
先端部には深さ7mの堀Kがある。この堀は周囲の帯曲輪に通じる。

曲輪Uはかつては畑だったようであるが、現在は林に覆われる。
とても夏場の探索は無理である。
冬場でないと遺構も十分に見れない。

一方、曲輪V、W、Xは畑となり、堀や土塁の破壊が進行してしまっている。
かろうじて残痕が伺える程度であるが、曲輪形状は分かる。

I本郭(右)とマンダイ間の堀とマンダイへの入り口通路 Jマンダイ内南側を覆う土塁 Kマンダイ先端下の堀切通路

城址(右)西側に位置する小高氏菩提寺「常光寺」、ここも砦であろう。
Lマンダイ南下の帯曲輪

また、主郭部の周囲には腰曲輪等が展開しており、これも形状が明確に残る。
それぞれの曲輪は結構カクカクしており横矢がかかるようになっている。

このうち曲輪VDは馬出のような曲輪であり、その東下の腰曲輪は「コダテ」と呼ばれている。
これは漢字では「小館」と書くのであろう。
この場所は南斜面であり、日当たりも良く背後の曲輪Vにより風も防げる居住には適した場所である。
居館はここだったかもしれない。

曲輪Vの南西側が曲輪WEであり、中城と呼ばれる。
一面の畑である。赤土むき出しであり、雨あがりはドロドロ状態である。

南西側の曲輪X間とは段差Fになっているが、堀が埋められた痕跡があり、北側に堀が一部残存する。
曲輪XGは蔵屋敷と呼ばれている。文字どおり米蔵等があったのであろう。
北西に下ると常光寺であるが、寺の地は出城でもあったのであろう。
曲輪Xの南西に続く岡の「内宿」集落が名前のとおり、根小屋地区、城下町であろう。


羽生城(行方市(旧玉造町)羽生)
玉造支所から国道355号線を石岡方面に5q、霞ヶ浦を南に望む、標高24mの独立した低い岡にある。
岡の西から北は低地であり、町田川が流れる。
この川が実質的な外堀も兼ねる。



城址の南東が羽生小学校、要害という字名の地が曲輪X、万福寺@A境内である。
ここはかなり改変を受けているようであるが、大きな土壇が残る。
小学校側の切岸がいかにも城といった感じの勾配である。

城域としては400m×250mの範囲であり、万福寺から北西に延びる岡が主郭部である。
その間には堀があったようにも思える。
主郭部は一面の藪である。
この藪に突入すると、岡の真ん中に堀がある。
幅10m程度あるがかなり埋没している。堀というより曲輪のような感じである。

ここから北のでっぱり部分が城後という部分、曲輪Wであるが、内部は物凄い小竹の藪、平坦ではなく、ただの山という感じである。
ただし、北側には犬走りのような通路部分がある。
堀の南が高さ3mほどの切岸になっており、曲輪Vである。
堀に面して土塁がある。
しかし、曲輪内部は曖昧な感じであり、かつての耕作などで遺構が破壊されてしまったのではないかと思われる。

曲輪V内部は平坦ではなく、北西側は段々になっている。
この曲輪Vが城内最高地点であり、霞ヶ浦が良く見える。
曲輪Vの北西に通路となっている部分Bがあるが、これは堀跡であろう。
その先が曲輪U、ここも藪。

そして幅10m、深さ4mほどの立派な堀CEがあり、中央部に土橋Dがある。
土橋の幅は50pほどしかないがよく残っている。
この土橋を越えると本郭に相当する城山という「字」の曲輪Tである。

普通、土橋は直線的に本郭に入るように虎口が開いているが、ここは非常に変わっている。
右のイラストのように、土橋の先は切岸であり、虎口は少し南側に開いている。
土橋を渡ったあと、少し迂回してから本郭に入るようになっている。

その本郭、内部には稲荷社があったというが、その痕跡もない。ただの藪であった。
ここには石碑群があったというが、橘郷造神社境内に移築したということである。
岡の南西下の地区が「根小屋」とう「字」であり、城下町があったのであろう。
やはり、居館の地は万福寺の地ではなかったかと思う。
なお、町田川の対岸、北方に御北御殿跡がある。
@要害という字名の万福寺、曲輪Xにあたる。 A万福寺境内東の土壇 B曲輪U、V間の堀は通路になっている。
C曲輪T入口部北側の堀 D曲輪Tに入る土橋・・藪で分からん。 E曲輪T入口部南側の堀

ここは、平安時代の荘園「橘郷」の地であり、承安4年(1174)佐衛門佐兼押領使高階朝臣(経仲)が宰吏安穏、国土豊饒を祈願して鹿島社大称宣中臣則親に橘郷を寄進したといい、中臣氏の一族がこの地に来て、城を築き、羽生氏を名乗ったという。
鎌倉時代は安定していたが、戦国時代になると、羽生氏は近隣の芹沢氏などと抗争したことが 『芹沢家の歴史』に掲載の“一手接明神縁起”に記載されており、文明13年(1481)12月中旬与沢村の鎮守とした記録と、橘郷造神社伝承の応仁文明の兵火による焼亡説は明白に芹沢氏が橘郷を侵略した旨が確認される。
さらに、天文、永禄時代には小川の園部氏が侵攻したという記録もある。
最後は天正19年(1591)佐竹江氏による南方三十三館謀殺事件後の侵攻で羽生氏も滅亡し、廃城になった。
航空写真は国土地理院が昭和49年に撮影したものを利用。
(茨城県重要遺跡報告書Uを参照)


なお、写真@の万福寺仁王門は、県指定文化財であり、天正6年(1578)に稲敷郡新利根村小野逢善寺に建立されたものを享保9年(1724)逢善寺で新たに仁王門を建立するにあたり、古くなった仁王門を譲り受けたもの。
船で霞ヶ浦を渡り、ここに移築されたという。三間一戸、八脚、単層、入母屋、茅葺、建物全体を朱色に塗られ両脇には仁王像が安置されている。
ますまた、万福寺の創建は平重盛の家臣平貞能が重盛の持仏と遺骨を祀り菩提を弔う為建立したのが始まりと伝えられ、当初は芹沢にあったが、元禄年間(1688〜1704)徳川光圀の命により現在地に移された。
阿弥陀堂は三間四方、寄棟、茅葺、内部の天井は格天井で「龍の図」が彩色で描かれ貞享4年(1687)に水戸藩士芹沢氏高幹が寄進したと銘がある。
寺宝の木造阿弥陀如来立像は像高96p、玉眼入り、脇侍である観世音菩薩と勢至菩薩は像高72p、3体共に室町時代中期に制作され阿弥陀堂内部の厨子に安置されている。
仁王門の他、阿弥陀堂、木造阿弥陀如来立像及び脇侍像も茨城県指定重要文化財に指定されている。

沖洲城(行方市(旧玉造町)沖洲字道場、堀ノ内)
霞ヶ浦を南に望む旧玉造町と旧小川町境界付近の沖洲地区南端部の標高20mほどの山にあり、国道355号線が北側を通る。
この地区で国道は鎌田川、園部川が霞ヶ浦に注ぐ平野部への下りとなり、国道と霞ヶ浦の間が細長い山となっている。
こちら側からの比高は12mほどである。
反対側、霞ヶ浦側の南側は急勾配であり、かつては山の裾野に鹿島鉄道が通っていた。
その尾根状に細長い山が城なのであるが、古墳群と重複している。
つまり、古墳を利用した城なのである。


東側、羽生地区から見た城址方面。
右の山が城址。霞ヶ浦に面していることが分かる。
左に見える山は筑波山。
中央部の先に石岡の町がある。
左の写真は主郭から見た南側の霞ヶ浦。
今も港がある。当時も?
対岸は東に突き出た出島半島。戦国時代、佐竹氏が侵攻し制圧した。



古墳を利用した城はけっこう多いが、この城は複数の古墳、古墳群を利用し、その墳丘を削平して曲輪を作り出し、古墳間を堀切に利用している。
ここの古墳群を「沖洲古墳群」といい、前方後方墳1、前方後円墳1、円墳4、帆立型古墳1からなる。
その盟主と言われる古墳が、前方後方墳の勅使塚古墳であり、この古墳の墳頂部が主郭である。
この古墳、前方後方墳ということで古いタイプのものであり、5世紀初頭のものという。全長64mあり、管玉等が出土している。
その後方部を10m四方ほどに削平し、主郭とし、古墳の周囲の勾配を鋭くしている。
@北側から見た勅使塚古墳、斜面に帯曲輪がある。 A勅使塚古墳の前方部から見た主郭部 B古墳後方部西側の堀切に利用した切岸

西側は深さ8mほどの堀切に加工し、北側には土塁付きの帯曲輪、または横堀を回しており、途中に虎口が残る。
この古墳から南東方向に古墳の墳丘が続き、4つほどのピークがある。いずれも古墳の墳丘なのだが、どれがどの古墳なのか分からない。
墳丘は直径7m程度にいずれも削平されている。
そして南東端に深さ4mほどの堀切がある。ここまでが城域であろう。
全長200m幅30m程度の規模である。

C勅使塚古墳北下の腰曲輪 D勅使塚古墳前方部東の堀切 E城址東端の堀切

沖洲城の歴史は不明であるが、曲輪が古墳の墳丘なので、とても居住性はない。
南に霞ヶ浦が望まれるので湖上を監視する城であり、玉造氏と小川氏領の境であるので境界を防備するための城であったのではないだろうか。
もし、居館があったとしたら霞ヶ浦側の山裾であり、船着場もあったのであろうか?
なお、佐竹館という別称があるらしいが、佐竹氏の軍勢がこの付近に進出した時に使用した陣城ということも想定される。

麻生城(行方市(旧麻生町)麻生)

麻生市街の西側の丘にある羽黒山公園一帯が城址である。比高は25mほどである。
 東側の道から登るが、まず、城下川が目につく。
 城址の東下は幅30mほどになっており、これは明らかに水堀の役目を持たせている。
 川と岡の間は根小屋と呼ばれており、平時の居館があった場所のようである。
 丘の南側にもテラス状の部分があり、ここも居館部分であろう。その前の道は水堀の跡かもしれない。

城址は公園化により遺構はかなり不明確となっているが、城は駐車場のある場所の東側の公園事務所がある部分と西側にある高台のある部分の2つの部分から主郭が構成されていたようである。

 この2つの部分は北側に向けてV字形になっており、その間は谷津状になっている。
このうち東側の郭Tが中世の本郭であると思われる。

 この郭は南北200m、東西100m近い広さがあるが、江戸時代も使用され、別荘や病院が置かれたりしたこともあったと言い、さらには公園化として整備されたため、戦国時代の姿は失われている。

 西側の郭Uの状況から推察すると、おそらくは内部は2つ、あるいは2つに堀と土塁で区分されていたのではないかと思われる。
塁壁の高さは5m程度であり、周囲に1段、一部2段の腰曲輪が取り巻く。
 現在、東側から公園に上がってくる道が大手口であったと思われる。
この道を登ると北にカーブして駐車場に至るが、カーブの部分が虎口であり、門が建っていたようである。
 駐車場の西側に高さ3m、30×20mの土壇があり、その西側、北側に深い堀が取り巻く、部分的には2重、3重になっている。
この部分は非常に緻密な構造であり、中世城郭の雰囲気がある部分である。
 この西側は墓地であるが、この部分にも何らかの遺構があったものと思われる。
いずれにせよかなり地形は変えられてしまっており推定の域を出ない。

城は、常陸大掾家から出た平宗幹(屋島の戦にて戦死)の4子(小高太郎、島崎二郎、麻生三郎、玉造四郎)が行方四頭となり、三男家幹が麻生三郎と称して築城し、麻生氏を起こしたことによるというから、鎌倉時代はじめの頃であろう。
 その後、戦国時代までこの地を治めたが、この地は親戚関係にある小領主が乱立し、小競り合いが絶えず、麻生氏も天正4年(1576)、同族島崎氏に滅ぼされたともいう。
その島崎氏も佐竹氏に滅ぼされ、麻生城には佐竹氏の家臣が配置されたが、慶長7年(1602)佐竹氏の秋田移封によって廃城となったという。
江戸時代は新庄氏1万石の領地となったが、今の麻生小学校の地に陣屋が置かれ、麻生城は使われなかったらしい。

城址東を流れる城下川。水堀を兼ねる。 南下の曲輪から見上げた城址。 郭T内部は羽黒山公園になっている。
 郭Uの土壇登口。 郭U西側の堀。竪堀となる。 郭U北側の堀。

石堂砦(行方市(旧麻生町)小牧字石堂)

大和一小学校のある南に延びる半島状の岡の南端にある県道185号から小学校に上がる道を行き、さらに正門前から南に延びる小道を300mほど行った先端部が砦跡という。
とは言っても果たして、ここが城館だったと言えるかどうか?

城館としても物見程度のものである。
車は正門付近に置く必要があるが、ここは平日おっさん1人では絶対行ってはいけない。
カメラなどぶら下げた状態なら最悪である。

南に延びる小道を行くと、途中に土壇Aがある。
本来は土塁間に開く虎口だったかもしれない。
先端部に土塁@で囲まれた墓地がある。南側に帯曲輪がある。
この部分が主郭なのであろう。堀もあったのかもしれないが、今では確認できない。

かつては南下の低地は北浦の一部であり、湖上を監視する施設であったものと思われる。
先端部の周囲は崖状であり、下までは30mほどある。
城主等は分からない。
余湖くんのHPを参考。



@先端部の土塁。この先は墓地である。 A北側にある土壇、虎口だろうか。

井上館(行方市(旧玉造町)井上山川)

国道355号、井上の交差点から県道183号線に入り、県道50号線と交差する井上藤井の交差点方面に1qほど進むと井上神社があり、この前を200m進み、途中の農道を西に曲がる。

するとそこは畑、さらに道を進むと尾根状の台地となり南に下る。
ここが井上城であるが、探していたが、遺構らしいものはない。
すでに湮滅してしまったのか?
なお、台地先端下には池があり、その南は根古屋という地名である。

城主の井上氏は、常陸大掾一族小高氏から分れた一族であり、至徳年間(1384〜87)にこの地に住み、井上氏を名乗ったという。

室町時代に井上維義は、小田城を攻略しようとして、明応8年(1499)小田氏と戦ったが敗れ、井上維義は戦死、城も廃城となったという。
おそらく、井上維義自身が攻略を意図したのではなく、攻略軍に加わり戦死してしまったのであろう。

航空写真は国土地理院が昭和49年に撮影したものを利用。

城のあった尾根先端部の池から見た城址。

井上長者屋敷(行方市(旧玉造町)井上字長者郭)

県道50号線と183号線と交差する井上藤井交差点から県道50号線を北西800mほど進んだ場所の西側にあった。

この付近の地名が「長者郭」である。
まさに館が存在していたことをうかがわせる地名である。

しかし、そこは耕地整理され、遺構は確認できず、広い一面の畑である。
国道50m側に土塁のようなものがあるが、これが遺構なのだろうか。
塚長者屋敷とか、古館という地名も残るという。

塙館(行方市(旧玉造町)八木蒔)
国道355号八木蒔地区の標高25m程度の丘にある。
廃線となった鹿島鉄道八木蒔駅と国道355号間の部分が館跡であるが、民家があり、どうなっているのか良く分からない。
しかし、土塁間に虎口のようなものがあり、通路になっている部分もあり、そこが遺構である可能性もある。
鹿島鉄道は切通し状の場所を通っていたようであるが、この切通しは堀を利用したものであるように思える。
館主は塙氏とされる。玉造氏の一族か家臣であろう。

館主郭部推定場所、林の中に虎口と土塁がある。 館南下、鹿島鉄道八木蒔駅跡。ここは堀跡利用か?