行方城(行方市行方)

行方市のネーミング、「行方(なめがた)」の発祥の地がここである。
大字が「行方」である。
城は別名「八甲城」、「中城」ともいう。

市名発祥の地でもあるということは当然ながら歴史的由緒がこの地区で最も古いことを示している。

城は船子城の南側の谷津を北東に約1.2q、宿集落の北端部、南側以外は谷津に囲まれる半島状台地の先端部にある。
先端部が本郭であり、畑になっている。その南側は民家になっており、ここが二郭Aである。

民家内を通らなければ本郭には行くことができず、挨拶することが必要であるが、住民の方は快く応じてくれる。
それなりに見学者が多いのであろう。
この民家自体が凄いのである。まず、門!これは城門そのものである。@
その手前が少し窪んでいる。これは堀跡である。
幅は15m程度はあったと思われる。おそらく堀に面して土塁が存在し、その土で堀を埋めたのであろう。

@二郭の入り口。門が凄い。左の建物付近が窪んでいるが、
堀の跡である。
A二郭内部は民家になっており、見学には挨拶が必須である。

住居北側の畑が本郭であるが、住宅がある二郭側との間の西側には幅15m、深さ4mほどの堀Bがある。

B本郭側腰曲輪(右)と二郭間の堀、西側。 C広大な本郭内部。北端部から見る。建物が二郭の民家。

東側にも堀はあったようであるが埋められている。段差として堀跡が確認できる。
本郭C内は広大である。
曲輪内だけで直径150mほど、その周囲を回る堀を入れると直径200m程度はあったと思われる。

この広い本郭内部はおそらく低い仕切り土塁等で区画され、居住エリア、倉庫エリア、政庁エリア、来客迎賓エリア等に分れていたのではないかと思われる。
もし、この仮説どおりとすれば、小田城の本郭と似た構造であり、これが平安末期まで遡れる城の特徴の1つかもしれない。
そして、その形式は弥生時代の環濠集落まで遡るのかもしれない。
凄いのはこの本郭周囲を堀Dが取り巻き、先端部以外は2重堀になっている点である。

D本郭西側の堀。畑を広げるため、本郭側の土塁を崩して
埋めており往時より狭くなっているという。
E本郭西側に残る土塁の残痕。解説板がここに建つ。

2つの堀間の土塁は東側と西側で広くなり曲輪状になっている。
住民の方の話によると本郭周囲にも土塁Eが1周していたが、畑を広げるため破壊して堀を埋めたとのことであり、堀は今残る規模よりもっと大きかったらしい。
北端部には土橋Fがあり、ここが搦め手口であったようである。

F本郭北西端部の土橋 G北端部の堀底には堀底土塁がある。撮影位置にも土塁が
あり、この堀はかなり埋められ狭くなっている。
H本郭南東端はせり出している。櫓があったのかもしれない。

面白いのは先端部、北側の堀Gである。
この部分の堀は1重であるが、堀底にも土塁がある。
おそらく堀底の土塁には柵列があったのではないかと思われる。
この形式、伊那大島城の三日月堀の中にもあった。

この規模の広大な曲輪を持つ城館はこの付近にも存在しない。
先にも述べたように、総じて弥生時代の環濠集落に似た感じであり、古式の城と言った感じである。
本郭部が当初からのもので、二郭は後に拡張された部分の可能性がある。

平安時代末期、吉田大掾清幹の子忠幹が行方郡の郡司となり、この地に居住し行方氏を名乗った。

この時に居住したのがこの城であったと思われ、築城は平安末期まで遡ることになる。

忠幹の子景幹(宗幹という説もあり)は源義経に従い屋島の合戦で戦死したという。
頼朝はその功として景幹の長男、為幹に行方、次男高幹に嶋崎、三男家幹に麻生、四男幹政に玉造を与える。4人はそれぞれ、知行された地に城を築いて、その子孫が行方四頭として繁栄した。
行方城の為幹は後に小高城を築いて移り、小高氏を名乗る。
このため、行方城は廃城になったとういうが、家臣が住んでいたのではないかと思われる。

その後、時は移り、永享の乱(1439)で足利持氏に味方して敗れ、小高氏を頼って船子城にいた関宿城主であった下河辺義親が行方城に入り、改修したという。
その改修後によっても平安時代末の城の形はそれほど大きく変えられていないようである。

しかし、小田原役後、天正19年(1591)下河辺氏は佐竹に滅ぼされる。
その後、佐竹家臣荒張尾張守が入るが、慶長7年(1602)佐竹氏の秋田移封で去り、廃城になった。
(現地解説板、新編常陸国誌等参照)

なお、荒張さん、茨城南部、行方、潮来、土浦付近に多い姓であり、茨城北部には確認できない。
家臣と言っても、常陸太田付近出身の譜代の家臣ではなく、現地採用の者であったらしい。
「秋田移封」で去り、と書かれるが、ここで帰農したのが真相のようである。

非常に古い印象を与える城であるが、築城が平安末期まで遡ることと地形を考えれば、下河辺氏による改修も限界があったのであろう。

おそらく2重の堀を構築したのは下河辺氏であろうが、これは膨大な工事量である。