中居城(鉾田市中居)36.0835,140.5661
2005年3月3日、札城に次いで訪れたのがこの城だった。
そして、19年後、2024年3月20日、再び札城に次いで訪れたのがこの城だった。
ここもSさんの案内による。
前回は主郭部付近しか見ていなかったが、今回の目的は19年前に見なかった東側にある念仏掘を見ることである。
19年ぶりに見る中居城、掘の豪快さは相変わらずだった。
倒竹は相変わらず酷いものだったが、19年前の方が掘底は綺麗だった。
曲輪内は相変わらず綺麗に管理されていた。
あのころは掘底で朽ちた竹の焼却が行われていたのだ。
今は野焼きが禁止されるようになり、焼却ができないのだ。 山火事や煙害、臭いを恐れてのことではある。 ここから朽ちた竹を運び出すのは大変な労力だろう。現地で処理できれば良いのだが。 もっと、臨機応変に対応できないものだろうか。 主郭を取り巻く掘の外側土塁城を一周したが、掘の深さは最大10mはあるだろう。幅は25mくらいか。 これを人力で掘ったとは恐るべき工事量である。 このような仕掛けはまず戦闘で使うことはないだろうが、こんな城でも万が一、大軍で損害を厭わず攻められたら兵力差で落城は免れないだろう。 しかし、攻撃を強行した場合、攻めてにも多くの損害を生じさせることになるだろう。 攻手もそんな損害は避けたいはずである。 この巨大掘は攻手に攻撃を躊躇させるためのものと言えるだろう。 さしずめ、現代で言えば、核兵器のようなものだろう。抑止用の施設と言えるだろう。 城主が「攻めるもんなら攻めて来い!でもあんたらもただじゃ済まねえぞ」と言っているようである。 この城の場合、主郭を取り巻く掘だけで十分な抑止力と思うが、さらに戦国末期に拡張工事をしている。 余程、城主、中居氏は心配性なのか? それが念仏掘である。 |
この掘、自然の谷津を拡張しているのではないかと思うが、深さは最大15mくらい、幅は30mはあるだろう。
城の外れにあり、余り人が行くような所ではないので、荒れ放題である。
冬場で何とか・・という感じである。
そこは、まるで谷である。
これでも未完成というが、十分完成しているように思える。
この掘の名「念仏掘」、天正19年(1591)の佐竹氏による南方三十三館主謀殺事件で城主、中居氏が殺害され、それを聞いた工事中の領民が手を休め、念仏を唱えたという悲しいエピソードに基づくという。
このことは、この城は、損害が出る城攻めなんかするより、城主を謀殺し指揮系統を破壊する、あるいは調略して落とす方法が一番有効であったことを証明しているとも言えるだろう。
@本郭入口部の土塁。高さ約4m。櫓が建っていただろうか。 | A本郭内部と東側の土塁、19年前と変わらない風景。 | B本郭に建つ神社 |
C二郭南側の豪快な横堀 | D Cの掘は南西端で90度折れる。 | E C、Dから続く掘は北側で掘底土塁を持つ。 |
F念仏掘の掘底、まるで谷底である。 | G念仏掘の出口は湿地になっている。 | H本郭東側の横堀の掘底 |
以前の記事 中居城(鉾田市(旧大野村)中居)
県道18号線を札交差点方面から南下し、白鳥西小学校を過ぎると、東の中居地区に入っていく道がある。
この道を直線で1km進むと正面にいかにも城が有りそうな山が見えてくる。
これが中居城である。
山の比高は30m程度、北側以外は谷津上になっている。
城址は北東側が土取りで湮滅している。
道は山の下を右にカーブするが、少し行くと道沿いに、城の小さな案内図がある。
ここが中居城の登り口であるが、民家の入口も兼ねているようであり、注意していないと見逃してしまう。
この登り道、東側が土塁状になっている。
どうもこれは本物の城郭遺構らしい。
少し登ると、右手に堀切のような遺構がある。
その北側は鋭い斜面である。その上が曲輪Wである。
道は南側を西に登って行く。
しばらく行くと土塁間に虎口が見える。
右側は郭 の切岸。左手に腰曲輪があり、竪堀が下る。
虎口を抜けると正面に郭Vの切岸が立ちはだかり、右は郭V東の堀底に続く。
この堀は本郭の北側の堀と合流して北側にある念仏堀まで続く。 左に行くと郭Vに出る。北側に本郭の切岸が迫る。 高さは5m位である。 郭Vとの間は堀があり、土塁がある。 本郭の南の曲輪を通り、本郭の南西側に本郭の虎口が開く。 ここの構造は郭Vの虎口と似ている。 右手に本郭の土塁が立ちはだかり、左手は竪堀、少し下がって郭Uがある。 すごいのは竪堀の右手にある堀である。 幅15〜20m、深さ8mほどもある豪快なもので、外側にもしっかりとした土塁を持ち、郭Uの西側から北側に回りこみ、本郭の北側を通って念仏堀まで続く。 本郭には稲荷があり40〜50m四方の大きさを持つ。 西側以外は土塁が回る。特に南側の土塁は高さ3mほどある。 北側にも虎口がある。 虎口を出たところに曲輪があり、土橋があるようであるが、藪が酷くて確認できない。 |
南側から見た城址。 | 登城口、左側に土塁がある。 | 郭Vの虎口。 | 左の虎口前の腰曲輪と竪堀。 |
郭Vと本郭(左)間の堀。 | 本郭内部には高さ2mの土塁がある。 | 郭U南側の見事な横堀。 主郭部周囲を一周している。 |
郭Uの周囲の土塁。左が横堀である。 |
西側の郭Uは本郭より3mほどの段差がある。
30m四方程度の大きさであり、本郭のある東側以外は外周の堀に沿って高さ2mほどの土塁が回っている。
郭内は窪んでおり本郭の馬出のような感じである。
それにしてもこの窪んだ場所に溜まった雨水の排水はどうなっているのか分からない。
もしかしたら井戸曲輪も兼ねていたのかもしれない。
念仏堀方面までは行かなかったが、本郭北側は一部、二重堀構造の部分もある。
念仏堀は、もともと自然にあった沢を加工したものという。
この城は北側が台地続きであるため、防衛上考慮したものであろう。
この城は、鹿島大掾氏の一族、田野辺氏が築き、中居氏を称したのが始まりという。
中居氏は代々この地を支配していたが、佐竹氏による33館謀殺事件で殺され滅亡した。
この知らせを聞いた堀を掘る作業をしていた領民が、作業を中断して念仏を唱えたので念仏堀と呼ばれるようになったという悲しい伝説が残る。
中居館(鉾田市(旧大洋村)中居)
南西側に残る土塁、この土塁の後ろは斜面。右手に虎口がある。
中居城の東700mの岡の上にある。
館という名前がついているが、居館ではない。
これは中居城付近にいくつか存在する長塁の1つである。
その中でも最大のものである。
土塁は台地を南北に走り、台地を分断するように築かれている。 総延長は600m位はあるだろうか? 南端部の土塁がよく手入れされており、200mほど続く。 高さは2.5m程度ある立派なものである。 この土塁、上に上がってみたら、西側がもう斜面なのである。 台地の縁部に築かれているのである。 切れ目の部分は枡形のようになっており、そのまま、台地南下に下る。 おそらくここが古道なのであろう。 |
中居城付近に存在する土塁と堀切(鉾田市(旧大野村)中居)
鹿島市と境を接する鉾田市南部、旧大野村の中居にある中居城の周辺に多くの土塁、堀切遺構が存在する。(図説「茨城の城郭」に詳しい。)
これらの土塁についてはほとんど知られていなく、かなり破壊されてしまったが、地元の研究家、故石崎勝三郎氏が調査し、記録されることになった。
これらの施設については、中居城の防衛のためのものか、集落の境界を示すものなのか、それとも馬防ぎ施設、はたまた猪避け、猪狩用の施設とか色々な説があり、用途が今1つ明確ではない。
防衛用のものとすると、城から離れすぎている感じもある。 これらは侵食され谷津が発達して形成された細長い半島状の岡を横断して構築されている場合が多く、場所によっては二重構造になっている。 しかし、これらの遺構については、あまり認識されてはおらず、かなりものが破壊されてしまったようであり、「新堀」「大堀」などの字名にのみ、存在の証が残ってはいるが、現物としては、一部として残存しているに過ぎない。 |
||
大蔵近津堀切の土塁 | 阿玉大堀堀切の土塁 |
中居上宿土塁(鉾田市中居)36.0784、140.5692
中居城から谷津を挟んで南約500m、中居集落内に残る土塁である。高さは1m程度である。
3か所に折れが見られ南北方向に構築される。
↑僅かに残存する土塁を北側から見る。背後の集落を守るもの?こちらが正面か?
残存度は良くなく断続的に残るのみであり、ほとんどは耕地にするため破壊されてしまったようである。
中居集落を守るための土塁と思われるが、ここの集落、南北に分かれ、その間が畑となり、そこに土塁があるのだが、土塁のどちら側が正面なのか、北側を守るものか、南側を守るものか分からない。