鹿島城(鹿島市城山)

 鹿島神宮と鹿島アントラーズそして住友金属の町、鹿島。
ここに中世の大城郭があったことは余り知られていない。

これは城主の鹿島氏がそれほどメジャーでないことも影響しているのであろう。
 鹿島神宮駅の南西にある城山公園がその鹿島城の本郭跡である。

鹿島神宮のある台地の西端に当たり、北側、西側は低地であり、台地も侵食谷が幾筋も走っている。
低地からの比高は30m近く、非常に眺めが良い。

ところがこの本郭跡、非常に大きい。200m四方はある。
東側の堀も深さ10m、幅20mはある迫力のあるものである。
これだけの規模の堀は近場では木原城くらいだろうか?

 本郭内は公園として整備されるまでは畑であったといい、ほとんどの遺構は失われてしまっている。
内部が土塁でさらにいくつかに区画されていたようであるが、微妙な段差があるだけで判別できない。
ここには城主の居館の他、倉庫や政庁的な建物もあったのであろう。
かつては内部は土塁で区画されていたという。

 現在、公園の周囲に土塁上の歩道といった感じの道が付いているが、これが土塁なのか公園化に基づいた後付けのものなのか分からない。
 土塁とすれば郭の縁から10m以上内側に土塁があることになる。

岩城氏系の城郭に類例があるが、この地方には見られない形式であり、やはり後付けであろうか?
それにしても立派であり、土塁状に道を造る必然性もなく、やはり土塁なのであろうか?
 この道から郭内部に土塁状のものが延びているがこれも土塁なのだろうか?

郭の北端に城址碑が建つが、昔の写真を見るとこの部分は土壇になっていたようであり、天守に相当する建物があったと思われる。
 本郭の北側、西側斜面には2段ほどの腰曲輪があった。

北側の腰曲輪の一部は、JR鹿島線の線路敷設で破壊されているが、良く残っている。
本郭の西側から北側の低地は水堀が存在したといいその一部が残っている。

 城域は本郭の地から南と東に広がっており、土塁、堀が存在していたというが、土塁、堀は耕地化や市街化に伴い崩され、遺構は失われている。
それでも南側の二郭の地、鹿島高校敷地の北側の斜面などは城郭の雰囲気を残す。
鹿島高校から鹿島神宮駅にかけては緩斜面であるが、ここは耕地化や宅地化により地形がかなり改変されているようである。

鹿島神宮駅の南には西側から延びる堀が存在し、切岸状になっていたらしいがその痕跡は確認できない。

城域の南端は国道51号が通る谷津状の場所であり、ここが舟津道堀の跡である。その北側には土塁があったものと思われる。
 東端は県道18号線の旧道であり、ここに角内堀があった。

大手は鹿島小学校付近であったらしい。
二郭、三郭まで含めると城域は700m四方という広大なものとなる。
この規模はこの城の政庁的性格を良く示している。

西側低地から見た本郭。水田は入り江
跡であろう。
本郭西下の水堀跡。まだ水がある。 本郭北側の腰曲輪跡。
本郭内部外周を1周する土塁状の歩道 本郭内部は200m四方あり、広い。 本郭内部に残る土塁?
本郭北端に建つ城址碑。この部分は土壇になっ
ていたと言う。
本郭東虎口北側の堀。 本郭東虎口南側の堀。
本郭東虎口から見た三郭跡。遺構は市街化で
失われている。
二郭にあたる鹿島高校北側。 本郭(右)と二郭間の自然の谷津を利用
した堀跡。

 平国香の曾孫、清幹は、吉田に住み吉田氏を名乗っていたが、その三男成幹が鹿島に移って鹿島氏を名乗ったのが鹿島氏の起源と言う。
 成幹の子、鹿島三郎政幹は源頼朝に従って軍功を挙げ、養和元年(1181)源頼朝によって鹿島総追捕使に任じられ、以後代々その職に任じられた。
 この時に築城したという。この当時は今の本郭の場所のみが城域の館程度のものであったらしい。

その後、鹿島氏の勢力が拡大し、家臣が増えるにしたがって、篭城に備えて家臣の家族を保護する目的等で城域が拡大し、巨大城郭に発展していった。
 しかし、ある段階から外敵に対する防御から、同族間の抗争による同族内の敵から防御する目的に変わっていったようである。
鹿島氏からは烟田、徳宿、中居、宮崎、林、梶山、津賀氏等が出ており、南北朝の騒乱で幹寛・幹重父子は北朝方の佐竹義篤に従って北畠親房を神宮寺城に攻め軍功を挙げ、さらに幹重は足利尊氏に従って正平七年(1352)の武蔵野合戦に出陣している。

 その後尊氏によって鹿島大行事職に任じられ、子孫がその職を世襲した。小山義政の乱に幹重は鎌倉公方足利氏満に従って転戦する。
 その子憲幹は、応永14年に鹿島社領を押領して訴えられ所領を没収されたが、同22年には旧領を回復する。

上杉禅秀の乱では、足利持氏方に属して活躍する。
 しかし、これらの騒乱で鎌倉時代までは総本家である鹿島氏を中心に団結していたが、庶家が分裂し、いくつかの家は滅び、庶家も独立行動を取り始める。
そして肝心の総本家鹿島氏内には跡目相続を巡って対立、内紛が度々起き、その都度、他勢力の介入を招き、勢力を減退させてしまう。

 実幹の時には亨徳の乱が起き、古河公方に従って上杉、佐竹両氏と戦い、敗北し勢力が減退。
大永4年(1524)には、当主義幹が幼少であったため、家老の松本氏が、江戸氏、大掾氏、島崎氏を抱き込んでの反乱を起こし、義幹を下総東荘城へ追放している。
 その子治時は佐竹氏の助力を得て鹿島城を奪還し、一時的に復興する。
しかし、その後3回にわたる内紛で鹿島氏の勢力は減退を速める。
 永禄12年(1569)三月、下総千葉氏の支援を受ける治時の二男氏幹と、江戸氏が支援する治時三男義清が対立して戦闘となり、氏幹が暗殺され終息。

 次は天正17年正月、津賀氏が江戸氏に走り、鹿島義清暗殺され、反江戸氏の義清弟の鹿島貞信、清秀兄弟側に対し、江戸重通自らが出陣して、鹿島城を落とし貞信、清秀兄弟を下総矢作に追放、鹿島通晴が江戸氏の支援を受けて、鹿島家当主となる。
 
これに対して、後北条氏が後押しする矢作城主国分氏の支援を受けた貞信、清秀兄弟が反撃。
鹿島通晴を倒して鹿島城を奪還し、同年11年鹿島貞信が鹿島家当主となる。

これに対して江戸氏が烟田氏を攻め、鉾田城を占拠。鹿島貞信は鉾田城を攻撃。
 この時、鹿島氏家老木瀧氏の本拠吉岡に国分胤政が支援の軍勢を入れている。

結局、この内紛も、千葉氏一族国分氏と江戸氏のぶつかり合いが鹿島氏を舞台に行なわれたものである。
額賀氏の撤退でこの内紛は終息するが、鹿島氏はほとんど骨抜き状態となり、小田原の役後、天正18年、佐竹氏により「南方三十三館主謀殺事件」であっさり滅ぼされてしまう。

 その後、残された遺族と部下は鹿島城に立て篭もるが佐竹氏の攻撃を受けて半月後に落城して、鹿島氏嫡流は滅亡する。

その後、佐竹氏が秋田に去ると、徳川氏により鹿島氏の外曾孫であった国分胤光(佐原氏の大崎城主の一族)に200石を与えて、鹿島氏を復活させて鹿島神宮の大宮司に就かせて今日まで子孫が残る。
 
この鹿島氏と鹿島城であるが、ここには関東地方一円の信仰を集める鹿島神宮があり、ここを抑えていたのが鹿島氏であり、諏訪大社を抑えていた諏訪氏と同じような神官大名のようなステイタスがあった。
 また、ここは太平洋から霞ヶ浦、北浦方面への湖上水運の要衝であり、ここの水運を抑えることでの関税収入も膨大であったものと思われる。
 この収入が鹿島氏を支えていた。

城の西側の水堀も当然入り江の一つであり、舟付き場があり物資の搬入に使われていたのであろう。
鹿島氏が庶家をまとめあげ、その旗頭となる統率力があれば、その勢力は鹿行地方を中心に佐竹氏と肩を並べる存在になった可能性もある。
しかし、残念ながら鹿島氏にはそれに足りる当主は現れなかった。
これだけの内紛を起こしても滅亡しなかったのは、やはり信仰を集める鹿島神宮の宮司として一目置かれる存在であったからであろう。