林外城(鹿島市林)
鹿島駅から北に4q、鹿島ハイツの北側に半島状に延びる岡先端部が林外城。
水田地帯を介し、北東の岡にあるのが林中城である。

一応、その歴史は、平安時代の末期、常陸大掾氏の一族、鹿島三郎成幹の六男頼幹が林氏を称して築城したと伝えられる。
その居館としての城は、根小屋地区を持つ林中城であった可能性が高いと思われる。
以後、林氏は鹿島一族として行動していたようであるが、家臣という感じでもなく、鹿島氏に準じる分家筋の半独立領主的存在であったと思われる。
天正17年(1589)、当主、林時国が札村において荒原五郎左衛門なる者に殺害され、林氏は断絶、城も廃城になったという。
ざっと、こんな感じであるが、1小戦国大名クラスの城としては、林外城は巨大な規模を持つ城である。

この城を見る限り、1土豪が築城整備したとも思えないほどである。
それとも想像以上の力があったのか。
堀の深さ、土塁の高さ等の規模や曲輪、城域の広さ、これは茨城県内屈指のののであり、木原城、小幡城など、高い評価を受けている中世城郭にまったく引けを取らないものである。

ただし、この城、かつては畑として使われていたこともあったようであるが、今は耕作も行われておらず、現在はほとんどが藪の中である。
その壮大な遺構は藪に埋もれ、その藪を抜けないとお目にかかることができないのである。

つくづく惜しいことである。
この城の藪が取り払われることがあれば、それは開発の波がこの城に及んだ時か。
それは城の湮滅を意味するが。
願わくば、藪に埋もれた中で保存されるのも良いのかもしれない。
しかし、この城の縄張図を描いた余湖さん、いったい、どうやって調べたのか?まさに超人である。
林外城へは城内にある林権現への参道が北東側にあり、そこから入るのが一番だろう。
参道を上ると本郭と二郭間に開く虎口(堀底?)に出る。
権現は本郭の土塁上に建ち、北側に土塁が延びる。

この土塁、曲輪内からは4mほどもあり、始めは曲輪内が堀かと思ったくらいである。
この土塁、曲輪内の土砂を積み上げたもののようであり、土塁外から見ると切岸が絶壁のように鋭くなっている。
下の低地からは土塁上はでは25mほどだろうか。
本郭の北側に虎口があり、土塁が南側に回る。その南端にひときは高い土塁が東西に延びる。

西端に廃墟となった社があり、結構不気味である。ここに櫓が建っていたと思われる。
曲輪内からは7mほどの高さ。
南側の堀からは10mはある。
この堀、これはまるで谷のような巨大さ、堀幅は20mはある。
この堀の土砂で築いた土塁であろうが、膨大な工事量である。

本郭は120m×80mの広さであり、堀を介して東側が二郭であるが、120m×60mの広さで、堀を境に左右対称のような形であり、似た構造を持つ。
両曲輪間の堀は耕作のためか、一部、埋められている。
おそらく本郭側には土塁が存在していたと思われる。
本郭の南側が三郭であり、堀底から上る道がある。ただし、この道、後世のもののように思える。

三郭は広大な曲輪であるが、内部は藪。150m四方はあるだろう。
曲輪内に土塁による仕切りがあるので区画されていたと思われる。
三郭の南側に虎口があり、再び巨大な堀で台地と分断される。

三郭の東側にも堀で区画された曲輪がある。
三郭の南側は城外とも思えるが、段差や土塁のようなものがあり、ここも城域であったかもしれない。

この部分は200m四方程度はある。
以上が林外城であるが、根小屋があったとすれば南側のはずであるが、それが存在していた感じはなく、城のみが存在している感じであり、規模も大きい。
鹿行一帯の小領主を滅ぼした佐竹氏が地域支配の拠点として新たに整備したこともありえるのではないか・・しかし、何の記録もないのである。
@ 本郭に建つ林権現、ここは櫓台跡か。 A 本郭北端の土塁間に開く虎口。 B 本郭西の土塁。曲輪内から4mほどの高さがある。
C本郭南の大土塁。ここには櫓があったのだろう。 D 本郭と三郭間の堀。深さ10m、幅20mはある。 E三郭南の虎口

林外城(鹿島市林)追記

2016年3月27日鹿島市の林外城の藪刈が行われたというので、林中城の調査の前に立ち寄った。
以前の藪状態でも巨大な規模を持つ城であり、堀の深さ、土塁の高さ等の規模や曲輪、城域の広さ、これは茨城県内屈指のものであり、木原城、小幡城など、高い評価を受けている中世城郭にまったく引けを取らないものであることは認識していた。

HP記事には「現在はほとんどが藪の中である。
その壮大な遺構は藪に埋もれ、その藪を抜けないとお目にかかることができないのである。つくづく惜しいことである。」
と書いた。

その藪が地元有志の手により取り払われたのである。
そこはかつて見た城内の風景とは別世界があった。
藪の中から巨大、かつ見事な遺構が姿を現した。

また「根小屋があったとすれば南側のはずであるが、それが存在していた感じはなく、城のみが存在している感じである。」

と書いたが藪払いが城外と思われていた方面も行われ、新たに土塁なども確認され、城域がさらに広かったことが確認された。

ただしこの方面の防御は軽く、土塁も比較的低い感じの部分があった。
その土塁に並行して堀などもなく、単なる区画の土塁のような感じであった。

違う役目の役所的な建・物領域の境界あるいは家臣の屋敷の境界を区画したものではなかったかと思う。

また、「 鹿行一帯の小領主を滅ぼした佐竹氏が地域支配の拠点として新たに整備したこともありえるのではないか・・」と書いたが、藪を払った遺構の印象、県北の佐竹系城郭と似た感じなのである。

やはり、ここは佐竹氏が鹿島支配の拠点として元々あった城を改修したものではないかと思う。
@外郭部で新たに確認された土塁 A通路状の道であるが、土塁が道に沿って存在していた。 BV郭の虎口部、藪がないと豪快さが引き立つ。
CV郭内部はド藪だったが、はっきり土塁が分かる。 DV郭側から見たT郭、U郭間の堀。 EV郭とT郭間の堀
FU郭内部、かつては写真も撮れなかった。
ここには民家があったという。
GT郭(本郭)内部、ここもとんでもない藪であった。 HT郭、U郭間の虎口、ここに門があったのだろうか?

2019年4月7日 林城見学会

茨城県鹿嶋市にある林城の見学会に補助者として参加した。
林外城は地元の林城保存会が整備してくれている。
長らく放置状態で荒れ放題だったが、数年前にようやくその価値に気がついたという。
その要因はHPなどで紹介されたことがきっかけだったという。

巨大な城なので藪払いも重労働であるが、藪が刈られた城の遺構はお尻からため息が連発するくらい素晴らしいものである。
以前、林外城は見学会が行われたそうであるが、大勢の見学者が来たという。

桜が咲く、好天の下、杉花粉でくしゃみを連発しながら中世城郭を堪能。
こんな大勢が城内に侵入するのは廃城以降、ほとんどなかっただろう。
いい年をした大勢の大人たちが興奮して中世城郭遺構の中を徘徊していた。
この城の価値を認識してもらっただろう。最後は皆さんヘトヘト状態ではあったが。

ともかく、林城保存会の皆さま、茨城城郭研究会メンバー、協力いただいた茨城大学の方々、ありがとうございました。

三郭内を進む。 三郭と二郭、本郭間の堀で これより二郭内に突入!