林中城(鹿島市林)
林外城から水田地帯である低地を介し北東の岡先端部にあるのが、林中城である。
下の写真は林外城前から見た城址である。

この城は北東側から南西側に半島状に張り出す岡の先端部にあり、北東側一帯が根小屋集落である「林」地区である。
岡の両側は侵食され谷津となっている。
その肝心の林中城であるが、主要部すべて個人の宅地敷地。
入口には立入禁止の札が出ていてチェーンが張ってあって、とても入れない。
しかし、管理人は2005年ころ、不法侵入をした。

その時のメモ、紛失してしまってうろ覚えのところがある。
薄れた記憶では、城全体の全容は不明であるが、堀で囲まれた曲輪があり、土塁が確認できた。

これが本郭であったのか不明であるが、多分、一番高い場所にあるので間違いはないものと思う。
その内部は栗林と梅林だったが、ほとんど管理されていなく、藪化しつつあった。
この曲輪は60m四方程度の大きさであったと思われる。
北西側の堀は道路になって埋められていたが、切岸だけは明確であった。
しかし、北東側の堀は健在であった。(さらに北東側にももう1本堀があったようである。)
おそらく、南側に回りこんで、本郭周囲を1周しているのであろう。斜面部には帯曲輪が確認できる。
多分、輪郭式の城だったように思われる。
@本郭?の土塁 A本郭?東側の切岸 B本郭?北側の堀

林中城再び

林外城のある岡の北に水田地帯である低地があり、その北側の岡先端部が林中城である。
その林中城内は個人の住宅の敷地であり、入口には立入禁止の札が出ていおり、チェーンが張ってあって、長い間、入れない状態であった。
しかし、管理人は2005年ころ、不法侵入をしている。
当時も藪化は進んでいたが、堀で囲まれた曲輪や土塁、腰曲輪等が確認できた。
その後、年月が経ち、住人はいなくなり住居は放置され、藪化がさらに進行した。

2016年3月27日、鹿島市教育委員会教育総務課が地主さんに許可を得て、ヤブレンジャーメンバー等による市の文化財調査が行われた。
管理人はそれに参加した。
当初は先端部以外の3方を堀で囲んだ方形で帯曲輪を伴う程度の城館かと思っていた。
だいたいその概念は正解ではあったが、実際は主郭部は単郭であり5角形をしており想像より広く、やはり南側を除く3方を堀@、Cで囲んでいた。

腰曲輪も複雑であり、斜面側に土塁を持つ部分もあった。
斜面部の勾配もかなり急であったが、竪堀状の部分も存在する。
さらに曲輪内もいくつかに区画されていたことが分った。
しかし、かつては畑として使用されていたため、耕作にともなう改変の可能性も大と思われる。

昭和22年米軍撮影の航空写真に写る林中城、曲輪形状がよく分かる。 @西側の堀跡、または腰曲輪跡
A北側の台地を遮断する堀、全然変わっていない。 B主郭東側の櫓台跡? C主郭東側の横堀

台地続きの北側には幅10mほどの立派な堀Aがあるが、この堀1本ではどうも防御は弱い感じがする。
しかし、さらに堀が存在していたような感じではない。

なお、城の北に広がる台地は林集落であるが、この台地は北から南に張り出し、東西は浸食され半島状となっている。
台地上の集落のある部分には遺構@,Aは見られないが、台地斜面部には帯曲輪Bや堀が存在し、台地続きの部分には台地を遮断する堀や土塁、櫓台Cが残っていた。

@中城主要部北側は畑であるが、所々に段差がある。 A広憧院も城域に入っているが遺構は確認できない。 B林集落のある岡西側には帯曲輪が延びている。
CBの帯曲輪の最終点は堀となり高い櫓台がある。 DCの櫓台から下る道は竪土塁を伴う。 ECの櫓台の東側にある台地を分断する堀と土塁。

特に林中城から500m北、道路がクランクする場所Fの北側にある櫓台C付近は高さが8m程度あり、2重堀構造となっていた。
この部分の規模は本城部分より壮大なものである。

その北側に農村集落センターがあるが、さらにその先200m付近にも土塁が存在し、かなり広い範囲に遺構が広がっている。
したがって、当時は想像以上の大規模な防御施設を持っていたものと思われる。

このような大きな規模となったのは県北のように山を避難場所として利用できない立地条件と佐竹氏のような強大な支配者がいなく政治的安定性が低いことが要因であったのではないだろうか。

林集落自体が「総構え」構造を持つ城砦集落であったとは以前より言われていたが、改めてそれが確認できた。
この形態、常陸太田市の瑞竜城砦群と良く似た感じである。

なお、林中城は林集落がある岡末端部にあり、岡末端部の方が標高36m程度で、櫓台の近くの道のクランク部が40m程度であり、主郭部が低いため、穴城と言えるだろう。
ここの城主の林氏も北浦の水運に係っていたと思われるが、ここは北浦からは少し離れている。
港は湖岸にあったのだろうか。
または、南下の水田となっている低地部分に北浦とつながる水路が存在し、城下まで船が入っていたのかもしれない。
F北に通じる道路はC、E間でクランクする。木戸跡だろう。