照沼館(東海村照沼)
茨城北部の城館を昭和20年代から40年初頭にかけて調査した川崎春二氏の記録にある城館である。
この記録、城館とその付近のスケッチであるが、場所は詳細には書いてない。

そのため、茨城県中世城館総合調査委員会の一部メンバーとその場所の探索に2019年2月24日に出向いた。
地形は北方向に半島状に延びた丘、丘の両側は谷津となっている。

それに相当する可能性のある地形を地図で探すと、照沼小学校の北東側の突き出し部分が相当した。
そこでここを探索するが城館に係る土塁、堀等は痕跡も含めてない。空振りである。

続いて茨城東病院の西側、国道245号線を挟んで反対側の山、ここも空振り。
如意輪寺のある付近や海側の丘を探すがそこも空振り。
結局、現地では見つからなかった。

昭和27年米軍撮影 平成30年Yahoo地図より

しかし、帰宅して国土地理院のHPで昔の航空写真を調べたら、それと思われる場所が映っている。ほぼ川崎図と一致する。
探しても分からないはずである。
地形を含めて湮滅していたのである。

館跡は昭和60年ころ、茨城東病院の南側の道が造られた時に資材置き場も拡張され、丘が崩され、その土砂で周囲の谷津を埋めたため、湮滅していた。
現在の「三国屋建設」の資材置き場がその場所であった。
ここは元々は如意輪寺の東側の集落内後地区から北東に半島状に延びた丘であった。

↑の写真は昭和60年ころ整備された道路から見た湮滅した館跡である。ご覧のように何もない。
元々の丘から数m削っているらしい。遠くに見える煙突は常陸那珂火力発電所である。

館主は照沼蔵人という。どのような人物か分からない。
ここの照沼氏、何系統かあるようであるが、江戸氏家臣の足崎氏が多良崎城に住み、その一族がここに住み照沼氏を称した系統が存在する。

照沼は地名から取っているが、如意輪寺付近の字名が「寺沼」であるので、オリジナルは寺沼ではなかったかと思われる。
ただし、字名付近に沼が存在したような感じは現在は見受けられないが、如意輪寺付近のどこかにあったのかもしれない。

この地区は新川に注ぐ、小河川が丘を開析した谷津が複雑に入り組んだ丘陵地帯である。
西側に存在した真崎浦周辺とそれほど変わらない風景だったと思われる。
館もその複雑に谷津が入り組んだ地形を利用している。
館のあった場所の南側の標高は26mであり、現在の資材置き場の標高が19mなので約6、7m丘が削られているものと推定される。

さて、照沼氏、ここで何を生業としていたか?
照沼蔵人とはどのような者であったか?
なお、「蔵人とは日本の律令制下の令外官の一つ。天皇の秘書的役割を果たした。唐名は侍中(じちゅう)、夕郎(せきろう)、夕拝郎(せきはいろう)。
蔵人所は事務を行う場所のことで、内裏校書殿の北部に置かれた。また、蔵人は百官名或いは人名の一つでもあり、この場合は「くらんど」と読む。時代が変わると侍所を蔵人と称した。」
とWikipediaに書かれている。

この地は緩やかな丘陵地帯であり、畑作は可能であるが、水田は谷津部に限定され、それほどの米の収量は見込めそうもない。
真崎浦は湖上水運も存在し、湖内漁業も盛んであったようであるが、この照沼地区からは遠いのでそれに係わっていたかどうかは不明である。
真崎浦は元々は太平洋の入り江であったが、当時は太平洋への出口部が閉塞され、新川でつながっていたという。
新川の太平洋への出口に港があった場合、その管理に係わっていたか、新川の水運に係わっていた可能性はある。

江戸氏時代から照沼氏がここに住んでいたとすれば、北は佐竹氏の家臣、真崎氏が支配する地であり、境目にあたる。
その真崎氏は塩田を管理していたと思われる。

この照沼地区も約500m東は当時は海岸であった。
この付近の海岸部の長砂渚遺跡に塩田があったことが確認されている。
新川の北、現在のJPARKの地には塩田があり、南の「ひたちなか海浜公園」内にも塩田遺跡が検出されているので、この付近の海岸沿いは塩田が連なっていたようである。
照沼氏はその塩田を管理し製塩も業としていたのではないだろうか?
その者の館がここだったのではないだろうか?