白方城(東海村白方)
白方城は、石神城の東1q、県道284号線が台地から久慈川の河跡である沖積地に降りる坂の東側の台地縁部にある。
「豊受皇大神宮」のある場所が館跡である。

この場所の比高は北側の旧久慈川河床である水田部の低地から15mほどであり、北側と東側の傾斜はけっこう急である。
東下には白方公園があり、白方溜という溜池がある。

この池は谷津の末端にあり、今でも自然に水が湧いて、満々に水を湛え水田に水を供給している。
水がきれいなため、夏には蛍が舞い、イトヨなどの希少な魚も生息している貴重な自然を残している。

館跡である神社境内は40m×60m程度の広さであり、台地に続く南側から西側にかけて高さ3mほどの土塁がL型に築かれる。
土塁の外側、南側には堀があったのではないかと思ったが、そのような痕跡はないので存在しなかったのかもしれない。
北側は崖面であり、土塁は低い。東側には見られないがもともとなかったか、失われたか分からない。

川崎春二氏の記録によると神社南側、社務所の地が二郭であり、南側に虎口があったらしい。
そこ虎口に接して土塁と堀があったらしいが、湮滅している。
ただし堀の東側斜面部の竪堀になる部分が確認できる。

主郭に建つ神社社殿、周囲に土塁が囲む。 社殿西側の土塁、この裏が県道である。 城址(右)西側の県道。堀を拡張したものらしい。

西側は県道281号線の切通であるが、ここは堀底を拡張改変したものらしい。
現在確認される遺構は神社周辺のみであるが、もっと南側、西側にも城域が広がっていた可能性もある。
南側、西側は平坦な台地が続くので神社付近のみであると防衛上、難がある。

南側は現在、白方溜に流れ込む河川が深い谷のようになっている部分(現在、暗渠になっている。)があり、堀の役目を果たしていた可能性がある。
しかし、西側には遺構の痕跡は確認できない。少し西の三札城が西側を守る施設の可能性がある。

築館は平安末期、吉田氏系の白方氏と言われる。
近年までは館の北側の低地は久慈川が蛇行して流れ、白方溜の水を引いて水田開発が行われていたという。
白方氏は白方溜の水利権を管理することでこの地を支配していたといわれる。
南北朝期以降、吉田氏の勢力がこの地方から駆逐されるに伴い白方氏もいつしか歴史から姿を消している。

川崎氏はこの城を「小奈良館」としている。「小楢氏」ともされる。下の外郭と推定される三札城の城主としても登場する。
おそらく戦国時代の城主であろう。石神小野崎氏の家臣として岡下を流れる久慈川の河川港を管理していたのであろう。

場所的に久慈川の水運を管理・監視できる場所でもあるため、北下には久慈川の河川港があったらしい。
久慈川水運に係る城館であり、久慈川下流部の管理権を持っていた石神小野崎氏の城であったのではないかと思われる。
戦国期には石神城の出城、見張りの機能も持って存続していたのではないかと思われる。

三札城(東海村白方)
白方には白方城がある。
現在の豊受皇大神宮の地であり、高さ3mの立派な土塁が残存する。
その白方にはもう1つ城館があったという。
それが三札城であるが、白方城の外郭であった可能性がある。

その城館は白方小学校の南に位置する現在の「白方コミニュケーションセンター」の地にあったという。
↓の写真は南西側から見た館跡である。若干、土盛りにより盛り上がっているが、元々、若干土地は高かった。

ここの字名が「城の内」であり、城館地名そのものである。
地元にも城館だったという伝承がある。
白方城との関係は分からないが、ここが外郭なのだろうか?あるいは居館?河川港管理事務所か?

この館についても川崎春二氏が記録に残している。
その記録に記載された名前をそのまま取って「三札城」としたが、「館」の方がふさわしいかもしれない。

川崎氏の記録には方形館が描かれているが、昭和21年の航空写真を見ても方形館は映っていないので、氏が調査した時点では湮滅していたものと思われ、聴取を基に描かれたもののようである。

この場所、以前から若干、高い感じがあったが、それが館の土塁を崩したことによるものの可能性がある。
また、古墳が存在しており、古墳を取り込んでいた可能性もある。
(この北側に白方古墳群があり、古墳が何基か現存する。)
左の鳥瞰図は川崎氏の図より作成したものである。

この場所は北に久慈川の低地を望む標高21mの丘縁部にあたる。
東側は谷津状になっており、低地に下る道が延びる。
その下の低地には当時は久慈川が蛇行して流れており、河川港が存在していたらしい。

この城と白方城との関係はここが外郭と推定され、検討の余地が残り、分からないが、久慈川の河川水運に係わる城館であったのではないかと思われる。
小楢氏が城主と伝わる。


白方堀ノ内(東海村白方)
堀ノ内は近世の庄屋屋敷や武家の屋敷を指すこともあるが、城館地名であることも多い。
この堀ノ内地名は城館に係わるものか分からない。「字」として残っているだけである。

西端にある素鷲神社が建つ和尚塚古墳、櫓台として使ったか? 古墳東方の畑が「堀ノ内」の中心部だが・・ただの畑。

現地を見ても城館の痕跡は確認できない。
場所は東海村にある白方小学校と移転前の旧白方小学校跡地(白方小跡地公園)の中間、白方古墳群の南端の古墳である素鷲神社が建つ「和尚塚古墳」の東側一帯である。
古墳が櫓台であった可能性もある。

古墳の東の畑の中に小さな土壇があるが、古墳か土塁の残痕の可能性があるかもしれない。
東側一帯は現在畑になっているだけである。
北と南に現在は暗渠になっている2本の用水路があるがこの川が水堀の名残だったかもしれない。