中世龍子山城の大手と上宿根小屋及び周辺の城郭

龍子山城は常陸国では最古最長の歴史を有する城である。
戦国時代末期は佐竹氏に従属するが、それ以前は小さいながらも独立した戦国大名であった大塚氏の本拠である。
戦国大名の本拠であるため、城は単独に存在するのではなく、いくつかの出城や家臣の城を周囲に配置した防衛網を有していた。
江戸時代になると、水戸藩の陣屋となり、龍子山城の南麓が陣屋を含む城下町となる。
周囲の支城はすべて廃城となり歴史から消えていく。

現在の龍子山城(近世は松岡城)は関根川が流れる南側が正面である。
南側が正面になったのは戦国時代が終わり、佐竹氏が秋田に去り、代わりにこの地に戸沢氏が来て整備した結果と言われる。

それ以前、戦国時代は龍子山城はどうだったのか?
大塚氏は元は独立した戦国大名である。
家臣団もいたはずである。

自身及び家臣団、家族はどこに居住したいたか?
龍子山城にはそんな場所的余裕はない。
しかるべき場所に根小屋、城下町があったはずである。

現在の山の南側、今の松岡小学校、松岡中学校が建つ付近は関根川の湿地帯だったようである。
この付近を発掘しても中世の遺構、遺物はほとんど検出されないという。

この地区の標高は6mに過ぎなく洪水のリスクがある。
河口からは約2.5q上流に位置するが、大地震が来たら津波の遡上のリスクも想定されよう。
3.11の時はこの地区では液状化現象が起き、大きな被害が出た。
今の城下町と言われる場所でないとしたら中世はどこに根小屋、城下町があったのだろうか?


おそらく、中世の龍子山城の正面は北側であったであろう。
それを証明する史料は今のところ確認できていない。

しかし、南麓に中世遺構が確認できず、遺物も出土しないこと、
北の上宿地区に土塁等が残り、防衛を考慮した城砦集落であったと思われることと、家臣の屋敷があったという伝承があること、
龍子山城との間の尾根に多重の堀切を持つ曲輪があり、厳重な造りになり、ここが大手曲輪であったと思われること、
さらにここを通る道が龍子山城の北を巡る長大な横堀につながり、山上の主郭部から延々と攻撃がしやすい構造になっている、
これらの物証を結び付けると中世の大手は北側であり、上宿が根小屋であったことが導き出せる。

上宿(高萩市大字赤浜)
前述したように戦国期、大塚氏時代の城正面は北側の上宿(わじく)方面であったのは間違いないだろう。
上宿が根小屋であり、ここに家臣団の屋敷等があった。

この上宿地区は赤浜台地の北西端で、平坦で比較的広い。
東西約400m、南北約100mの広さである。
生活するうえでは上宿地区の方が洪水等のリスクも少ない。

上宿地区は南北に谷津が入る東西に長い台地であり、地区の東西に土塁が残る。
特に東側は谷津が南北から入り込み、台地が狭まり土橋状になる。そこに土塁が残り、道が湾曲する。@↓
宿場などでよく見られる道の付け方である。
この部分、南側から入る谷津の西側に後述する弾正屋敷があるが、ここは独立した城館ではなく、上宿防衛の施設の1つと言えよう。

@ 上宿の東の入口。道がS字を描く。右手に土塁が残る。
道路の反対側にも土塁があった。竹林の向こう側に弾正屋敷がある。

上宿内を通る道路Bは直線状に約300m東西に延び、西で道が直角に北側に曲がる。A
その場所の民家の道路側に土塁があったという。

また、さらに西側の畑の隅に土塁の残痕のようなものが見られるが、これが遺構であるかは何とも言えない。
この上宿の西の道路が直角に曲がる場所の南に梅林Cがあり、南に小道が延びる。
この道が丘を下り龍子山城につながる。
大手道であろう。
梅林の場所に城主の平時の居館があったのかもしれない。
北に曲がったこの道を約600m北に行った地区の名が「城戸場」である。
おそらく「木戸」があったのであろう。

A上宿西側で道路が直角に曲がる。
道路沿いに土塁があった。
B上宿内を通る道路は直線。 C上宿西にある梅林。ここに屋敷があったのでは?
撮影場所背後の小道を南に下りると龍子山城に着く。


弾正屋敷(高萩市大字赤浜)
36.7423、140.7088
上宿が根小屋であり、土塁が存在するが、それだけでは防衛は弱い感じがする。

「松岡地理誌」に「弾正屋敷」という土塁を持つ円形の場所の記載があり、「戸沢氏家臣の館であり、上宿に続く場所」にあるとしている。
しかし、その場所は特定されていなかった。
その場所を探してみると上宿の東に掲載される図と合致する場所があった。
そこは直径50〜60mほどの大きさで東西に土塁@Aが見られる。
さらに南側に平場が続く「しゃもじ」形をし、北側以外は谷津に面する斜面、北側、西側が上宿につながる。
ここから南に下る道Cがあり、水田となっていた谷津部を横断し、南側の丸山出城につながる。


@東側に残る土塁。

A西側の土塁は痕跡程度である。
B屋敷内部は綺麗な竹林である。 C @の土塁下を谷津に下る道。この道を抑える役目か?

しかし、ここにも何の伝承も存在しない。
「弾正」という名を持つ戸沢氏家臣も該当する者はいないという。
この弾正という者は戸沢氏家臣ではなく、前城主である大塚氏家臣にいるのかもしれない。
この場所であるが、上宿入口を守る砦も兼ねており、上宿の一部であったと思われる。

龍子山城大手曲輪(高萩市大字赤浜)
36.742、140.7065
龍子山城大手曲輪という名前を用いたが、龍子山城の一部ではあるが、地形的には独立性が高く、出城に近いものと言える。
上宿から南側、龍子山城方面に延びる道は台地南端で一度、東に向かい丘を下る。
この道は堀底道になっており、S字を描いて丘を下り、尾根の平坦部に出る@。
平坦部の標高は約45m、台地上からは約10mほど低い。


@上宿から下る道は堀底道となりS字を描いて下る。

A上宿から下る道は平坦な場所に出、土橋を渡る。
ここが大手曲輪の入口。土橋の両側は竪堀がある。

ここから約100mわたり大手曲輪と言うべき、厳重な防衛ラインを縦断しないと本城には辿り着けない。
始めに土橋Aがあり、両側に竪堀Bがある。
その先の尾根上はフラットではあるが、両側の斜面が急であるため、尾根上を削平しているようである。
尾根上に堀を埋めたようであり竪堀が横斜面にある。
おそらく、3本ほどの堀切があったようである。

そして南端に幅8m、深さ4mほどの比較的大きな堀切Cがある。
その堀切の東端に土橋がある。

BAの土橋の横は竪堀になる。 C 連続した堀切、竪堀群の最後にこの大きな堀がある。 D登城道は横堀底を通り、途中に岩盤堀切がある。

都合、ここまでに大小5本の堀切が存在していたようである。
かなり厳重な造りである。最後の堀切の南には櫓があったのかもしれない。
比較的広い曲輪が2段にわたり、南北50m、東西30mほどのわたり存在する。
ここが大手曲輪というべき場所であろう。

ここから南東方向に土橋Fがあり道が分岐して下る。
ここを下っていくと丸山出城に通じる。

E最後にごつい岩盤堀切がある。ここを過ぎると本城内。 F南東に位置する丸山出城に行く分岐は土橋になっている。

一方、大手曲輪の南端部から堀底道がS字を描きながら南に下る。
まるで横堀、遮蔽塹壕である。
尾根の中央部を抉った感じである。

途中、岩盤堀切が2か所DEあり、堀切に面し櫓台のような土塁がある。
2つ目、最南端の堀切Eが龍子山城の北を巡る巨大横堀の末端部に合流する。
ここが尾根の一番低い場所であり、標高は約35m。
この場所の南に龍子山城の主郭の北に突き出た曲輪がそびえる。
曲輪までは高さが15mほどある。


東出城(高萩市大字下手綱)36.7380、140.7112
大塚氏時代の龍子山城は単独でもかなりの要害性を有するが、地域支配の拠点城郭の場合は普通、周囲に支城を配置しさらに防衛機能を高めるのが定番である。
で、この龍子山城(最高箇所標高57m)を見てみると、東側の標高50mの台地から城が丸見えである。
王塚神社の北裏の丘である。

この台地は赤浜台地の西端にあたり、東から西側に突き出した形をしており、東が台地につながる。
(同じように上宿もこの台地の西側に突き出た部分にあたる。地勢的には上宿地区と似ている。上宿との間には浸食谷が入っている。)
台地の東には陸前浜街道が通っていたという。
この台地との間には標高14mの谷津があるが、台地の上から城内と城下を見通されること自体、防御上、不利である。
当然、何等かの防衛施設があるのではないかと推定された。


@丘の南東端の縁にある土壇は櫓台か?

龍子山城の支城は江戸時代末期に編集された「松岡地理誌」に多く掲載され、西ダレ屋敷(西館)等、いくつかの家臣の居館を兼ねた支城の位置は確定されている。
しかし、いくつか、場所が特定されていないものもある。
そのため、現在は行方不明状態になっている。

おそらく、故意に図を記載しないようである。
現に、龍子山城(近世においては松岡城)については履歴等は詳細に記載されるが、図は記載されていない。
これは軍事機密であるからであろう。
現役の城館の図が出回ったら、万が一の危機時に防衛上不利になることは容易に想像される。
多くの城でも現役の城の絵図は軍事機密として扱っていたことからも理解できる。

この東の台地についても記載はない。
記載がなが、城郭遺構ではないかと思われる土壇、横堀、竪堀、帯曲輪のようなものが存在する。
ここでは「東出城」と仮称する。

A縁部に横堀状のものがある。
この先は竪堀になるので、道ではないだろう。が
B台地西斜面には2段の帯曲輪があるが、畑じゃないだろう。 C台地上、若干の起伏はあるがほぼ平坦。
篠竹付近に堀があったような感じを受けるが・・・。

江戸時代、龍子山城の山城部分は使われず、陣屋が南に置かれるが、この台地先端からは陣屋も含め丸見えである。
おそらく、それが、この場所が記載されない理由かもしれない。
ここは現在は畑であるが城郭伝承はないという。
しかし、台地縁部を見てみると西側には2段の帯曲輪Bが存在する。
(段々、畑の可能性もあるが、こんな広大な平坦地が丘上にあるのにわざわざ斜面を段々畑にするだろうか?)
南西端には土壇@、横堀A、竪堀と思われるものがある。

また、台地上には南北に長い窪みが2条あり、その延長である台地縁部には竪堀のようになっている。
どうやら半島状台地を2条の堀で仕切っていたように思える。
大きさとしては1辺約200mの三角形が出城の範囲である。

おそらく、緊急時に台地縁部への出入りを遮断するために使う場所であったと思われ、台地に仕切りがあるだけで内部は畑のままであり、建物があった感じはしない。
この場所にはやはり城郭が存在していたと見てもよいのではないかと思う。
この部分、大塚氏の時代まで遡るられるものであるかは何とも言えない。

なお、この台地の西下、龍子山城の真東に住むS氏に聞いたところ、この丘の上は大高台という地名だそうである。
城があったという伝承は聞いていないとのこと。
字名はないそうである。台地の一段下に平場があるが、そこは「蒲生さんの山」と呼ばれているそうである。
蒲生さんって、あの蒲生氏郷の一族である。水戸徳川氏か中山氏の家臣になったのだろうか?
今は東京に移り、屋敷跡は藪になっている。
ところが、このS氏宅、ちょっと城郭っぽいのである。
宅地が段々状、高さ4、5mの鋭い切岸や削り残しの土塁があるのである。
畑を造成するのにここまではやらないであろう。
これは城郭遺構じゃないのか?

削り残しの巨大土塁 S氏宅から見た土塁。畑造成にしては工事量が大き過ぎる。 S氏宅裏の畑には土塁がある。

丘側に畑になっている平坦地があるが、ここにもなぜか土塁がある。
出城であるか、家臣の館があった場所ではないのだろうか。
江戸時代の家臣屋敷の場所はけっこう知られているが、江戸時代の武家屋敷という伝承はないので戦国時代大塚氏の時代であろうか?

丸山出城(高萩市大字下手綱)36.7403、140.7080
松岡地理誌に「丸山」とか「一心防山」「後門」と書かれる場所がある。
その場所については「松岡地理誌」には「要害の地なので、秘とし記さず。」と記載される。
龍子山城防衛のための軍事機密であるので記載しないということであろう。
すなわち、松岡地理誌が書かれた江戸時代末期も現役であったということであろう。

その場所については記載が曖昧であるが、弾正屋敷の図の南に「田畑を隔てて丸山」という記載がある。
したがって、弾正屋敷の南側に位置していたことが分かる。
その場所を航空写真で調べると、北側が細尾根で龍子山城大手曲輪とつながるほぼ独立した山が確認できる。

↑南側から見た丸山出城、標高38m、比高25m。

この場所が、松岡地理誌に記載される場所である。

前述のS氏に確認したところ、ここを「一心防山」と呼んでいるとのこと。
「南下に寺跡があり、昔、多くの人骨が出たという。多分、墓地だったのだろう。
上に平場があり、祠があった。(確かに石積があった。)
城という伝承は聞いていない。寺跡という認識、東側下を「後の門」という。
しかし、「丸山」という名前は聞いたことがない。」との証言が得られた。

高萩市史は「一心防」とは、「心を一つにして防ぐ」という意味か、寺院の名前であったのではないか、と書いている。
しかし、「後の門」はこの山の西下としている。(道はこの山の南下を通っていたのだろう。)

昭和36年の航空写真に写る丸山出城、周囲は水田。
ほぼ独立した山である。頂上部に曲輪の形が確認できる。

その山に突入。まさにそこに城郭遺構が存在した。
さて、名称はないが「一心防出城」じゃちょっとロゴ、響きが良くない。
それなので旧名だったと思われる丸山を取り、「丸山出城」と仮称する。

大手曲輪に通じる尾根には見事な岩盤堀切@が存在していた。深さは約5m、長さは約15mある。
この岩盤堀切は松岡地理誌の弾正屋敷の図にちらりと登場する。
弾正屋敷から南に下る道はこの堀切に至るのである。
この堀切により尾根からは遮断され、独立性を確保できる。

この堀切の約20m南東に土橋を持つ小さな堀切がある。そこから尾根を登ると主郭部に至る。
このルートが登城であったようであるが、登城路は東、北、南といくつか想定される。
この山の最高箇所の標高は38m、周囲の水田となっている場所が12mなので比高は25mほどである。
主郭部は北側に最後部の高さ約5mの大きな土塁Aが東西に約40m覆う。
この土塁の東端下には石積の石塁または石塚があり、北下に下る道がある。
氏神等の祠があったのではないだろうか。

この巨大土塁の南下に東西約60m、南北15〜20mの台形状の曲輪Bがある。ここが主郭である。
山を削って土塁を削り出し、南下を平坦化しているが、篠竹の密集が結構きつく、広さが十分、把握しにくい。
この曲輪の東側、南東側、南西側に腰曲輪が見られる。

@北西側、大手曲輪につながる尾根を遮断する岩盤堀切 A大土塁なのだが・・手前が祠があった石積。 B主郭にあたる平坦地。東側が若干藪は少ない。

南西下の曲輪は3段になっており、最下段には廃屋がある。
おそらく、そこがこの出城の管理者の屋敷があった場所であったと思われる。
この場所は龍子山城のちょうど東に当たり、防衛上、考慮すべき位置にある。
出城を置くには合理的な地である。
大塚氏時代から存在していたのであろう。


松岡地理誌に記載される龍子山城の他の支城群
松岡地理誌には龍子山城直近の出城等について記載があるのは上宿、弾正屋敷程度であるが、少し離れた場所にある、おそらく家臣の居館と思われるの城館について、いくつか記載される。
これらのうち、北茨城市にある権現山館と小山館等は北茨城市の城として紹介し、ここでは高萩市側にある城館、館の坊古館、リュウガイ古屋敷、西ダレ屋敷について紹介する。
・・・しかし、ほとんど湮滅状態とか遺構が曖昧とか、ヤブ化してよく分からないものばかり・・・・。


館の坊古館(高萩市大字下手綱)36.7277、140.7111
高萩の中心部の北、国道6号線から常磐線を高架で越えて、高萩ICに向かう県道67号線に入り600mほど西に走ると、小島団地が南側に見える。
この団地の東の丘一帯が館址である。龍子山城の南東約2qに当たる。
丘の標高は23m、周囲の水田からは比高16mほどである。
この丘は径300〜350mほどあったが、西1/3が小島団地造成で潰されており、東側が残っている。

↑リュウガイ古屋敷跡から北側の谷津部の低地越しに見た館の坊古館
しかし、そこはただの畑Aが広がっているだけである。
南側に緩やかに傾斜し、切岸のような感じの部分Cも見られるが、これは耕作に伴うものかもしれない。
寺が建っていたとか、愛宕社があったともいう。
土塁の残痕Bらしきものがあるが、城郭遺構か?それとも寺や神社に伴うものか分からない。


@館の坊古館の西1/3は削られ小島団地になっている。
写真はその削り残しの切岸部、右が館跡部。

←昭和50年の団地造成前の航空写真に写る館跡。
上が館の坊古館、下がリュウガイ古屋敷。

ともかく館が存在していたとすれば居住目的の居館、屋敷だっただろう。
建久年間(1190−99)千葉一族平重正がここに住み、手綱太郎を称し、後に龍子山城に移ったという。
彼が住んだのは鎌倉時代の初期である。
その頃の屋敷なら特段の城郭遺構はないであろう。
移動後、館が継続使用された感じではなく、すぐにそこが寺か神社になったのだろう。

A館があった台地内、広い!
 畑が広がっているだけ。
B北端部にあるこれは館の土塁の残痕か?
 それとも寺、神社に係るものか?
C所々、段々になっているがこれは切岸の遺構か?
 あるいは、耕作に伴うものか?

リュウガイ古屋敷(高萩市大字下手綱)36.7242、140.711
館の坊古館から谷津を挟んだ南西側の台地にあった。
この台地は北西ー南東を長軸とした楕円形をし、200m×100mの広さがあり、北西側に堀切があり、最高箇所を中心に曲輪が段々状になっていたようである。
しかし、小島団地造成で丘も削られ湮滅してしまった。
松岡地理誌では「リュウガイ」は「竜海」であったと記載される。
その元は要害である。
館主等は不明という。館の坊古館が寺社になったのでそれに代わる龍子山城の南東方面の出城がここであるか、居住の場所が館の坊古館であり、緊急時の避難場所がリュウガイ古屋敷だったのだろうか。

↑ 館跡の台地は団地の敷地となって湮滅している。

西ダレ屋敷(高萩市大字上手綱)
36.7334、140.6887
龍子山城から南西に約2q、西には高萩共同病院がある。
病院の東に見える南から北に延びる尾根状の山の北側が城址である。
西ダレ屋敷というが、本来は「西舘」と言うらしい。
もちろん龍子山城から見ての「西」であり、ここが龍子山城の西を守る支城ということを示しているものと思われる。
この山を北に延長していくと穂積家住宅がある。

↑ 北東側から見た城址。東斜面は緩やかで畑になっていたが、今(2020.1)は一面の藪。


↑ 昭和50年の航空写真に写る館跡。
赤線内が館範囲。斜面が畑となっている。
南端部の遺構、堀跡が筋のように見える。

この山の北側部分250m×100mほどが城域であるが、この山は西側が急傾斜で、東側は緩い斜面である。
東斜面が段々状になっており、そこに居館等があったと思われる。
廃城後は畑として利用され、昭和50年の航空写真には畑が写っている。

しかし、現在は耕作は放棄され、葛や篠竹が密集した状態でとても入れる状態ではない。
そのかつての畑であった斜面を登った西側の縁に墓地がある。
平澤家と鈴木家の墓地であるが、古い五輪塔もある。
ここの城主は不明であるが、平澤氏、鈴木氏が城主の末裔に係る可能性もあるだろう。

墓地の南側は少し高度が高くなるが、縁を歩くと、尾根上が平坦になっていたり土塁状になっていたりしている。
東側は切岸になっている。
その切岸の下にかつての曲輪が転じた畑が藪に閉ざされている。

@尾根続きの南端部を遮断する横堀 A @の堀(左側)に面する土塁 B Aの土塁は東側で北に回り込む。郭内からは高さ5m。
C土塁に面した土塁。虎口が2か所ある。 西側稜線に墓地があり、脇に土塁がある。 藪の東斜面であるが、曲輪の切岸が確認できる。

城のある山は南が高いのでどこかで尾根を遮断する必要がある。
墓地から70mほど南に行くと土塁を持つ曲輪Cがあり、虎口がある。

その南側に深さ4m、幅6mほどの横堀@が長さ50mほど存在する。
東側ではカーブし、堀に面して土塁Aが続く。

東側の土塁Bは郭内からは高さが約5mもある巨大なものとなり、これが北に向きを変えて下っていく。
一方で堀の西端は曲輪につながる。
その曲輪の西側には土塁があり、土塁間が開き竪堀が下る。
南西端に下る尾根に道があるのでここは搦手口の曲輪であろう。
(地図及び航空写真は国土地理院のHPに掲載されているものを加工して使用した。)