小里富士山館(常陸太田市小中町)

2019年12月、新たに確認された城である。見つけたのは地元在住の市職員のK氏である。
昔は城という伝承があったのかもしれないが、今では全く途切れているようであり、修験僧の修行の場として伝えられていたと言う。

場所は常陸太田市北部、福島県境に近い、旧里美村、管理人のブログで毎年取り上げている「里美かかし祭り」の舞台がここであり、城址からはその会場を望むことができる。
この里美地区、中心部を里川が流れ、里川に沿った谷間にある。
この谷間、城はあるが小さいものばかり、しかも古いタイプが多く、戦国時代終盤には居館タイプの城以外はほとんど城は機能していたとは思わえない。

戦国時代後半、この谷間は佐竹氏の奥州へのメインの行軍路である。
当然、佐竹氏の支配下にあったと思われるが、意外とそうではない。
この地は戦国時代の最後まで岩城氏の領地だったという。
戦国中期、山入の乱で佐竹氏が弱体化したころ岩城氏が占領し、その状態が続いていたようだ。
戦国後期は岩城氏は佐竹氏の支配下に置かれてしまうが、それでもここが飛び地のように岩城領であったのは、不思議であるが、佐竹義重の妹が岩城氏に嫁ぎ、その化粧領だったのではないかと推定される。

その岩城氏の支配拠点だったといわれるのが小里城である。
小里城は小さい城である。
どうみても堅固ということからは程遠い。
そのため、北に盾の台館、南に羽黒山城を置き、城砦群を形成し、防御を固めている。

しかし、盾の台館、羽黒山城も砦程度の小さな城であり、やはりこれでも防御は弱い。
これでは戦国の荒波を乗り越えられるのかという印象があった。
もしかしたら、東の山中のどこかに詰めの城があるのかもしれないと思われた。
しかし、それらしい話は聞かない。
所詮、こんなものか・・・とずうっと思っていた。
里美の谷には大きな城はないのだと。

ところが、ちゃんとした城が存在した。それがこの小里富士山館である。
修験道場と言われていた山が城だったのである。修験者が管理していた城と言えるかもしれない。
修験者も戦国大名の戦力の一旦を担っていたというので修験者が城を管理していても不思議ではない。
修験道場はだいたい、険しい人里から離れた山中である。
それならなかなか見つかるものではない。

事実、この小里富士山館もかなりの山奥にある。
小里城からは約1.2q離れている。標高も562m、小里城からは比高が320mもある。
城のある山は富士山と呼ばれている。
その名前の通り、小里城から見ればこの山、「富士山」の形をしている。

西側、小里城から見た城址のある富士山(中峯)
名前の通りの形をしている。
南側から見た城址、左のピーク部が曲輪T、鞍部にかけて曲輪V、Wがある。
右のピークが中峰。

しかし、実際はこの山塊、東西に長く、西から見れば富士山の形に見えるだけであり、南から見れば、細長い尾根状である。
この尾根のピーク、西から前峯、中峯、後峯と並ぶ、その前峯が城である。
その尾根の西末端が羽黒山城である。
城には小里城の横を流れる薄葉川が山地から流れ出る地点から山道を南に入る。

今回、K氏の案内で、K氏の弟さん、I氏と管理人の4人で遺構確認と縄張図作成のために登る。
いい大人、4人、ほとんど子供の頃の探検ごっこといったテンションである。至福の時である。

登っていると「富士山」の道しるべがあるのでひたすら進む。
途中は道が荒れ藪状態である。道は尾根に沿ってけっこう曲がりくねる。
城のある山の直下はかなり緩やかな尾根である。

ここは住民の避難場所かもしれない。そこを過ぎると急傾斜になる。そこを息を切らしながら上がる。
大きな岩の間を登って行く。すると段々になった曲輪が現れる。
それが南西尾根曲輪群@である。

@南西尾根曲輪群・・写真では段々がよく分からない。 Aピーク南直下の曲輪U、内部は平坦である。 B曲輪Uから見た不気味に聳える曲輪Tがある山頂部

その一番上が曲輪UAである。25m四方の広さ、内部は平坦、南に虎口が残る。
その北に岩山Bが聳える。
高さは13mほど、その上が富士山(前峯)の山頂Cである。

C山頂の曲輪T、ここは物見だろう。石祠が建つ。 D山頂から東に向かうと堀切がある。 EDの堀切の東には巨石が2つあり、そこを越えると
広い曲輪Vがある。

山頂には富士権現が祀られる。
広さは径7mほどに過ぎない。
物見台であろう。
周囲は巨岩だらけである。

東に下る尾根を下りると定番の堀切Dがある。幅8mあるが、深さは4mかなり埋没しているが、これまた定番の竪堀が南北に豪快に下る。
その堀切の東が「しゃもじ」形に広がる。
そこが曲輪Vである。径40mほどある。
当初、本郭は曲輪Uではないかと思ったが、広さからしてこの曲輪Vではないかと思う。

F曲輪Vの東は高さ10mの切岸、下に曲輪Wがある。 G山頂西には堀切があり、西尾根曲輪群が展開する。 H西尾根曲輪群は巨岩が多い。

その東が一気に10m下る切岸になっており、下が平坦地になっている。
ここが曲輪Wである。
ここは前峯と中峯の鞍部に当たる。
おそらく自然の鞍部を急傾斜の切岸と平坦な曲輪に加工したものと思われる。
この東は中峯への登りとなるが、その間に鞍部を横断する道あるいは横堀があり、小腰曲輪が2つある。
中峯には城郭遺構はない。

さすがに中峰側から攻撃することは大きく迂回することになり山も険しく難しそうである。
仮に中峰側から攻撃したとしても曲輪V、W間の高さ10m以上ある直立した切岸を突破するのは容易ではない。

一方、山頂から西に尾根が延び、堀切Gがあり、その西に曲輪群Hが展開する。
この尾根筋にも登城路があったようであるが藪で末端が分からない。
なお、この尾根筋、尾根両側が急であり、竪堀は小さい、あるいはない。
尾根南下には岩むき出しの崖がある。

この城であるが、岩城氏が里美地区を占領し、支配拠点として小里城を築いた山入の乱の頃、詰めの城として、
及び薄葉川沿いに存在した塩の道を守る、あるいは塩の道や背後の尾根伝いに小里城を攻撃することを牽制、阻止することを目的として整備したものと推定される。
佐竹氏の支配が安定した戦国後期には城としては使っていなかったのではないかと思われる。
その頃には修験の場になっていたのではないだろか?