高井釣城(常陸大宮市盛金)

南北朝時代、建武3年(1336)に起こった「瓜連合戦」で那珂通辰は南朝方に組みし敗れ、那珂一族はほぼ滅亡してしまう。
しかし、遺児、通泰はこの山間奥地の高井釣が逃れ、一時、ここに隠れ住み、後に北朝側に帰参し、佐竹氏と婚姻関係を結び、那珂市下江戸に領地を得、江戸氏を称する。
それは子、通高の代、1360年頃のことだったらしい。
さらに通高が元中4年(1387 )の難台城の合戦で戦功を挙げ、河和田城を手に入れ、完全復活を果たす。

この高井釣に逃げたという話は伝説として今も伝わるが、ここは那珂氏と同族の川野辺氏(当時は川辺と名乗り、河辺と途中で変えている。
川野辺氏の本領は今の常陸大宮市の野口であるが、支族がここ盛金にも領地があったらしい。)の領地であり、川野辺氏の手引きにより通泰を匿ったものであろう。
その川野辺氏の末裔は今もこの地で健在であり、高井釣の住民のほとんどが川野辺さんである。

その高井釣は水郡線「下小川」駅の東、約1qにある。
標高は約200m、久慈川付近からの比高は約150m、周囲を山が囲む山腹の平坦地である。
広さは約400m×150mの平地である。位置としては36.6788、140.4012である。

西側、北側は標高約300mの山が屏風状に連なり、東は標高100〜120mの谷となっている。
この形、有名なインカの遺跡「マチュピチュ」に似ている。

一応、「城」という名前は付いているが、南北朝時代にはこの地方に戦国時代のような山城があったかどうかは分からない。
よく見れば敵であった佐竹氏の「金砂山城」とも地形が似ている。
金砂山城にも明確な城郭遺構はない。あくまで自然地形のみで城として成り立つのである。
したがって、この高井釣城にも戦国時代の山城のような城郭遺構がなくても不思議ではない。

地形そのものが城である。この高井釣城を取り上げたものはほとんどない。
おそらく伝承のみだからかもしれない。
その1つ関谷亀寿氏の「茨城の古城」でも氏の見解は「地形自体が城」というものである。

山腹の平坦地と背後の山の組み合わせが城と言えるであろう。
その平坦地、ここが高井釣集落である。

@高井釣集落北側「上の坪」。右手の民家に城主伝承がある。
那珂通泰はここに住んでいたのだろうか?背後左のピークが熊野山D、E。
右のピークが標高310mの山Gである。
A高井釣集落南側「中の坪」。家臣の居館があったらしい。

城砦集落と言えるだろう。
要害の地であるが、ここは当時は陸奥国との国境でもある。陸奥国となると追手の佐竹氏も迂闊に手を出しにくかったこともあるだろう。
過疎化が進んでいるようだが、今でも数軒の民家がある。
ここの字名がまた城郭を匂わす。「上の坪」「屋敷後」「西木戸」「中の坪」等の名があり、伝説及び城郭の存在を裏付ける。
このうち、「上の坪」にある民家@が城主伝承を伝える。

その裏が「屋敷後」である。那珂通泰がいたのだろう。
その地の南側の平坦地が「中の坪」A、家臣団の屋敷があったのだろうか?

この高井釣集落、現在では山間僻地である。通勤通学は大変である。
買い物も車があっても大変である。雪など降ったら道路は通れなくなり陸の孤島になるだろう。
しかし、この場所に立ってみると居住する上でなかなか良い点もある。
まず、北と西に山が連なるので絶好の風避けとなり北風が防げる。
さらに南向きであるため日当たり良好である。さらに地形上、外敵に襲撃されるリスクが少ない。
現在とは違い自給自足が原則の戦国時代なら居住する地としては、農業生産性に難はあるが、結構、メリットもありそうである。

B西を覆う山地の南端の岩場、物見台だろう。 C金毘羅社の祠が岩の上に建つ。ここも物見台だろう。 D熊野山山頂、ここからの眺望は絶景である。
E熊野山山頂に建つ熊野神社。川野辺さんらが管理する。 F熊野山東側尾根が帯曲輪状だが、城郭遺構か? G熊野山の東に続くピーク上は平場になっている。


↑ 熊野山山頂から見た南方向。左手が東海村方面、太平洋が光って見える。右側が水戸方面。筑波、日光、那須の山地も見える。条件が良ければ富士山も見える。
←熊野山山頂から見た北方向、久慈川と大子町西金地区。中世はここは陸奥国である。

さて、集落がある平坦地から北から西を覆う山に目を向ける。「もしかして山城があるのでは?」
結論から言うと「微妙」としか言えない。

山上には巨岩が多く、物見には使える。B、C
標高309mの「熊野山」(36.6800、140.3976)山頂Dに建つ「熊野神社」Eの地付近、平坦地もあり、帯曲輪と思える部分Fや埋もれた堀切らしい場所も見られる。
ただし、これらが当時のものかは分からない。

もっともこの山で戦わなくても、山伝いに逃避すればいくらでも生存は可能であろう。
なお、熊野山の南東の山腹は段々になっているが、これは植林に伴うものであろう。

熊野山山頂部が城郭遺構かどうかはさて置いておき、物見の場ではあったであろう。
ここからの眺望が素晴らしい。久慈川流域が一望に見える。
西金地区(そこは当時は陸奥国である。)などは全体が見え、久慈川流域の動向も把握できると思われる。
遠く茨城県庁や太平洋まで見える。
筑波山はもちろん、条件が良ければ富士山も見える。
世の中から隔離されたような場所ではあるが、この山頂に建つと外部での異常は感知できるのではないだろうか。

なお、熊野山の北下、「御在所」に向かう道沿いには最近まで操業していた金山跡があり、金山神社が建つ。
この高井釣集落の正業の1つに金の採掘があったことも想定されよう。