盛金砦(常陸大宮市盛金)と南郷道・盛金峠36.5805、140.3852

国道118号線やJR水郡線が久慈川と並行して通る谷筋の常陸大宮市域の最北端部、大子町との境で西から流れる久隆川が久慈川に合流する。
その久慈川西岸に久隆川に沿って北西に向かう県道321号線沿いに国頭神社があり、その裏山が城址と言われる。

↑ 東の国道118号線から見た盛金城、この方面は崖面である。
  右側のピークがC、左端がA、その間に@のピークがある。

山の東側が久慈川であるが、この面は崖である。
久慈川の水面(標高49m)からは高さ約110mもある。
なお、地元の人に聞いたのだが、この山、名前はないそうである。目立つ山なのだが・・。


↑ 南側の久慈川にかかる県道320号線「下小川橋」から見た盛金城。
 左側のピークが@とA(2つのピークが重なって写っている。右側の出っ張り部がC。
 写真左下に国頭神社がある。盛金峠が写真の右端の位置にある。


↑南下に位置する国神神社。
 この盛金地区の郷社、鎮守である。
 久隆川の対岸、南側の山の上の平坦地、上久保館(現、もりがね富士見公園)の上久保太郎衛門が
明応元年(1492)5月25日に創建したとされる。

地元では物見と伝承されているが、実際行ってみると確かに物見レベルである。
城というレベルではない。

国神神社裏から登ったのであるが、道はあるようなないような。

結論から言えば、このルートで行くべきではない。
勾配がきつい上、岩だらけ。
一番怖いのは落ち葉で滑ることである。滑落して岩にぶつかったら大怪我をする。
このため、木から木に飛び移るようにして登ることになる。

もし、ここに行きたいような物好きがいたら、県道321号線で北西側に進み、南郷道で盛金峠に行き、そこから尾根を南に行くのが一番楽である。
このルート、非常に遠回りになるが、疲労度、時間的には一番の近道なのである。まるで人生の縮図である。

山頂部には特段何もない。
3つのピーク@、A、Cがあり、中央部@が一番高い。標高は約160m。
オーバーハングになっている場所Bもあり、覗き込んだらぞっとした。
おそらく、本来の山頂部は久慈川に崩落しているのではないかと思う。
山頂北側の斜面には人工的な帯曲輪が3つほどある。

特に頂上部から約10m下にある帯曲輪Cは幅約5mあり、削平度も良く明瞭である。
一見、道路跡か重機が入って削平した作業道かと思ったが、曲輪の末端はどこにもつながっておらず、重機が登って来た跡もない。
それならこれが遺構ということになる。
しかし、遺構らしいものはCのピークから久慈川への崖に沿って北に延びる尾根筋に展開する。

@3つあるピークのうちの中央、最高地点のピーク。
木があって眺望の邪魔になる。
A @のピークより約5m低い南端のピーク。
 ここからの眺望は良いが砂礫地で危険。
B @のピークの東側、絶壁になっている。
C北端のピーク。左下が帯曲輪になっている。 D 頂上部から約10m下の帯曲輪、幅約5m。 E Cのピーク北下にある前面に土塁を持つ曲輪。
FEの曲輪北下の堀切 G Fの堀切の更に北下にある岩盤堀切 H 最北端、盛金峠を監視する岩場

Cのピ−クを北に下ると、前面に土塁を持つ数m径の曲輪Eがある。こことDの曲輪に小屋があったと思われる。
Eの北下の堀切Fがあり、さらに北下に岩盤を掘り切った堀切Gがある。そして、尾根が若干登りになり、最北端に岩場Hがある。

この砦は久慈川に沿った街道、南郷道(南郷街道)が通る。
現在の国道118号線である。しかし、この久慈川の流れる渓谷、川幅が狭く、崖状であり、難所続きである。
その最大の難所の1つがここ付近である。

I県道321号線脇から登る南郷道の入口 J砦の北西山麓を通る部分は横堀状。野ばらが・・。 K峠の石仏群。写真の右手が堀切状の切通しである。

←Lこれが盛金峠。
入殿峠ともいう。
 岩盤堀切になっているが、ここも盛金砦の一部なのかもしれない。江戸時代の絵図では「堀切」と書かれている。
ここが常陸国と陸奥国の国境だったころは、門があり、ここに関所があったのではないだろうか?

 地元のT野さんの話だと、この切通しは罪人に掘らせたと伝承されていると言っていた。
実際は金堀職人が掘ったのではないかと思う。

この切通しを抜けると、久慈川への崖。そして崖に沿って道が付いている。
少し進んでみたが、道は崩落していて通れない。

T野さんの話だと戦後間もないころまで道は使われており、子供はここを通って西金の小学校までかよっていたとのことである。

江戸時代末期以前は南郷道は久慈川の西岸、JR水郡線に沿って北上し、久隆川を渡り、県道321号線を通ってから、この山の北に回り込み、北の盛金峠を抜けるルートであったという。
そこは道も狭く、久慈川の崖沿いを通るため、人馬が転落するような事故もあったと言う。
このため、江戸時代末期、安政年間(1855-60)中頃、今のJR水郡線の久慈川を渡る鉄橋付近に渡しを設け、東岸の現在の国道118号線、JR水郡線が通るルートに変更したと言う。

さて、ここが城とすればその役目は?もちろん、南郷道の監視である。砦の西下、北下を主要街道である南郷道が通る。
街道を見下ろす位置にある。
さらに、この山の位置であるが、山の北下が大子との境である。
中世では常陸国と陸奥国の国境である。(この国境がどこに線を引くか、諸説ある。
盛金地区を陸奥国に含める説もある。
盛金は国境の緩衝地帯だったのかもしれない。)
このため、常陸国側の国境の監視も役目の1つだったのだろう。

ピークAから見下ろした久慈川東岸を通る国道118号線とJR水郡線。
先頭の写真は写真に写っている工場の前から撮影したもの。
ピークAから見下ろした南側。赤い橋が県道321号線「下小川橋」。
下がJR水郡線の鉄橋、この付近に安政期に渡しが設けられた。
左上の谷にかかる赤い橋は国道118号線の「後野陸橋」。

街道を南下し、難所を通過した後、眼前にこの城が現れれば、視覚的にも威圧、牽制効果は高いだろう。
北下のH付近には南郷道の関所のようなものがあった可能性があり、そこを背後からこの砦がバックアップしていたのだろう。

また、異常を久慈川下流方面に知らせるための狼煙台の機能もあったと思われる。

監視場所が先に記した帯曲輪Dと曲輪Eの可能性が高い。
帯曲輪には柵はあっただろうが、しかし、帯曲輪下の斜面部には堀等はない。

この城が機能したとすれば、佐竹氏が大子地方を支配下に置き、常陸国に編入する前の時期である天文年間後期(1540年頃)前までであろう。
その頃までは文字通り、国境の城だったのであろう。

なお、山頂部、ここからの眺望は絶景である。
←ピークAから見た南東の高井釣守護の山、熊野山。
久慈川の上流、下流方面が一望の下にある。
久隆川南岸の上久保館も、高井釣の山頂部、熊野山山頂もよく見ることができる。
(なお、南端のピークは足元が砂礫、しかも東側は崖、極めて危険である。)
この城、居住性はなく、城番が交代で在城していたであろう。
おそらく管理は上久保館が行っていたのではないかと思われる。

上久保館(常陸大宮市盛金)
常陸大宮市山方地区にある山方城から北に国道118号線を約5q、久慈川西岸、大子町との境、盛金地区にある。
国道118号線から分岐した県道320号線が久慈川を渡る下小川橋の西の山上にある。
ここには南側の旧盛金小学校側に迂回し登って行く。

館跡は「もりがね富士見公園」になっている。
この場所の標高は137m(36.6762、140.3835)、久慈川水面の標高が48mなので比高は88mある。結構、高い場所である。
ここは山上の平坦地であり、昭和22年の航空写真を見ると畑になっている。
公園は一辺約80mの三角形になっているが、一面にレンガが貼られ、その部分にはまったく遺構はない。


↑昭和22年アメリカ軍撮影の館付近の航空写真
←館跡は公園になっているが・・人は来るのか?

その周囲を見てみたが、城館遺構は見られない。
この公園、寂れている。ここまで来る道路も荒れ放題である。来る人がいるのか、いないのか?暴走族が走り回った車のタイヤの跡が目立つ。おおよそ人がそんなに来るような場所ではない。
工事自体、土建屋を食わせることが目的の公園化だったのではないか?

この公園の一角に碑が立っており、「上久保太郎衛門館 明応元年(1492)5.25 盛金真言不動院創設 」という主旨のことが書かれている。
意味が分からない内容であるが、館主との関係を示す記述のようである。

この公園周辺を探ってもさっぱり分からないが、ここから西の山に遺構らしものがあるという。
公園から遊歩道が西に延び、いったん下って、山を階段で登るように道が付けられている。
そのくびれに当たる部分は両側が谷になっており、ここに堀切があっても不思議ではないが、それらしいものはない。
遊歩道工事で失われた可能性も想定される。

それらしい遺構は公園から直線で約120m西の標高160m、公園からの比高約23mの山(36.6767、140.3821)の上にある。
ここも遊歩道工事で改変を受けている可能性があるが、尾根上に横堀がある。
北側は土橋状になっている。
横堀の位置、付け方が今一つ、理解できないが、北西に続く尾根からの攻撃から館を防御するためのもののように思える。
しかし、中途半端感は否めない。
この北西に続く尾根筋、結構広い尾根である。
まだ先に堀切などがあるのではないかと進むが結局、何もない。

2020年7月19日、家和楽砦に続いてここに来たのだが、気温は28、9℃、高湿度!嫌らしい暑さである。
蚊などに備え、長袖長靴着用という重装備、汗が噴き出る。
そこに蚊が襲って来る。

ここで止めたくなるが、目的地はもう一か所ある。
この尾根伝い、直線で北西約800mに標高167m(36.6800、140.3804)のピークがある。
そこが城館である可能性があるのだ。
上久保館の東下、水郡線に沿って通る南郷道は久慈川沿いが崖が続くため、一度、県道321号線沿い久隆川沿いに迂回して山に入り、山を抜けて北の大内野、西金方面に至ったという。
このピークは街道をちょうど、西から見下ろす位置にある。そこに街道監視の城館が存在する可能性があるのである。
そこに行くにはこの尾根道を進めば行ける・・地図上では・・・・のではあるが現実は?・・・。

この尾根上には「もりがね富士見公園」から続く道が途中から合流する。
かつては軽トラくらいは走れるような道だったと思われるが、誰も通らないのであろうか、今は草が伸び荒れ放題、かろうじて歩くことはできる。
この道を進むが嫌になる。
マムシ、ヤマカガシが何匹もウロチョロしているのである。
その都度、追い払ったり、棒でぶちのめして進むのであるが緊張を強いられ帰りたくなる。

しかし、ここまで来たので・・・という気持ちも半分。
このズルズル感がいけない。そうやって、日本は戦争に負け国を破綻させたのだ。
引き返す勇気、止める英断も時として必要なのである。

途中でピークから分岐した道があり、そのとんでもない草だらけの道を行くと、例のピークに到達する。
で、苦労の末、たどり着いたそのピーク。ただの平場だった。城郭遺構など何もない。
苦労して到達し、結局、城郭ではなかったことを確認しただけである。
←北にあるピークはただの平場だった。
それが成果といえば成果であるが、まあ、こういう馬鹿なことをしていればこんなこともある。
そして、また来た道をヘビを回避しながら引き返す。

家和楽砦(常陸大宮市家和楽)
2020年夏、50storm氏が見つけてきた城である。
城の存在に関わる情報もあるらしい。
しかし、ここは藪の山である。しかも季節は7月、夏である。

そんな場所に夏場に行くのは気違い沙汰であるが、それを確認に行った俺も狂っている。
夏場の藪だらけの山、そこは魔界である。蚊はブンブン、蛇はうろつくわ。
幸いスズメバチには遭遇しなかったけど。

当然、装備も長袖、長靴、手袋、帽子と完全装備。
痩せる目的なら都合が良いが、俺には痩せる目的、必要もない。
ひたすら苦行である。(でも、悟りが全然、開けない。)

その家和楽砦、まず、地名の家和楽、これ何て読むかというと「やわら」だそうである。
字も優しいが、優しい響きである。
意外と読みにくいが古い地名ではなく、明治頃の村の合併で作った地名なのだそうである。

現在も合併でヘンテコな地名がどんどん生まれているが、これは昔からのこと。
それが年月が経つうちに昔からあった地名のように認識されてしまうこともある。
その陰で本当に古い地名が消えてしまうことも多い。
もっとも、その古い地名も戦国時代や江戸時代に生まれた、何てことも多いので何とも言えないが。

いきなり脱線してしまったが、この家和楽という場所は、常陸大宮市山方地区にある山方城から北約3q、久慈川沿いの大子町との境である。
中世前期にはここが常陸国と陸奥国の国境になっていた。
この付近に関所があったかもしれない。
(この付近を通る主要街道である「南郷道」は久慈川の西岸、現在の水郡線の線路に沿っていたらしい。
現在の主要道路である国道118号線はこの砦と同様、久慈川の東岸の山にあるので関所に関係するかは分からない。
ただし、時代により街道はルートを変えることも多いので、中世前期に南郷道が東岸を通っていたことは否定できない。)
←南側、国道118号線が久慈川にかかる舟生橋から見た城址
家和楽地区の東の山地の中腹に家和楽神社がある。
神社は国道118号線沿いから恐ろしいほど旧で狭い道を上がったところにある。
(なお、さらに先に集落がある。今は北側に広い道ができたので行くのには苦にならないが、以前はこの恐ろしい道しかなかった。まあ、車がない時代、歩くだけなら問題はないのかもしれないが。)

神社の地は標高が100m(36.6636、140.3913)、下を流れる久慈川の水面が44mなので、比高は56m。
神社からは久慈川沿いの谷が一望である。
なお、家和楽神社がここに移ってきたのは明治時代とのことであり、それまでは低地の家和楽農村公園付近にあったという。
おそらく洪水等のリスク回避のため移転したのであろう。
←家和楽神社の地は居館があったのだろう。
ところでこの神社の地、凄く平坦で広い。
南北80m、東西40mほどある。
ここから谷沿いが一望できること、および砦の大手道が西から延びるので、ここに居館があったのでないかと思われる。

この神社の南東に張り出した尾根の末端部のピーク(36.6629、140.3934)が家和楽砦である。
標高は170m、神社からは比高70mである。
神社の前を通る道路を300mほど東に行った地点の道路脇から南に入って行く小道があり、そこを山に入って行く。
道はあるような、ないような、まあ、適当に尾根に出て登れば主要部に着く。

しかし、困ったことに城址は字境である。
山の字境には有刺鉄線を張って区画していることがあるが、ここがそうである。
その有刺鉄線、朽ちて土に埋もれているので歩くと危ない。
ピークから西に延びる尾根に出ると、大手虎口Aと言える場所に出る。
竪堀状の道を登ると平坦地に出、高さ3mの切岸が聳え、その下を通り反対側から切岸上に上がる。

その尾根を登って行くとピーク部すなわち砦の主要部になる。
主要部との接続部には小曲輪があり、竪堀がある。

主要部Tは径約30〜35mほどの広さに過ぎない。
内部は3段構成になっているが、周辺部は帯曲輪が犬走状に一周し、しっかり造られているが、頂上部の段差は曖昧である。
頂上部には狼煙台があったような感じである。
もっとも明確な遺構は東の尾根を切る堀切Bである。
高さ約3m、幅約6m、南東に竪堀が下るが西側は帯曲輪になる。
←堀切B、これが最も明確な遺構。
東は一旦、低くなり、再度上りとなって尾根が延びる。
堀切から約35m行くとピークUがある。
ここは物見の場である可能性があるが、そこから東に延びる尾根には堀切等はない。
一方、主要部の南側は高さ約3mの切岸があるが、その先は幅約7mのフラットな尾根が下って行くが、堀切等の遺構はない。

以上が砦の概要であるが、砦からは南方面、久慈川下流方面の眺望が良く、山方城も見える。
北方面、久慈川上流方面も見える。おそらく狼煙リレーに関わる城と思われる。
北方面は盛金の上久保館からの狼煙を受けたのではないかと思われる。
管理は家和楽神社の場所にあった居館の主が行い、山上の砦には在番がいたのであろう。
当然ながら、居館が危機状態に陥った場合の避難、あるには東の山中方面への逃避援護の役目もあったのであろう。さて、一体、管理していた者は誰か?

小貫館と小貫城(常陸大宮市小貫)
常陸大宮市旧山方町中心部の南で国道118号線から県道165号線が分岐し、小貫橋を渡り久慈川の東岸に出る。
ここの南で久慈川が大きく蛇行する。その蛇行地点の南岸にあるのが、道の駅「常陸大宮」である。
小貫橋を渡った場所が小貫地区であり、ここに小貫城があったというが、場所が特定できていない。

↑居館の地と推定される麓の鹿島神社、遺構らしいものは見られない。

小貫地区は河岸段丘上にあり、居住性は良く、ここに居館はあったのであろう。
平坦地に居館があれば、背後の山のどこかに詰めの城が存在するのがセオリーである。

で、何人かのお年寄りに聞いてみる。
でも明確な情報は得られない。すでに伝承も絶えてしまったのか?

しかし、共同墓地の背後の山に城があったと聞いたことがあるとの証言があった。
その山は旧小貫小学校の東側から東に続く山である。
多分、存在するとすればここだろうと考える山、予想と伝承がズバリ一致する。

↑南側の低地から見た城址。一番高い場所が曲輪W、主郭部はその右側である。

で、早速、その山に突撃。
まあ、尾根先端部にはないだろう、と尾根をどんどん登って行く。
尾根の鞍部には堀切D、Cのような場所がある。
でもこれは鞍部を横切る道か、尾根に出る道の痕跡である可能性もある。

尾根のピーク部が曲輪であることも多いが、Z、Y、Xどのピークもただの山である。
これは「しろしろ詐欺」物件か?と疑心暗鬼になるうちに三角点がある山の最高地点Wに到達。
物見台のような平場ではあるが・・これが城郭遺構か判断できない。

さて、これは空振り、引き返そうか?
そんな心の声が。休んで汗が引くと、ちょっと再考。
もうちょっと行ってみるか?
よく引き返した先に遺構があったということがある。

さらに東に向かい、尾根を下りて行くと、堀切Aのようなものが。
さらに東に向かうと2つのピークT、Uを結ぶ鞍部の南に2段の帯曲輪のようなものが。
ここは畑跡の可能性もあるが、標高は100m、麓から比高60mある。
麓にも平坦地が多く耕作地には不自由しない。
こんな比高の高い場所に畑を開く必要は感じない。
尾根上もピーク1からVの間は広い。

でもそこまでその先は道を造った時のコンクリートの絶壁が。
尾根もどんどん下りになる。
結局、これ以上は行けず。
果たしてあの段々が城郭遺構だったのか?畑の跡にしては山の上過ぎるけど。
ともかく、この程度のものなら伝承も途切れてもおかしくない。

三角点のあるW、小さな平坦地に過ぎない。 Wを東に降りると堀切A?がある。 ピークT内部は平坦。南下に2段の帯曲輪がある。

もし、ここが城とすれば、最高箇所に物見を置き、主郭をその背後に置くという形式。
これって、山方古城とそっくりではないか?
危機が迫ったら麓の館からここに避難し、それでも危なくなった東の山を越えて金砂方面に逃走・・。

一時的な危機回避程度のものか?
それとも、管理人の思い過ぎ。「願望が城を造る。」って「願望が歴史を造る。」「願望が発症?の地」となる半島人と同じ病気か?
ただの城っぽい山に過ぎないのか?
でも、自然地形としか見えない山が城址に登録されていることもよくあるんだよなあ。
那珂市の江戸城とか、常陸太田市の十郎山館とか、常陸大宮市の川崎向館とか・・ただの山。