小倉城(常陸大宮市小倉)36.5675、140.4340
陰影地形図と字名をヒントに現地調査の結果、確認された城である。
伝承等の存在は確認されていない。
常陸大宮市小倉、ここは久慈川の東岸の水田地帯であり、部垂城の北東約1.5㎞に位置する。
ここの地区の東は山地になっており、常陸大宮市の市域が一部、常陸太田側に張り出したような感じになっており、常陸太田側の東に金砂郷CCがある。
久慈川東岸の水田地帯とゴルフ場間には直径約600mの標高100~130mの山塊があり、この山塊の中にこの城がある。
しかし、この山塊、侵食により非常に複雑に谷が入り組み、ピークが10ほどある複雑な地形である。
いわゆる「里山」と言った感じの山であり、ピーク間を結ぶ尾根上は土橋状になっている場所もあり、整備されていた感じである。
尾根はかつては道として使われていたようである。
しかし、近年は里山としての管理は既に行われなくなり、藪化も進み、道も失われつつある。
![]() ↑金砂郷CCのクラブハウス西の山にある 出城 |
陰影地形図で広い場所が存在しているのは、この山塊の131mの最高標高地点の北側のピーク付近である。
ここに堀らしいものがあるらしい。
さらにここの字名が「小屋ヶ作」というとのことである。
「小屋」は城を示す場合が多いし、「作」は「柵」から来ている可能性がある。
城が存在している公算が高いのである。
しかし、この山塊、地形が複雑でどこに城があるのか、どこが主体部か、特定できない。
そのため、しらみ潰しにピーク部付近を当たるしかない。
このため、東にある金砂郷CCのクラブハウス駐車場に車を置き、東から西に山塊を縦走することにした。
山に突入してすぐ、クラブハウスに近い山の小さなピーク部に出城らしいものがあった。36.5696、140.4392の位置である。
ここの標高は125.4m。
約25m×10mの楕円形をしており、長軸の両端に土壇があり、西側を土塁が覆っている。
どうやら東方向(常陸太田方面)を見る場所のようである。
ここから尾根伝いに歩くが、尾根上は歩きやすい。
ピーク部は削平され平坦になっており、物見の場のような感じである。
実際、物見と繋ぎの場としても使っていたのではないかと思われる。
山塊の最高箇所131mのピーク部も広く比較的平坦ではあるが、城郭遺構はない。
その北のピーク部西側に横堀①があった。堀底は植林され、道でもあったようである。
両側に竪土塁を持ち、緩やかに西側に下る。長さ約50m。
①曲輪Ⅲ西側の横堀。竪堀状であり、両側に竪土塁がある。 | ②曲輪Ⅲ内には箱堀状のものがあるが・・・。 | ③曲輪Ⅲ南東端に岩をくり抜いた穴がある。何だこれ? |
④曲輪Ⅲの最高地点、ただの平場、遺構はない。 | ⑤ ④の北下には堀切がある。 | ⑥ 曲輪Ⅲから西に向かうと、尾根に堀切が現れる。 |
⑦ ⑥の堀切をさらに西に行くと、3重堀切が! | ⑧ ⑦の堀切から約6m上が曲輪Ⅱである。 | ⑨ 曲輪Ⅱの西端に堀があり、ここを越え、登ると主郭である。 |
⑩ ここが主郭(曲輪Ⅰ)内部は3段になっている。 | ⑪ 主郭の南下に平場がある。 | 出城内部。藪で何だかさっぱり分からない。 |
横堀の北側が平坦地であるが、水平ではなく実際は緩斜面である。
山を崩し、均したような感じである。
東側に削り残しの土壇のようなものがあり、堀切②のような開きがある。
堀としたら箱堀状である。
この部分、人工物ではあるが、城としてのまとまりはない。
構築中放棄されたような感じでもある。
この場所を曲輪Ⅲとする。
ここの東端に岩をくり抜いたような穴③があった。
これは何だ?古墳の石室?金山の坑道?井戸?・・どれも違うような?謎のままである。
曲輪Ⅲの北東端が最高箇所④であり、ピークは平坦、南側が段々になっている。
ここの標高は123.6m、北側が急勾配であり、一気に15m低くなり、下に堀切⑤が2つあり、北側に位置するピークに通じる尾根道が延びる。
この先にピークがいくつかあるが、いずれも平場状である。
尾根筋には堀切のようなものはあったが、堀切とは断定できない。
一方、西にも尾根が延びているので行ってみる。するといきなり堀切⑥が現れる。
さらに進むと標高103mの鞍部になるが、ここに尾根を分断する3重堀切⑦があった。
これこそ本物の城郭遺構である。
その西に高さ約6mの切岸が聳える。
その上が曲輪Ⅱ⑧である。約35m×7mの細長い曲輪である。
曲輪Ⅱの西端に北半分を抉るように堀⑨があり、その先が主郭、曲輪Ⅰ⑩である。
内部は3段になっており、西に傾斜する。東側に石の祠がある。
東西約35m、幅は約10m、南側に腰曲輪がある。
曲輪Ⅰ、Ⅱのある部分は典型的な直線連郭式の山城である。
この曲輪Ⅰの周囲は急傾斜である。斜面南下にテラス状の平坦地⑪があり、北の谷津部に下る道があり、その道沿いにも小さな曲輪のようなものが並ぶ。
この曲輪Ⅰからは南西に部垂城が見える。
なお、この曲輪Ⅰのある山の裾野が平地に接している訳ではなく、谷津を介して西側に尾根が外輪山のように存在している。
これじゃあ、分かりにくく、見つからない訳である。
さて、この城の性格であるが、城主や時代がはっきりしていれば論評できるのであるが・・・
西の久慈川方面が良く見えるちゃんとした城郭である曲輪Ⅰ、Ⅱの部分。
広いが中途半端な感じの曲輪Ⅲ。東を見る出城。
この地が争乱の舞台になった最初は南北朝期の瓜連合戦である。
南朝方の瓜連城と北朝側佐竹氏の金砂山城の間に位置するこの付近でも戦闘が起きているが、構造からして、その頃の城の可能性もある。
次に山入の乱が挙げられるが、この地がどうかかわったかが分からない。小倉城が存在していたのかも疑問である。
さらに佐竹氏の兄弟抗争、部垂の乱がある。
ここからは部垂城が良く見える。
部垂の乱の最終期、天文8年(1538)の激戦に関わり、地元には「佐竹宗家側の軍勢が小倉台陣から出撃した。」という伝承があるという。
この「小倉台陣」こそが小倉城と思われる。
この時は利員城を拠点に小倉城を前進基地として部垂城攻撃に出撃しているようである。
構造からは短期の臨時の城である。
なお、城の立地は、周囲を山に囲まれた平地から少し奥まった場所にあり、利員城の山城部である龍貝城に良く似る。
また、西端の部垂城が良く見える物見の場とも推定される。
本郭Ⅰと曲輪Ⅱの背後、東側に兵の駐屯地のような曲輪Ⅲがあるが、ここは利員城の龍貝城背後の外城(ウリクレ)と良く似る。
以上から部垂の乱において、佐竹宗家側が部垂城攻撃の前進基地として臨時築城し、乱終息後には役目を終えた城と見るのが妥当であろう。