森の木砦(常陸大宮市小倉/塩原)36.5718、140.4279
M氏からの情報で確認したものであるが、一見しただけではただの山である。
しかし、山上にあるものは自然物ではなく、人の手によるものである。


↑西下の大宮東部地区コミュニティセンターから見た森の木砦。このセンターが建つ地には山があり、山を崩して造成した場所である。

@三角点のある主郭は串団子状。真ん中が堀のような・・
A@から南に下る尾根には竪堀があるが、笹薮で・・・

この山上、城でなければ何か?可能性があるとしたら古墳、塚である。
土壇状の盛り上がりが古墳のような感じである。しかし、ここに古墳、古墳群があったという話はない。
もっとも、これが初発見なのかもしれないが。

古墳でなければ、物見の以外、考えられない。
もっとも古墳を戦国時代に物見に再利用した可能性もある。
つまり、古墳、物見、両方とも正解といこともある。
しかも、ここから木々がなければ西側の久慈川の流域や南の谷津が良く見えるのである。
一応、それにより城郭(でもあると)認定した。
名前は字を取り「森の木砦」とする。

台山砦と同じ山地にあり、台山砦からは直線で南西約700mに位置する。
尾根伝いに遠回りになるが、台山砦から行くことができる。
旧世喜小学校の北に山を崩して丘になり、大宮東部地区コミュニティセンターや久慈川漁協があるが、その東に見える標高93.6mの山が砦である。

B最も遺構らしい部分、箱堀と土壇。 CBの土壇の南側に曲輪がある。 D城域北端の土壇

砦に行く道はないが、南西端部に墓地があり、その裏の篠竹の藪を強行突破し、尾根を登って行けば到達する。
途中に段々状の平坦地があるが、これは耕作が放棄された畑の跡のようである。
三角点手前の細尾根に竪堀Aがある。

三角点のある小倉と塩原の字境であるピーク@は団子状、中央部が窪んでいる。
そこから東に延びる尾根が主要部であるが、土壇と平場主体であり、メリハリに欠ける。
深さ約2mの堀Bはあるが、山城特有の薬研堀ではなく、箱堀状である。
その南側にスッキリした藪のない曲輪Cがある。
北端の土壇Dの先は尾根が続き、ここが城域の外れであろう。
台山砦同様、戦う想定の城ではなく、物見である。

性格も台山砦と同様である。
なお、現在は平地に隣接した山に立地した感じであるが、西にあった山がなくなっているため、本来は小倉城のように奥まった山に存在したことになり、その点は南にある小倉城と同じである。
小倉城または利員城の出城として南下の谷津部を通る道の入口部を監視していた可能性もあろう。
この谷津部の先は利員城方面に通じる。

部垂の乱の最終期、天文8年(1538)の激戦で佐竹宗家側が利員城を拠点に小倉城を前進基地として部垂城攻撃に出撃しているが、その時、佐竹宗家側の警戒網の1つとして利員城に通じる街道を抑えるために使われたものと思われる。

台山砦(常陸大宮市塩原)36.5780、140.4316
これもM氏からの情報で確認された砦である。
常陸大宮市中心部北部上大賀で国道118号線から「グリーンふるさとライン」が東の常陸太田方面に分岐し、久慈川に架かる辰ノ口橋を渡り、1.5q東進し、県道156号線と交差し山間に入ると常陸太田市との境である大金トンネルがある。

そのトンネルの西側の入口の南西約300mの標高133m(西低地の水田地帯からの比高約110m)の山にある。

西の山麓、台地区から行くのが最短ルートであるが、道は既に廃れている。
直攀するしかないが、尾根上を適当に歩けば到達する。

砦のある山地は侵食で複雑に尾根が分岐し複雑に入り組んでおり、その中のT形の形をした細尾根を利用して造られている。
砦のある尾根上は標高が120〜133mにかけてアップダウンしている。
灌木が多く歩きにくい。

主郭は@である。
北に竪堀Aが下るが、どうやら虎口のようである。その先に堀切Eがあるが、埋没が著しい。
その北に物見の場と推定される平坦地Fがある。

主郭を南に降りると、平場があり、尾根を横切る古道の切通しC(これは後世のものの可能性が大きい。)が確認できる。
その南は尾根が続き、堀切Cがある。
その南に平場Dがあるが、その先はだらだら尾根が下るだけである。

主郭から東に延びる尾根筋には堀切はないが、この方面が大手であり、主城がある方向ではないかと思われる。

全体にピーク部や尾根上に平場はあるが削平は不十分である。
ほとんど自然地形に近く、自然地形に頼る砦である。

この尾根筋を歩いても気が付かずに通りすぎてしまうかもしれない。
この構造からここで戦うことは想定しておらず、物見台程度が役目のものである。

西側「台」地区から見た砦跡。 @主郭であるが、削平は余り良くない。
A主郭から北側に竪堀が下るが虎口か? B主郭南下には西から登る道が切通しになって合流する。 C 尾根をBから更に南に行くと堀切がある。
D堀切Cを越え南に行くと平場があるが、この先はダラダラ。 E主郭から尾根を北に行くと鞍部に堀切がある。 FEの北に物見と思われる平場がある。

ここからは東側に高い山があり見れない。
西側の久慈川方面しか見えない。
東側の勢力が西を見るための物見である。

東に位置する利員城の出城の可能性がある。
麓で聞き込みをしたが、この砦についての伝承は確認できない。
しかし、利員城付近ではこの砦は利員城の出城として認識されていた。
久慈川方面からの街道が城内を通っており、関所城として使われていたと思われる。
南北朝期の瓜連合戦における北朝方佐竹氏側の砦としても使われていた可能性もあるが、 部垂の乱の最終期、天文8年(1538)の激戦で佐竹宗家側が利員城を拠点に小倉城を前進基地として部垂城攻撃に出撃しているが、その時、佐竹宗家側の警戒網の1つとして利員城に通じる街道を抑えるために使われたものと思われる。

辰口砦(常陸大宮市辰口)36.5884、140.4245
常陸大宮市を流れる久慈川、その東岸にはほとんど城はない。
しかし、2021年になって小倉城が確認され、さらにその北に台山砦、森の木砦(これが城館かどうか怪しい所はあるが)が確認された。
それじゃあ、台山砦から北の小貫城の間の山にも城があるのではないか?
ということで不審者M氏が徘徊し、発見されたのがこの砦である。
でも、城館と言っても台山砦、森の木砦同様、小さなものである。

西側から見た辰ノ口砦。右下の台地には富士フィルムオプトニクスの工場がある。
さらに奥に民家があるが、そこが管理をしていた居館か?


規模は物見、狼煙台レベルである。
実際に使われたとしたら部垂の乱(享禄2年(1529)-天文9年(1540))の時だろうか。

明確な城郭遺構は堀切1本@のみ、東から久慈川方面に張り出す尾根の先端部背後を堀切1本で区画しただけである。
尾根先端には土壇Aがあり、堀切との間に小屋が建てられる程度の平場があるだけである。
尾根は東に続き、ピークBが2つほどある。
ピ−ク頂上部は平にはなっているが、尾根鞍部には堀切を含め何もない。

@唯一明確な遺構である堀切。先端側に土塁があり、
先端との間に平場がある。
A尾根先端部の土壇・・であるが、藪!
ここに物見櫓が建っていたかも?
B東に続く尾根のピーク部、平場にはなっているが、周囲に
堀切等はない。

場所は辰口堰の約400m南、山麓に富士フィルムオプトニクスの工場があり、その東の標高100mの山である。
西の久慈川沿いの水田地帯からの比高は約70m。

麓の工場東側の民家の地は山裾の台地上にあり、居館のような感じでもある。
その民家横から横堀状の道が東に延びる。↓の写真。
これは古道であろう。

この道は利員方面に通じる。
この道を監視し緊急時には遮断する砦でもあった可能性があり、台山砦と同じ役目があったのではないかと思われる。
部垂の乱で使用した後は利員城の出城として万が一の場合、使用することを想定していたのではないかと思われる。
特にこの乱の最終期、天文8年(1538)の激戦で佐竹宗家側が利員城を拠点に小倉城を前進基地として部垂城攻撃に出撃しているが、その時、佐竹宗家側の警戒網の1つとして利員城に通じる街道を抑えるために使われたものと思われる。