富岡砦(常陸大宮市富岡)
この館、本当に城館なのか疑問が残る。
残されているものは人工的に作られたものであることは確かであるが、まとまりがまったくない。城館としても内部は居住用ではない。
構築途中で放棄された未完成品の可能性も想定される。
城館とすれは、臨時的に築城されたものであり、使ったのは1回だけ、使用後は放棄されたものだろう。
一番高い場所が普通は主郭なのだろうが、背後が無防備、それでいて一級の山城に見られるような立派な内桝型の虎口がある。
もっともこの虎口、木材運搬用の後付けのような気もするが・・・。
物見や狼煙台用になら十分使えそうである。しかし、この砦のある山からは眺望が効かないのである。
兵の駐留場所、出撃拠点なら十分に使えそうである。
ここの南に「菖蒲沢」という地名がある。
この地名、「勝負」につながり、合戦に関わった地名の可能性があるという。
合戦があったとすれば、いつ頃か?
南北朝期の瓜連合戦の頃か?あるいは山入の乱の頃か?
なお、この城館、「茨城の古城」で二階堂加志村氏館とされる館と場所が一致する。
「茨城の古城」では源頼朝が金砂合戦で佐竹氏を破った恩賞として二階堂行光、行村にこの地を与え、そのが一族が加志村(現 富岡)の地頭となり、加志村を名乗りここに居住したと考えられると記述される。
しかし、前述したように現地を見た限り、ここに居住用の建物を置くスペースはない。
精々、小屋程度のものが建てられる程度である。
加志村氏が居住した屋敷を置いた場所はここではないだろう。
もっとも可能性が高いのは部垂の乱での使用である。
富岡砦の北にある小倉城には部垂の乱の最終期、天文8年(1538)の激戦に関わり、地元には「佐竹宗家側の軍勢が小倉台陣から出撃した。」という伝承がある。
この「小倉台陣」こそが小倉城と思われる。
この時は利員城を拠点に小倉城を前進基地として部垂城攻撃に出撃しているようである。
富岡砦の直ぐ西が久慈川を挟んで部垂城である。最短距離である。
構造からも小倉城と共通し、短期の臨時の城である。それに北側、利員城方面は無防備に近い。
したがって、ここから部垂城攻撃の佐竹宗家側の軍勢が出撃したのではないだろうか。
以上から部垂の乱において、佐竹宗家側が部垂城攻撃の前進基地として臨時築城したか、山入の乱か瓜連合戦に使った砦を再使用し、乱終息後には役目を終えた城と見るのが妥当であろう。
常陸大宮市から県道167号線を常陸太田市の旧金砂郷役場(現、支所)に向かいその市境付近で南側から金砂郷工業団地から北に延びる道が合流する。
その合流点の三叉路の南西側の山が館跡である。
山の標高は80m、三叉路からの比高は約30mである。
この付近は小河川によりその周囲が侵食された低い山(丘)が入り組み、その1つの山が館であるが、この山、南側の一部がつながっているが周囲を谷津に囲まれたほぼ独立した山である。
遺構は南北約70m、東西約50mであり、北端のピークがあり、南に向けて傾斜している。
南側から登る道があり、途中に虎口@が開く。
先に述べたように、立派な内桝型の虎口になっている。
虎口を囲む土塁は高さが4mほどある。
虎口を入ると南側、西側を断続的に土塁で囲む平坦地Dがある。
北に向けて土塁状の通路Aを登って行くと、西側に古墳のような土壇Bがあり、南北に開いた部分がある。
竪堀のように見えるが、どうも排水用のものじゃないか?
最高箇所、頂上部Cは径約7mの広さであるが、それほど削平された感じではない。
ここには社があった感じであるが、その痕跡はない。
周囲は自然な状態、北西側が尾根状になり、下りる道があるが、途中には堀等もない。
なお、虎口前から道がそのまま最高箇所まで延びており、途中に開いた部分もある。
この道は参道か、作業用のものに思える。
@土塁間に開く虎口・・なんだけど。藪で分からん! | A館中央部に通路が頂上部まで土塁状に延びる。 | B館西側に古墳のような土壇がある。 |
C山頂部は余り平坦ではないし、なにもない。 | D虎口を入ると平坦地がある。 |
いずれにせよ後世のものが混じっているようであり、本来の姿が非常に分かりにくくなっている。
冒頭に物見や狼煙台なら使えそうと書いたが、それなら街道が通っていたはずだが、そのルートは分からない。
参考 関谷亀寿 「茨城の古城」1990 筑波書林
越郷砦(常陸大宮市野口平)
「こすごう」と読むそうである。
那珂川大橋を渡った北側、御前山野口の交差点から県道12号線を緒川方面に約3q北上し、緒川にかかる越郷橋を渡る。
その正面に山がある。そこが砦である。 ↓ なお、この道をまっすぐ進むと城址のある山の東の裾から山中を 抜けて東野城に通じる。例によってここも藪城である。 |
城のある山の標高は110m、麓が35mであるので比高は75m。
特に西側、南側の勾配がきつい。
こちら側から攻撃するのは急斜面のため難しいと思われる。
城へ西の麓にある民家の裏から登ることができる。
道はジグザグに急斜面を登るようについている。
しかし、この道、麓部が消えかかっており見失ってしまう。
かくなる上は直登という強硬手段を取れば冬場なら何とかなる。
しかし、広葉樹の落ち葉が斜面を覆い滑り落ちるトラブル多発、エネルギーの消耗が激しい。
先端部の標高80m地点で尾根上に出る。 尾根上は幅が10mほどあり比較的フラットである。 そこから北東に尾根が延びる。 途中、土橋のような場所がある。 さらに北東に進み、篠竹の密集をへし折りながら強硬突破すれば、主郭部らしい場所に出る。 途中に犬走りのようなものがある。 この篠竹、おそらく矢竹用のものが増殖したものだろう。 しかし、主郭内はそれほど平坦ではない。 広さは径40m位だろうか。 藪と倒木で全貌が把握できない。 肝心の遺構はその北側にある。 幅の尾根をS字形の横堀で分断している。 幅は約8m、深さは約3m、全長は40mほどある。 かなり埋没している感じである。 堀に面して土塁があり、堀に向かって突出した部分があり、そこが内桝形の虎口がある。 遺構らしいものはここだけである。 この堀の北側に堀のような場所があるが、堀にしては幅が小さく、道ではないかと思う。 さらに北側は下りになり北側の山に続く尾根である。 その鞍部に堀切があるのでは?と思い行ってみるが、「ない!」。 期待したものがそこにない時はどっと疲れる。 結局、長い横堀状の堀切のみの一点豪華主義の城であるが、最高箇所に堀切を置いているのはどうしてだろうか? 普通は尾根鞍部か、尾根が下る途中に置くのがセオリーである。 その方が迎撃する側が高い場所に位置するので有利となるはずである。 それが最高箇所に堀を置いたら、堀の両側の高さはそれほど変わらず、主郭側の土塁分しか高さが稼げなく防衛上不利になるはずである。 |
@唯一の城郭と判断できる主郭背後の長大な横堀状堀切 | A尾根先端部が物見台だろうか。狼煙台のような穴がある。 |
主郭の南側に虎口があり、そこを出ると犬走りのような場所に合流する。
あの犬走りは登城路であったようである。
さて、この砦の役目は?
管理人はこの南下の道を行くと東野城に行けるので東野城への街道を監視するための東野城の物見、出城ではないかと思う。しかし、この主郭部は少し奥まった場所にあり、眺望が限定される。
物見の役目なら西側の尾根先端部が最高である。
緒川の谷筋が一望の元なのである。
東野城の物見、出城であったとすれは、主要部は尾根先端部の平坦地ではなかったかと思う。
先端部に抉れたような場所があるが、これは倒木の跡ではなく狼煙台なのかもしれない。
そう仮定すると尾根続きにある土橋のようなものは本物の可能性がある。
主郭と思われる場所は、指揮所、軍勢の駐屯場所であり、家族、住民の避難場所でもあるが、山伝いの背後からの攻撃から物見台を守るためのものであり、物見台からの安全な退去を保障するものであったのでもあろう。