奥山館(ひたちなか市足崎字北根)
場所がなかなか分かりにくいというか行きにくい城館である。
勝田ゴルフセンター南の県道31号線沿い、西の谷津部にフットサル場があるが、その駐車場の西側の藪の中の丘が館である。
でも駐車場との間には深い藪だらけの谷が横たわっており、侵入を阻む。
県道側から入ろうとしても密集した孟宗竹が侵入を阻む。
谷津側からは湿地が侵入を阻む。ここは自然の障害物に囲まれた鉄壁の要害である。

館は真崎浦に流れ込む小河川が開析した細い谷津に北から突き出た台地先端部にあり、一辺50m四方の単郭式の館である。
標高は32.4m、谷津部が18mほどであるので比高15mほどである。
前述のようにどこの方面から向かっても攻略が困難である。
かなり以前に突入を試みたが撃退された記憶がある。

まあ、そこは俺は藪レンジャーである。
最近は行動が過激になってきている。
強行突破はお手の物。

でも、苦労した割に何じゃこれは!と呆れるほどのセコイ物件である。
ともかく周囲の鉄壁の防御はなかなかなもの、来る人を拒むだろう。
こんな場所に来たのは俺が何年ぶりなのだろうか?
俺の前に来たのはおそらく余湖さん位だろうか?
ともかく最近、人がここに来た形跡は伺えない。

すぐ北は県道31号線、車の爆音がここまでよく聞こえる。
直線で50mくらいしかないはず。そこから少し離れたここは別世界である。
ここは冥界である。

この館の遺構、セコイ物件のはずである。
鎌倉時代の築館であり、南北朝期の終わりころには使われていなかったという。

多良崎城を築く前に大掾氏系の吉田氏一族の多良崎氏が居住していた館といわれる。
多良崎城が緊急時の詰め城であったようだが、多良崎城では領内統治や生活に不便であり、多良崎氏が平時に居住していた館がここだったらしい。
しかし、南北朝の騒乱で南朝方に付いた大掾氏一族は大きく勢力を減退させ、多良崎氏も没落。
この地は同じように南朝方について一度は没落したが、北朝方に転じて江戸氏として復活した那珂氏一族の足立氏の領地となる。

その足立氏はここには入らず、深茂内館を居館にし、多良崎氏を称したと言われる。(勝田市史参考)
そのため、この奥山館は廃館になったようである。その後はおそらく畑位にしか利用されていなかったと思われる。
館は50m四方ほどの広さであるが、特に東側が凄まじい篠竹地獄であり、遺構の測量ができない。
東側と北側を高さ1m程度の土塁が覆うが、その外側には堀は見られない。

@ 館北西側の土塁であるが、低いものである。 A館西側の帯曲輪。館西半分は比較的藪は少ない。

谷津に面した西側、南側は段郭や平場になっているだけである。
鎌倉時代の館ならこの程度のものであろう。
しかし、茨城県遺跡地図を見ると、県道31号線の北、ここの北西400mにも奥山館がマーキングされている。
そこでその場に行ってみるが、そこは丘の一部を削り、約50mの広さに削平しただけの場所である。
天然の谷津が堀代わりにはなるが、土塁も堀もない。
平坦であるので建物は建てられ、居住するのには問題はないが、果たしてここが館なのかどうか?
違うのではないか?マーキングミスか?

足崎奥の院(ひたちなか市足崎)
東海村とひたちなか市の間にある旧真崎浦は多くの半島状の台地、岬が突き出しており、いくつかの城館が築かれていた。
特の南側、ひたちなか市側には。多良崎城、内城、少し入り江の奥側になるが、奥山館、深茂内館、小山城、清水城などが存在する。
そして、多良崎城、内城間の間にある半島状台地先端部に「足崎(たらさき)奥の院」があった。

↑ 右手の岡が「足崎奥の院」跡。左の岡が多良崎j城跡、水田は旧真崎浦跡。

読んで字のごとく、一応、ここは城址ではなく寺院跡ということになっている。
ただし、廃城後に寺院に転用された可能性もある。立地は多良崎城、内城と全く同じであり、かつては3方を湖に囲まれた要害の地であった。
半島状台地を横断するように堀切を置けば城になるのである。
昔の航空写真を見ると、南側から先端部に向けて、1本の木列が確認できる。
おそらく参道跡ではないかと思われる。
ともかく想像していても始まらない。ここは突撃あるのみ。

半島状台地付け根部の南側から侵入するのが常道だが、そんなのは面倒!
台地東下から一気に突撃。

しかし、そこはとんでもない篠竹の地獄であった。
でも、台地、東側に低い土塁が確認できた。
台地上は人工的に削平されていた。

参道であったと思われる杉の木の列は健在であった。
台地西側が若干、藪は少ない。
おそらく参道沿いに僧房があったのではないかと思われる。

北に向かうと尾根を横断する堀切が存在していた。
自然地形ではなく人工的なものである。
この北側が寺院があったと思われるが、そこは篠竹地獄であり写真撮影は不能。
内部は削平されてはいた。

←丘西側は比較的藪は少ない。比較的平坦である。
 ここ以外は写真を撮っても篠竹しか写っていない。ここに来た証拠写真。

(参考:勝田市史、航空写真は昭和55年国土地理院撮影のもの)