才丸城(北茨城市関本町才丸)
日本城郭大系に北茨城市にある才丸城の記載がある。
別名は「猿が城」と書かれている。
しかし、茨城県遺跡地図にも才丸城は載っていなく、北茨城市史にも記述はない。

一方、治承4年(1180)、源頼朝による佐竹氏攻撃「金砂合戦」で破れた佐竹秀義は北茨城の花園に逃れ、洞窟に隠れ、猿が食べ物を運んだとの伝承があり、そこが「花園山城」、「猿が城」とされる。
その「才丸城」、「花園山城」、「猿が城」とかの名前が登場する地は、福島県境に近い太平洋岸から約15q、内陸に入った標高400mほどの山間である。

その場所は今の花園神社の北にあり、洞窟もあるという。
その洞窟がどこにあるかは分からない。
この伝承、伝説の域を出ないが、事実が背景にあると思われる。

「猿」は山岳修験者のことであろう。
金砂山の西金砂神社に佐竹秀義が立て籠もったのも神社に係る修験者との関係によるものと思われ、花園に逃れたのも山岳修験者の手引きによるものだろう。
佐竹秀義を援助していたのは、花園神社に係る山岳修験者であろう。
この金砂山籠城と花園逃避は背後に山岳修験者がおり、その連携プレーだったものと思われる。

「洞窟に隠れた」との話は当初はそうしたのかもしれないが、秀義は文治5年(1189)頼朝に降伏するが、その間、9年間という長期に渡り洞窟に隠れ住める訳はない。
屋敷が与えられ、9年間そこに住んだ(追手も来なかったようであり、謹慎していた?)と考えるのが妥当であろう。
この地に秀義が逃れた理由の一つがここのすぐ北が奥州、源平両者とは中立的関係にあり、さらには佐竹氏とは友好関係にあった奥州藤原氏の勢力範囲である。
さすが頼朝も当時の最大の敵は平氏であり、ここで事を構えると藤原氏を刺激してしまうこともあり、その状況ではなく、秀義にとっては藤原氏をバックにした安全圏であったのかもしれない。

その屋敷は平安末期のことなら、それほどの防御施設を持っていたとも思えない。
襲撃されたら山中に逃れれば何とかなる。
それより襲撃を早めに感知することが最重要となるだろう。

したがって「花園山城」、「猿が城」とはその屋敷そのものか、緊急時の避難施設、または早期検知用の物見程度のものではなかったかと思われる。
地元で何人かに聞いてみたが、誰も「城」が存在したという伝承は知らなかった。
既に伝承が途切れている可能性もある。
もし、城が存在していたとしても平安末期の城だと期待はできそうにもない。

戦国時代となるとこの地は岩城氏と大塚氏の境目ではあるが、ここが係争の地となる可能性としたは内陸部への塩の道があったという想定ができよう。
ただし、内陸部へは何本の道が通っており、かなりの山間を通るこのルートがメインであった可能性は少ない。
(おそら国道289号線ルートか?)サブルート、バイパスルートであった可能性はあるだろう。

才丸地区の北東に「旗立峠」がある。この名前、何を意味しているか?
この地で抗争があり、峠付近で軍勢が陣取り旗を立てて威嚇したことがあったことがルーツかもしれない。
それがいつのころか分からないが。

この地にはいくつか、城があってもよさそうな山がある。
大体は交通路である現在の県道27号線沿いの山である。
県道27号線のルートはおそらく昔の街道とそれほど変わっていないと思われる。
その中で街道を抑えられそうな山を探すと、才丸地区南側、36.8751、140.6543の位置にある標高429mの山が注目される。
←西側から見た城址。下の道路は県道27号線。撮影位置を反対側に行くと花園神社に行ける。
この山は東に才丸川(水面標高378m)が流れ、西側の鞍部が県道27号線の切通(標高397m)である独立した感じの山である。
ここからは南西の山中に山道も延びており、この道を通ると花園神社方面に最短距離で行くこともできる。
なかなかの好位置である。

切通近くに車を置き、早速突入!斜面部は藪だが、東の山頂部に通じる尾根部は比較的すっきりしている。
しかし、タラの木と野ばらがネックである。すると埋もれてはいるが小さな堀切@があるではないか!しかも土橋付きで。
その先に長さ7〜10m、幅4mほどの曲輪が5つ続き、高さ10mほど登ると山頂部に至る。
山頂部Aは平坦である。(植林が行われており、曲輪は手が加えられている可能性あり)東下に腰曲輪があり、東に下る尾根の途中に堀Cが確認できる。


@西から尾根を登って行くとこの土橋を持った堀切が現れる。

一方、山頂から南に続く尾根に長さ約30mの曲輪Bがある。
ここは山頂部が風避けとなり日当たりがよく、小屋が建っていた可能性もある。
この先は南に下る尾根になるが、堀切等は確認できなかった。

A山頂の主郭 B山頂南下の曲輪、風もなく陽当たり良好。 C東下の堀は塹壕のような横堀である。

これだけの小規模なものであるが、城郭遺構と見てよいと思われる。
規模、遺構から物見と思われる。
北の才丸方面がよく見え、南に続く尾根筋には堀切はない。南の者が北方面を監視すること、または西に延びる花園神社方面に行く道を監視することが目的と思われる。

この構造から旗立峠との間で才丸地区を隔てて軍勢同士が睨みあった可能性も想定されよう。

しかし、この遺構、平安末期、佐竹秀義の時代まで遡れるとは思えない。
日本城郭大系は才丸城の城主として「西丸義宗」の名を挙げている。
おそらく西丸は才丸から採ったものだろう。

西丸氏は佐竹一族である。
佐竹氏の秋田移封には同行せず、後、水戸徳川家に仕え、大津村で郷士となったという。
その一族からは幕末の志士、西丸帯刀(野口氏からの養子)が出ている。
現在でも西丸姓は北茨城で200人ほどいるという。
子孫であろう。
なお、「才丸」姓も少数ではあるがいるという。

西丸氏が城主とすると佐竹系の城ということになるが、平安時代末期には佐竹氏から分かれていないであろう。
もっと後の時代のことだろう。

となると旗立峠に旗を立てたのは岩城氏かもしれない。
しかし、西丸氏の本拠は名前からして才丸地区と思われるが、この城は才丸地区を見ており、矛盾が生じる。
日本城郭大系の才丸城ではないのかもしれない。

果たして、これが「才丸城」、「花園山城」、「猿が城」のいずれなのか?
それともこことは別に城は存在しているのか?
西下にある県道27号線の堀切を南側から見る。
右手が城址である。先に見えるのが才丸の集落。
左の堀切の西(左側)の山には城郭遺構はない。
平坦地があるだけである。

なお、念のため、県道27号線の切通しの西側に位置する西側から尾根状に張り出した山にも登ってみた。
ここなら切通部を両側から攻撃できる。
しかし、山頂部は比較的広く緩やかであったが、城郭遺構は確認できなかった。

また、この切通から県道27号線を北に少し下った才丸地区の字が「戸の内」である。
城郭に係る可能性がありそうな地名である。

この地区に西側から突き出した尾根先端部に「諏訪神社」がある。
この神社の西側にピークがある。何となく怪しそうな山である。
地元の人は「何もねえよ。」の一言。
念のため突入。神社背後はフラットな尾根が続く。
ピーク近くの斜面は倒木と篠竹が密集。
ピークまで到達はできなかった。
しかし、ピーク途中までに城郭遺構らしきものは皆無であった。
地元の人の言うとおりのようだ。(2019.12.14)

2019.12.29 追加確認
再度、数人で追加確認で訪れた。
全員、城であると判断した。しかし、街道を監視する役目は皆、認めたが、北の才丸なのか?
南の勢力の城なのかは見解が分かれた。
現地に立っても見解は分かれるのである。
さて、真実はいかに?
しかし、しつこい!

本当に才丸地区に城がもうないのか、字名を基に当たってみた。
諏訪神社の北側に「堀の内」という地名があり、その裏山を当たってみる。
堀の内地区の民家、既に廃屋。
10年くらい前には住んでいない状態になったようである。

その裏山、藪状態だったようで、タラの木、野ばらが密集、恐ろしい世界である。
でも北側が刈られており、その逆木地獄の中を突破して、強引に尾根に到達、そこには・・・?
ただの山だった。
麓部に比べれば杉が多く、下は比較的すっきりしているが、行けども行けども城郭遺構なんてなかった。

完全な三振である。でも、まあ、この手の趣味、所詮そんなもんである。
子供のころの探検ごっこの延長だもの。

才丸、堀の内の裏山・・何もねえ! 旗立峠、谷底を道が通る恐ろしい場所である。 一見、城の横堀に見えるが、これは古道!

このド田舎に来てこれで帰るのはガソリンと時間の無駄。
そこで「旗立峠」に行ってみる。

その峠、凄い谷間の道だった。
深さは20mほどある。迫力ある。怖い!
おそらく車道にするため、掘り込んでいるので元々はもっと浅かったとは思うが、それでもかなり深かったとは思う。

この風景、会津の鹿垣に似ている。
峠の防塁みたいである。
上から石を落とされたら一たまりもない。

でも旗立峠というので、旗を立てたはずであるが、どこに立てたのであろうか?
谷底に立てても敵には見えないし・・。やはり切通しの上の山だろう。

しかし、年末の12月29日、家の掃除もしないで山の中で何やってんだろうねえ。