粟野館(北茨城市関本町関本中)36.8555、140.7740
この付近で比較的知られた名所として、福島県側となるが「勿来関」がある。
しかし、今の勿来関と言われる場所が本当に勿来関なのかは、分からない。
陸前浜街道は何通りかあるようである。
御城山城と館山館の間を通る街道が陸前浜街道の可能性もある。

もちろん、その1本東、中山寺の東の谷を通り、いわゆる勿来関公園に行く道も陸前浜街道の可能性がある。
粟野館はその勿来関公園に南から向かう街道筋、中山寺の対岸の山にある。

↑南から見た城址、左のピークが本郭、右のピークが二郭、下の民家が居館であるM野氏宅
城と確認されたのは2023年1月である。
それまでは調査は行われてはいたが、城とは認識されていなかったようだ。
確かに南から登って行くと山頂部に土壇と平場があるだけである。
山の神が祀られた山上がこんな感じではある。至ってシンプルなのである。

その東側に深さ10m以上もある大堀切があるのだが、これは自然の谷にしか見えないかもしれない。
また、北下には横堀、曲輪、竪堀等、城郭遺構のオンパレードなのだが、そこまでは行ってなかったのだろう。

この手の山城、だいたい山頂部には大した遺構はなく、周辺部に凄い遺構が存在していることが多いのである。
山頂部だけ見れば、この城、物見台程度のものである。
しかし、そんなものじゃなかった。

確かに標高60mの山頂部は物見台であろう。
南下には居館跡Hがあり現在はM野氏のお宅である。
標高は21m、南下より9mほど高く、切岸は城郭のものそのものである。
坂虎口が下る。斜面部に面して土塁があったようで少し地膨れが残る。

M野氏は室町時代からこの地に住んでおり、江戸時代は庄屋を勤めていたという。
M野氏はどうやら城主の末裔らしい。地元の土豪だろう。

居館跡のを抱え込む腕のように山頂から尾根が東西2本下る。
この尾根筋には大した遺構はない。
東側の尾根に堀切が1本あるだけである。

山頂部は居館から約40m高く、前にも書いたように土壇@があり、西側から南側にかけて腰曲輪Aがあるだけである。
大したものではない。
しかし、東側を覗き込むと深さ10m以上もある大堀切Bがある。ド迫力である。

@館最高部の土壇上、櫓が建っていたのだろうか? A @の南下の帯曲輪 B本郭の東を遮断する深さ10m以上もある大堀切。
C本郭を北に降りると横堀がある。 D尾根にある堀切 E Cの堀の北下に展開する曲輪群
F Eの曲輪群の北下は竪堀となる。登城路兼出撃路? G Bの大堀切の東側が二郭。その最高部。 H南下のM野家宅が居館の地である。

尾根を北に下ると、小曲輪を経て横堀Cのが尾根を横断する。
標高42m、山頂から約20m下である。斜面部は竪堀となり斜面を下る。
さらにその下に曲輪があり、2本の土塁で囲んだ曲輪Eがある。
土塁は尾根になり西側の尾根には堀切Dと曲輪がある。

尾根間はU字形の竪堀Fとなり麓まで延びる。
この竪堀は登城路兼出撃路のように思える。
一方、大堀切の東側に尾根が延び、尾根上は平坦化されており、南側は帯曲輪になる。標高62mのピーク部Gは物見台のような感じである。
ピーク東に堀切があり、さらに尾根は東に延びる。
その尾根筋にも堀切が存在する。
果たしてどこまで城域が広がるか?

この付近は戦国時代は岩城氏が支配していたので岩城氏に属する城であったと思われる。

村山物見台(北茨城市関本町福田)36.8562、140.7692
粟野館は勿来関公園方面に通じる街道の南側の入口を抑える城と思われる。
したがって西下を通る道も陸前浜街道の1つだった可能性があることになる。
この道が陸前浜街道の1つとすれば、御城山城と館山城同様、西側の山、麓に中山寺がある山にも城がある可能性がある。

そこに行ってみる。
墓地造成のため、中腹遺構は削られているので遺構の存在は不明であるが、山頂部は手付かずである。



山頂部には3つのピークがあり、最高部の西側の標高74mのピーク、福田足尾山は平場のみで城郭遺構は確認できない。
しかし、東端、粟野館側の標高66.7mのピークの西側に二重堀切が存在する。
←J東端のピーク(中央上)北下の二重堀切
したがって、このピークが物見台であったものと思われる。
一応、地名を採り「村山物見台」とする。
もちろん、粟野館の支城である。

臼庭城(北茨城市華川町車/磯原町臼場)36.8084、140.7317
臼庭城という城が果たしてここかは何とも言えない。
車城は臼庭城とも言うのである。
これは岩城系の車氏が城を奪う前の城主が臼庭氏であり、その名を採ったものである。
もっとも臼庭氏は地名を名乗っているのであるが・・・・・・・・・。
なお、車城は臼庭にはない。

臼庭(場)という地名、どこまでかが臼庭なのか?よく分からない。
一方、北茨城市史では臼庭城は工業団地となり湮滅したと書いてある。
その臼庭城は磯原町臼場にある。
混乱の極みである。
話によると行政区分が細分化され、臼庭が分割され、一部が違う名前になったとか?

で、困ったことにこの臼庭城である。
この城も臼庭城である。
磯原町臼場と華川町車の境が城内を通るのである。
頭がこんがらかってきた。

↑ 西側、常磐自動車脇から見た城址。鉄塔の建つ場所が本郭である。写真右手下に登り口がある。
この臼庭城、2003年12月、この城とニアミスした。
当時、俺は城巡りを始めたばかりであり、まずは有名城郭を忠臣に回っていた。
この地なら当然「車城」が一番知られている。

地図を見ながら場所の見当をつけ、地元のじいちゃんに再確認した。
もちろん車城には行ったのだが、八幡神社の近くの山にも城があるよ、と教えてくれた。
そこで、車城に寄った帰り、じいちゃんが指示した八幡神社に行き、付近の山を徘徊した。
でも、城など見つけられなかった。
「シロシロ詐欺か?」と思い、この件はすっかり忘れていた。

ところが、八幡神社の谷津を挟んだ北の山に城らしいものがある、との情報がもたらされた。
ということで、2023年1月、そこに行った。
「ビンゴ!」まさしく城だった。
確かに八幡神社の近くである。
じいちゃんの言ったことには嘘はなかった。
ってことで、俺にとっては「19年目の邂逅」という訳である。

@本郭西下の腰曲輪から見た本郭切岸。 A本郭東側を覆う土塁。しかし、酷い藪! B本郭、二郭間の二重堀切、ちっとも分からん!

城は北茨城ICの北約1q、西側を常磐自動車道が通り、花園川が流れる。
車城は北北西約700mに位置する。
北東方向から花園川方面に張り出した尾根末端にあり、標高は40〜45m、花園川からの比高は約30mである。
城は2つの部分からなり、南西端の鉄塔が建つ場所が本郭である。
約100m×40mの曲輪の南西下と西下に腰曲輪@を持つ。

内部は杉と竹林、切った竹で歩くのも難儀。下草もかなり・・・。
そのため、写真を撮ってもガッカリなものが多い。目では遺構はちゃんと見えているのだが。

C二郭北端の土壇、櫓台だろう。 D Cの櫓台の北下には巨大な二重堀切がある。 E 二郭は南東方向に延び、一部は材木置き場になっている。

メインの曲輪は北東側と北側を土塁が覆いA、北東側を覆う土塁は高さ2〜3mある。
北端が櫓台のようになっており、標高は44m、北側の二郭に尾根が延びる。

一方、南西側縁部は横堀状であるが、堀は浅くこれは南側から登る敵を迎撃する塹壕のように見える。
曲輪は南西側方向に緩く傾斜しており、明確な遺構がない。
鉄塔建設の際に破壊された可能性もある。
二郭との間には二重堀切Bがある。

F本郭と二郭の間の谷津部は底が平坦に加工され段々状。
ここにも城に係わる施設があったと思われる。三郭か。
G二郭から見た本郭東側の切岸。
間に谷津部があるので分かりにくいが高さは10mを越える。

二郭は尾根上を平坦化した東西約100mの細長い曲輪である。
北端が櫓台Cになっており西側、北側を土塁が覆う。
櫓台の北下に二重堀切Dがあり、ここが城の北端である。
なお、本郭と二郭の間の谷津部Fは谷底が平坦に加工され、段々状になっており、ここを三郭というべきかもしれない。

この城の歴史は不明であるが、城域は約200m×100mと広く、複郭を持つので小規模な城ではない。
車城の出城でもあろうが、車氏の重臣クラスが城主であろう。

豊田鹿島館(磯原町豊田)36.7976、140.7343
北茨城ICの東約600m、磯原駅の北西約1q、鹿島神社がある独立峰にある。
この山の直径は約200m、最高箇所は標高55m、西側中腹標高30mの場所に神社が建つ。
周囲は標高約7mの平地で、北東側を花園川が流れる。

↑ 南から見た城址、双子の山で右側(東側)の山に神社があり主要部、鞍部は駐車場。左の山には小さな平場があるだけである。
北1qに臼庭城がある。
比高が50m弱の独立した山であるため、結構目立つ。
物見台であった。・・という話は以前からあった。
確かに物見台としてはいい立地である。

↑このイラストは東側の山のみを描いています。

神社社殿の地から藪を強引に突破すると山頂部@になる。
山頂は長さ10mほどの平場になっており、石の祠があるが屋根が落ちており、管理は放棄されている。
ここまで来る人はほとんどいないと思われる。
それで社殿からの道がなくなってしまったのだろう。

山頂部は北に向けて弓なりにカーブし、段々状に細長い曲輪を展開させながら標高を下げて行く。
途中から帯曲輪が南東側に延び、山頂部から南東に派生する平場になる。
その斜面であるが、崩落防止のネットが張られており、かつての姿とは異なるかもしれない。

山頂@の北西下に平坦地が見える。
この場所、約40m四方の広さがあり、北に向けて標高を下げ、数段になっている。
山頂側が一番高く標高37m、北端部は標高31mである。
山頂側との間には北東方向に下る竪堀Aがある。

@頂上部は平場になっている。屋根が崩壊した石祠がある。
 草木がなければ抜群の眺望であろう。
A山頂北下には竪堀があり、広い段々状の平坦地がある。 B平坦地の北端には前面に土塁を持つ曲輪がある。
 この横から登城路と思われる大きな竪堀が下る。

平坦地の北端には土塁を前面に持つ曲輪Bがあり、竪堀が下る。
北下には花園川が見える。
竪堀がどうやら大手道だったように思われる。
この構造、北に位置する粟野城の北側に下る竪堀と良く似る。
同じ設計者によるものかもしれない。

山頂の北下に小屋を置いたと推定されるが、山頂部の日陰となり、あまり日照はよくないように思われる。
この平坦地、下の方は藪で花園川が流れ急傾斜、神社からも藪を突破しないと行けない。
おそらく人はまず行っていないと思われる。

一方、西側の山の最高箇所には、↑の写真に示す7m×3mの平場があり、西下に通路状の尾根が下るだけである。
死角となる西側を見る補助的な物見の場だろう。
東西の山の間の鞍部が駐車場になっているが、社殿の場所を含めて、ここも曲輪であろう。

この館、北の勢力、おそらく車城の岩城氏勢力が南の大塚氏の勢力範囲を見ているものと思われる。
南の豊田城と北の車城、臼庭城の繋ぎの城であろう。

岩塙館(北茨城市関本町福田)36.8477、140.7685
大津港駅の西約600m、北茨城市市民病院の北西約400m、岩塙集落最奥部北側の山にある。
城址の東に鉄塔があるので目印となる。

↑ 北下、里根川沿いの水田地帯から見た館跡。鉄塔の右側の林の中にある。
城のある場所の標高は50m弱、北下が里根川が流れる水田地帯で比高は約45m、対岸に粟野館がある。
北西約2qには御城山城、館山城がある。結構な城郭密集地である。
城には岩塙集落の奥側から山に上がり、東に向かうのが一番行きやすい。
その他のルートは冬場でも藪がきつくて難しい。

城は単郭である。曲輪は約70×50mの大きさで、北西方向に3段構造になっている。
北西側、南東側は急坂である。
山続きの北東側と南西側は大きな堀で遮断している。
北東側の堀は長さ約40m、主郭側からの深さ約5m、幅約10m、堀に面して城側の北側に土塁が構築され、城外側にも土塁がある。
横堀と言えよう。

一方、南西側の堀は深さ約6m、幅約11mと深い。
堀は1級品である。
曲輪内は藪である。
写真を撮っても何が何だかさっぱり分からない。

@館跡西側の堀切、深さ約6m。 A館跡東側の堀。横堀状である。

さて、この城、何の史料もないようである。
どちら側を見ているか?と言うと、南側は山があり、視界が効かない。
北の里根川方面を見ているのでろう。
対岸の粟野館の向館の位置付けを持ち、里根川に沿った街道を抑える役目があったのであろう。

陣場山館(北茨城市関南町関本下)36.8378、140.7685
大津港駅の南西約1.5m、北茨城市民病院の南西約800mに陣場という地名がある。

陣場はだいたい軍勢が陣を敷いた場所を指すことが多く、陣城のようなものが存在していた可能性がある。
西には湯網城がある。
南側を上江戸川が流れ、大山祇神社がある。

この神社の北側の標高約50m、比高約45mの山がある。

茨城県遺跡地図ではこの山、陣場山遺跡とされ、奈良平安時代の遺跡としている。
戦国時代の遺跡とはしていない。
ここに紹介する城、果たして城かは論議はあろうが、遺跡名をお借りし「陣場山館」と仮称する。
遺構は東西2つに存在する。


南から見た陣場山、右が東遺構が存在する山、左側の平たい山に西遺構がある。
このうち西側の遺構は、城郭遺構なのか判断できない。
山頂部に東西約250m南北約70mの平坦地@がある。
頂上部の広大な平坦地はほとんど標高差がない。
そして南斜面に数メートルの段差で曲輪を数段展開させる。
切岸Bは城郭遺構のように急勾配である。

巨大な平坦地の北側はだらだらした斜面になっている。
この平坦地と曲輪群、これらは明らかに人工物である。
北端には堀切Aと思われる場所がある。

元々、山頂部が比較的平坦な岡だったとしても、これらを構築するのはかなりの工事量である。
後世、畑としても利用していたと思われるが、切岸の鋭さは耕作に伴うものではない。
城郭遺構と見てよいであろうが、陣を置くだけでこれだけの工事量を投入するものだろうか?。

@東西約250m南北約70mの広大な平坦地。 A北端部の堀切と推定される場所 B段々の切岸は高さが4〜5mの急勾配、
 城郭の切岸のようである。

しかし、地名以外、伝承もないようである。
陣城とすれば北の勢力が南への侵攻を意図した感じである。
大塚氏領を狙う岩城氏によるものであろうか?

この平坦地と関係があるのかどうか分からないが、平坦地の東側の山に城郭遺構がある。
東遺構である。

こちらは山続きの東西をセオリー通り堀切で遮断しているが、段郭で構成している。
頂上部の標高は45m、長さ10mほど、北と東西に段々状に曲輪を構築し、T型をしている。

切岸は西側にある巨大平坦地の切岸の鋭さとは対照的に甘い。どちらかというと風化している感じである

C 東遺構の主郭

城ではあろうが非常に古い印象である。
西側の巨大平坦地とは構築、運用した時期が違うように思える。