北茨城の城 2022

大津三峯館(大津町)36.8337、140.7873
大津港を見下ろす北の標高52mの三峯神社が建つ山、権現山にある。
この山は平潟港付近から続く山地の南東端にあたり、西下を里根川が流れ太平洋に注ぐ。
この山の東側は谷となり、車で一周することができほぼ独立した形である。

南下から三峯神社の参道が付いているが、参道、社殿とも荒れている。
おそらく航海の安全や豊漁等、漁業関係者の崇拝を集めたものと思われるが、現在はあまり参拝に訪れる人はもういないのであろうか?
←館跡から見た大津港と太平洋。ここから海上交通を監視したのであろう。
この大津港、少し東の岡に和銅3年(710)に建立されたという大津廃寺があるように古代から栄えた港であり、太平洋沿岸航路の中継基地であった。
戦国時代は岩城氏が港を管理していた。

江戸時代末期文政7年(1824)には捕鯨で近くまで来たイギリス船から船員が水と野菜を求めて上陸し、役人はそれらを与えて退去させたという。
この事件が攘夷思想を刺激、尊王攘夷運動を過激化させたと言われる。
ちなみにこのイギリス人上陸事件は幕府や水戸藩を慌てさせたが、地元の住民は至って平穏だったという。

このように古代から重要な港湾だったが、戦国時代は水軍の基地でもあったようである。
もっとも普段は太平洋沿岸航路の運搬船や漁船であり、武装すれば水軍の船であり、水軍専用の船は存在していたのか不明である。

山入の乱の最中、現在の東海村の村松虚空蔵尊が岩城水軍の攻撃を受け炎上するが、その軍船はこの大津港から、またはここを経由して南下したのであろう。

そのような軍事的要素を持つ大津港は軍事拠点でもある。
当然、防衛も考慮しているはずである。
その場合、どこに軍事施設を置くか検討すれば、この権現山である。
そこで行ってみた。

山頂部には高さ2〜3mの土壇があり、周囲は平場になっている。
さらにその周囲には帯曲輪が巡っている。
山城でよく見られる形態である。

切岸の勾配は急であり、メリハリがある。堀切と思われるものが山頂東側にある。
この土壇は物見台と思われる。

この構造は城郭と考えられる。神社だけならこのような構造は採らない。
城域としては東西約50m、南北約100mの範囲である。
なお、この土壇は古墳でありそれを物見台に転用したらしい。

@山頂に建つ三峯神社 A社殿背後の土壇、古墳と言われる。

さて、この城館の名称どうしようか?
権現山というので権現山館?・・ちょっと同名の城館、多すぎる。
大津権現山館としようか?
それとも、神社に敬意を表し、大津三峯館にしようか?
一応、後者にしておこう。

山頂部は木が鬱蒼としていて眺望は現在は悪いが、高さ約50mあるこの場所からは大津港全域、沖合、南の磯原方面、西下を流れる里根川の上流方面を見ることができ、まさに天然の展望台である。
大津港は江戸時代は水戸藩(松岡陣屋)が管理していたと言いい、松岡地理誌にも大津港の絵図が記載される。
そこに権現山が描かれているが、城館との記載はない。
居住用の城館ではなく、物見台程度の城だったので伝承が残らなかったのかもしれない。


松岡地理誌の世界

松岡地理誌は文化7年(1810)水戸藩の支藩、今の高萩市の松岡小学校の地に陣屋を置いた松岡藩(正式に水戸藩から独立したのは明治元年(1868)、明治4年には廃藩置県で廃止され僅か3年しか存在していない。)の藩主、中山信敬が家臣の寺門義周に命じて藩内(高萩市一帯と北茨城市南部)の地理、歴史、産物等を調べ編集させた資料である。
なお、この中山氏はあの小田原の役の八王子城攻防戦で戦死した北条氏家臣中山家範の子、信吉が徳川氏に仕え水戸藩家老となり続いた一族である。
この中には中世の城館跡に関する事項も含まれ、ほとんどの城館には現在で言う縄張図に相当する絵図が添えられている。
既に開発等で失われた城館、改変を受けた城館も含まれ、幕末の残存状況を知る貴重な資料である。

ただし、掲載される城館はほとんどが居住を兼ね、伝承が残っているものである。
物見台や狼煙台、陣城のような一時的な城館は伝承も残らず、まだ人知れず埋もれているものと思われる。

「図説 茨城の城郭」「続 図説 茨城の城郭」「図説 茨城の城郭3」に掲載した北茨城、高萩市域の城館の多くは「松岡地理誌」にも掲載されている。
しかし、時が経ち、開発等で地形も変わり、一部の城館についてはその所在について曖昧であったり、分からなくなっている場所もあった。
そのうち、岩淵古屋舗、豊田城を確認したので紹介する。
行ったのは2022年7月16日、雨が降る真夏である。そのうち雨が上がり湿度が酷い。
真夏に藪の城など行くものではない。
この日、笠松古屋敷は空振りに終り、2022年8月20日、リベンジした。しつこい!

笠松古屋敷(磯原町大塚)36.7900、140.7096
松岡地理誌に図入りで掲載されている城館であるが、場所が良く分からない。
茨城県遺跡地図にも載ってないし、北茨城市史でも曖昧な書き方をしている。
松岡地理誌に描かれる笠松古屋敷
大塚氏発祥の城、菅股城の南東900mくらいの場所にあるとされるが、結局、見つけるまで3回も探索することになった。
しかし、しつこい!
1回目に行ったのは2019年11月15日、鹿の倉団地付近にあるはずと予想して団地の南側の山(36.7909、140.7042付近)を徘徊した。
でも城館はなかった。その代わり横堀状の古道Eがあった。

当初、城館の横堀と思ったのだが・・・(後で分かったが、この古道の東に館があり、館から菅股城に通じる道だった。)このため、この時は館は団地になって湮滅してしまったと思った。
しかし、その場所の約200m東が正解だったのだ。

それから約3年が経った。
団地のある岡の下の平地(36.7900、140.7064付近)が館跡ではないか、ということで2022年7月16日に行ってみた。
確かに松岡地理誌に載っている図と非常に似た地形だった。
しかし、松岡地理誌の図は岡の上のように描かれている。(実はその場所を見下ろす西約200mに見える岡が正解だったのだが。)
Yahoo地図の航空写真に映る笠松古屋敷
その後、航空写真等を調べた結果、1回目に行った場所と2回目に行った場所の中間、西から延びる岡の東端部に松岡地理誌の図に一致しそうな場所が見つかり、クソ暑い2022年8月20日にそこに行ってみた。
結果、ビンゴだった。
やっと見つかった。しかし、ほとんど湮滅状態だった。

もっとも、元々、岡の上に若干の平坦地があるだけで、土塁もなく、自然地形を利用した城館であったらしいのでほとんど遺構らしいものはないような物件であったようである。
どちらかと言うと物見の場、程度のものである。
かろうじて旧状が伺うことはできた。位置は36.7900、140.7096である。

@岡上東端の平坦地、かろうじて平坦地として残る。 A西側は重機で平坦化されている。建物裏付近に塚があったらしい。 B岡東端末端部にある十九夜尊、ここに地名になった「笠松」があった。
C西端の堀切は埋められている。かろうじて窪みが確認できる。 D岡南西下の抉れた場所に建つ民家が館主の居館だったらしい。 E谷津から西に延びる古道は菅股城に通じる。

館は北側に谷津が入り、北側の台地からは遮断され、これが自然の堀の役目を果たす。
谷津の末端部には溜池がある。
この谷津の奥を西側に進むと、1回目の探索で見つけた横堀状の古道Eである。
館のあった岡の標高は30〜35m、麓の水田地帯からは20〜25mの比高を持つ。
西から続く岡の途中を堀切で遮断していたようだが、この堀切Cは埋められ、その部分が若干低くなっている。

この堀切で区画された東側が城域であり、岡上は東西約120m、南北約50mである。
この堀切は堀底道であったようであり、北側の谷津に下り、道は古道につながって行く。

岡上には平坦地@、Aがあり、西側Aがやや高く、塚または古墳と思われる土壇があったという。
現在、岡上は削平されており、土壇もなく、かつての姿は失われ、民家や作業小屋、電波塔やソーラーパネルが並んでいる。
松岡地理誌によれば、岡上は江戸時代末期は雑木林だったようであり、戦後の航空写真を見れば畑として使われていた。

岡の南側は現在、民家が数軒ある。その間を登る道が岡に上がる道だったようである。
また、南西下に岡を抉ったような場所Cがあり、そこに民家が建つ。
ここが館主の居館だったようである。

さらに岡の東側先端部近くには、地名の由来となった「笠松」という松があったという。
この松は松岡地理誌が書かれた1810年頃には既に倒れて切株が残っていたようである。
現在、その場所には十九夜尊Bが建つが、切株も既に朽ち松のあった位置は分からない。

この地のミニ戦国大名、大塚氏の本拠、菅股城の出城であり、大塚掃部助の館と言われる。
なお彼は菅股城を築城した者であり、鎌倉時代末期の人物である。ここに入ったのは大塚氏一族の者であろう。
菅股城は北西側の少し奥まった場所にあり、南方や東方が良く見えない。
この館は出城であるとともに、菅股城の視界を補完する役目があったのであろう。
大塚氏は龍子山城に移転し、菅股城には一族の者が入る。その時期は応永年間(1394-1428)である。
この頃は足利義満が室町幕府の将軍であり、比較的平穏な時期である。
その後まで、この館が存続したかは分からないが、残る遺構から推定すると非常に簡素であり、戦国時代の城館という感じはない。おそらく、大塚氏の龍子山城移転後は廃城となり、使っていなかったであろう。



岩淵古屋敷(中郷町石岡)36.7828、140.7045
石岡小学校北東約300mにある石岡区民会館付近が屋敷跡である。屋敷内を県道10号線が貫通する。
意外だったが大北川に面した平地にあった。標高は16.2m、大北川からの比高は6mである。
大体、城館と言えば、平地にある場合は少ない。

この屋敷の場所が分からなかった。多くは岡の縁付近に立地している。
このため、大北川沿いの岡を航空写真で調べたのだが、それらしい場所がない。
石岡小学校の西の岡が「竹の内」という地名だったのでそこか?
と思って行ってみたのだが、そこは住宅地で何もない。
ここはかつて常磐炭鉱の社宅等があったようだ。
この場所、西の山にある石岡城の麓居館があったのであろう。

この岩淵古屋舗の場所はY氏が特定したのであるが、堀が道路となり、大北川の方向、南側に虎口Aがそのまま残り、松岡地理誌掲載の図と一致していた。
西側、県道10号線の通過する付近にも虎口があったという。

松岡地理誌に描かれる岩淵古屋敷 Yahoo地図の航空写真に写る屋敷跡。真ん中を県道10号線が貫通する。
@県道10号線から見た屋敷内北東部の畑 A南側の虎口跡はそのまま残る。

北茨城市史によると、龍子山城の城主、大塚氏の一族大塚掃部助親成が晩年側室の子助兵衛と生活した場所という。
親成は天正10年(1582)の生まれで、江戸時代初期までここに住んだという。
隠居屋敷だったようである。
その後、助兵衛は伊達氏家臣片倉氏に仕えることとなり奥州に行く。
なお、その6代後大塚三吉の時、明和3年に刃傷沙汰を起こし断絶している。

B北側に残る土塁。手前の畑は堀跡。 C西側の堀跡は道路になっている。

屋敷の規模は東西最大約155m、南北約110mの歪んだ楕円形をし、堀跡は道路になり、北側に土塁Bが一部残存している。
内部は畑と民家そして県道であり、城館が存在していたような感じはない。
この土塁はかつては南側以外を覆っていたと思われる。
単郭の屋敷であり、かなりの規模を持つ。
北側にも虎口があったと思われるが場所がどこか分からない。

豊田城(磯原町豊田)36.7914、140.7283
松岡地理誌では「古館」として記載される。
つまり、名前はなかったのであろう。

場所は北茨城ICの南東約600m、県道22号線の「北茨城IC南交差点」南側「城山団地」の南端部に位置する。
団地の名前がずばり「城山」というのが笑える。そのものズバリである。
←国土地理院の航空写真に写る城址。団地になりほぼ湮滅状態である。
ここは北茨城ICから南に延びる岡の末端にあたる。
この岡はICから団子状になって続き、城のある南端部の岡は盛り上がった地形になっている。

城址の標高は14.7m、周囲の低地からの比高は約10mである。
城の規模は東西約150m、南北約150mである。
ここからは東、南、西方向の眺望が良い。

国土地理の昭和36年の航空写真に写る城址 松岡地理誌に描かれる豊田城(古城)

南には大北川が流れ天然の水堀の役目を果たす。
その対岸には島崎城があり、向き合うような感じである。両者の距離は約1qである。
城址は団地になりほぼ湮滅状態であるが、堀切が道路や通路となって残り、南東端に土壇が残る。
城は土壇がある場所を主郭とし、北側に腰曲輪、東西に帯曲輪を配置した形式であった。
城主は秀郷系の加藤氏と言われる。
前九年の役の頃という。
以後、加藤氏がこの地にいるが、戦国時代の動向は分からない。
江戸時代末期、加藤氏は岡の南下に居住し、郷医をしていた。

@岡の南東端に残る土壇、ほぼ唯一の残存遺構。 A岡南端の切岸。青い民家が城主加藤氏の住んだ場所