水瀬愛宕館(日立市東河内町/常陸太田市西河内中町)

山中を徘徊する自称不審者M氏から、「堀切らしきものがあり、城っぽい」という情報に基づき現地を見て、城郭と確認した物件である。
ただし、城郭とは言っても、物見台、狼煙台兼住民避難所程度の極めて小規模なものに過ぎない。
余程、目が肥えていないとここを城館とは見ないだろう。
その程度の微妙なものである。

場所は常陸太田市市役所から北に里川に沿って、国道239号線を福島県矢祭町方面に約7q、赤レンガで知られる町屋変電所がある。
ここから北西に西河内の谷間が延び、この谷間を行くと、十国峠経由で常陸太田や水府の東染地区に行くことができる。

その谷が里川と合流する場所から北側の尾根が延びる。
尾根の東の山麓に長い歴史を持つ小さな水力発電所「東京発電 中里発電所」がある。
明治40年(1907)に運転を開始し、日立鉱山に電力を供給し現在も現役という110年以上の歴史を持つ国の登録文化財でもある。

この尾根上には日立市と常陸太田市の境界が走っており、尾根の東側が日立市東河内町、西側が常陸太田市西河内中町である。
里川沿いの渓谷、上流も下流も常陸太田市に含まれるのだが、この付近だけは何故か、日立市に含まれる。

なお、所在地の地名「河内」、普通は「かわち」と読む。
一部、「こうち」と読む場合もあるが、ここの「河内」はそうは読まない。
「こうと」「ごうと」と読む。発音と漢字はまず結びつかない。
ちなみに常陸大宮市旧美和村にも「こうと」と読む「河内」があり、そこには「河内城」が存在する。
この読み方をするのはこの程度しか例がないようである。


東山麓、国道239号線から見た館跡

この尾根上の市境に愛宕神社がある。
その神社の地が主郭であり、尾根続きの北側の三角点があるピークと南側の参道に沿った部分が城域である。

神社のある場所の北側のピークに三角点があり、国土地理院の地図では255.2mと表示されている。
さて、ここに行くにはどう行くべきか?
M氏は西側山麓にある天満神社付近から登ったそうだが、藪で難儀したという。
東下の日立市に属する水瀬地区から登るのがいいのではないかとのことだった。
しかし、その登り口が分からない。

ちなみにその付近の里川の標高が67m、川からの比高は200m弱、若干、上まで車で行けたとしても比高は150mほどありそうである。
比高150mって結構きつい。
疲れたくはない。
本当は瞬間物移動装置かヘリコプターがあればいいのだが・・。

地図を見ると北西側に尾根を横切るように道がある。
この道の尾根上部分にかかる場所に車を置いて、尾根を歩けば?アップダウン少なく神社まで行けそう・・・という安易な発想し実行する。
このルートだと標高240mと250mの間をアップダウンするだけで到着するはず・・・。
でも現実はそんなものではない!甘い!地図には藪はない。
現実は違う。篠竹地獄である。しかも道も当然ない。(あったかもしれないが既に消えている。)でも、これはいつものこと。
慣れっこである。

@これは鞍部を横切る道か?堀切か? A三角点があるピークは北を守る場所だろう。 B主郭背後の細尾根、けっこう怖い。

尾根を歩いて行くと堀切のような場所@に出た。
後から考えればこれは鞍部を横断する道だったかもしれない。
あるいは堀切を鞍部を横断する道に改変したものかもしれない。

そこを抜けると三角点があるピークAになる。
ピークの北は崖である。覗き込んだら頭の中から何かが崖下に落ちて行ったような・・・。
ここは主郭の背後を守る場所のようである。

三角点のあるピークから南に林が見える。そこが主郭である愛宕神社である。
そこまでのルートが怖い。幅1mにも満たない細尾根Bが50m以上続く。
一度、高度差で10m以上細尾根を下り、再度登って標高253mの愛宕神社の地に至るのだが、細尾根の両側が崖状なのである。

この地形、自然地形と思われるが、防御力最強である。崖が巨大堀切、細尾根は土橋に相当するだろう。
この地形、地質が砂岩質で風化してできたようである。
このため、尾根上も粒の粗い砂が多く滑る。
砂に足を滑らし危うく崖に落ちそうになる。

主郭である神社の地Cは、20m×15mほどの平坦地、北側が土壇状になり石の社がある。
ここからは東下の里川方面の眺めは良い。(↓)
西側、西河内方面は木があって見えない。

主郭から見た東下を走る国道239号線

神社の地から南側に参道が下り、その参道が曲輪である。
鳥居のある場所は長さが70mほど、幅8mほどの平坦地であるが、ここは曲輪であろう。
この先に2重堀切D、いや堀切跡がある。

しかし、堀切部は参道にしたため、参道がくぼんだ程度の状態になっているのみである。
竪堀部が明確であることからかろうじて堀切と判断できる。
さらにその南側にも堀切跡Eがある。

C主郭の愛宕神社、綺麗に整備されている。 D参道にある二重堀切跡 EDのさらに南にある堀切跡

その先にも堀切のような場所があるが、ここは参道を整備した時にできたものか判断はつかない。
この程度の遺構であるが、驚いたのは神社境内や参道がかなり整備されていることである。

だいたい田舎の山にある小さな神社は、過疎化が進んでほとんどが管理もされず藪化したり、廃墟になっていることが多い。
そんな状態を予想していたが、ここはかなり高い山の上なのに藪が全くなく、平地にある神社並みの管理状態だった。
東下の麓の水瀬(みつせ)地区の住民が管理しているらしい。
一方、西に下る西河内方面からの道は荒れているらしい。

このため、発見者Mと相談し、神社の整備をしている水瀬地区の方々に敬意を表し「水瀬愛宕館」と仮称することにした。
山頂部がこの状態に管理されているので参道が下る山麓までの道も歩きやすいものではないのかと思われる。
ここに来るには麓からこの参道を上がるのがベストだったと思われる。

さて、この城の性格であるが、先にも述べたように物見台、狼煙台兼住民避難所程度の小規模なものである。
里川沿いの交通と西河内館方面からの交通を監視できる場所にある。
当初は奥まった場所にある西河内館の里川方面監視用の出城ではなかったか?
そうとすれば、この地方が不安定だった山入の乱の時期のものだろうか?

当然、地区に危機が迫った場合、山麓の住民はここに避難することになっていたのであろう。
とりあえずここに退避すれば、当面の危機は回避できる。

ここも危険になったら山伝いに逃げれば命は何とかなりそうである。
果たして、ここに住民が避難したことはあっただろうか?
あったとすれば山入の乱の時に弱体化した佐竹氏の領土を狙い、奥州の蘆名、白河結城、岩城、伊達の軍勢が里川沿いに侵攻して「深荻の戦い」が展開された延徳元年(1489)の時だろう。
その時、深荻で佐竹軍を破り、この山の裾野まで奥州勢は侵攻するが、この付近で佐竹氏の包囲攻撃を受けて、最後は国見山で奥州勢が壊滅したと言われる。

その後、この地は佐竹氏の支配が安定し戦乱に巻き込まれた様相はなく、平和であったようである。
この城が戦国末期まで機能していたとすれば、奥州方面の情勢を常陸太田城まで伝える里川沿いの狼煙リレーの中継点の1つだった可能性があろう。