大草砦(大子町中郷)
大子のもっとも大きな城郭は町付城であり、この城が白河結城氏の大子地方(依上保)支配の拠点であったと言い、家臣の深谷氏がいたという。
その機能は金山支配が最大の目的であったと思われる。
しかし、城は佐竹氏に奪われ、大子地方も佐竹領となり、町付城は佐竹氏の大子支配の拠点として、家臣の荒蒔氏が城主を務めた。

この白河結城氏から佐竹氏に支配が移る段階で鏡城の攻防等が行われた記録はあるが、町付城の攻防についての詳細は不明である。
2019年、町付城の南側に町付向館が確認された。

その構造を見ると町付城を威嚇するような構造であり、これが町付城奪取を狙う佐竹氏の付城ではなかったかとの推論が生まれた。
その後、不審者さんからもたらされたのが町付城の北に位置する山にも城があるとの情報であった。
その情報を元に地元の益子さんに偵察を依頼した結果、城館と思われるとの報告があった。

南側、町付城側から見た大草砦、山から町付城内が見える。 西側、中郷川越に見た大草砦

北側にも城が存在するなら南北に付城を置いて町付城を威嚇し、無出血で城を奪取することを意図したのではないかと推察される。
2019年11月17日、その城に確認に出向いた。

その城のある山は町付城の北約2qにある標高337mのピーク(36.860、140.3577)である。
この山、「旗鉾山」と言うそうである。名前からして城を指す名前である。
ここに旗を林立させて町付城を威嚇したのだろうか?


砦、南下の尾根鞍部にある巨大石仏。
高さは2mほどある。
覆い屋は崩壊しかけている。

東に吉沢川、西に中郷川が流れ、南端で両川が合流するや川に挟まれた山塊のやたら目立つピークである。
西側の中郷川からは比高が約160m、ピークからは中郷川の谷の先に町付城が見える。(現在は木があって見えない。)

この山に県道196号線沿いにある鈴木製茶の工場脇から西側から延びる林道に入り、集落を過ぎた付近に東の尾根筋にから延びる道を延々と登ぼる。
この道はこの山塊の尾根に出、さらに東の大草地区に下る。その標高284mの尾根部から北に聳える急傾斜を比高で約50m登ると城址のあるピークに至る。

なお、この尾根には巨大な石仏がある。どうしてここにあるのか?
下から担いで上がるには重すぎる。この場で作った可能性もある。この山、岩が多いので大きな岩を見つけて彫った可能性もある。
いずれにせよとんでもない手間がかかったであろう。

この尾根から北に聳える急傾斜を登る。斜度は35°くらいあるだろう。
木にしがみ付きながら登らないと滑落する危険性がある。
しかも足元は砕けた岩の破片がゴロゴロしており滑りやすい。
このキツさは常陸大宮市の下桧沢向館、常陸太田市の白羽要害以来である。

砦南側斜面、ほぼ45°の傾斜。滑ったら滑落の恐怖。 山頂の砦主郭部に建つ祠。ほとんど自然状態。

へべれけ状態でようやく山頂にたどり着く。一見、普通の山の山頂とそれほど変わった感じはない。
頂上には石の祠が2つあり、その周辺は比較的平坦であるが、周囲は緩斜面、どこまでが曲輪と言えるか、非常に悩ましい。
約40m×20mの範囲が主郭部だろうか。

そこから北東側に尾根が延び、祠から約50m進んだ場所に堀切がある。祠からは約5mほど下、幅は10m、幅は2m程度であり、かなり埋没した感じである。
この堀切が城である唯一の物証である。
たったこれだけの防御施設であるが、堀切のある尾根も細尾根である。
周囲の急傾斜を考えれば地形のみで城として成り立つと思われる。
岩がゴロゴロした急斜面を登るだけで大変である。
しかも石が豊富な山である。
上から石を落とせば簡単に敵を撃退することが可能である。

北東に延びる尾根にある唯一の遺構である堀切。 堀切西側は竪堀となって下る。

簡素なものであるが、遺構、地名、立地から考え、町付城を意識した城と言えるだろう。
南北に付城を置いて町付城を威嚇し、城を奪取することを意図したと考えるのが妥当であろう。

なお、下山して来た道を戻って帰ろうと思ったが、そもそも山斜面に道などなく、方位が少しずれた方向に降りてしまい、途中で立ち往生、強引に下ると道に出た。
その道を下ると麓に辿り着けるのだが、何と山の反対側、東側の大草集落に出てしまった。
このため、南側の吉沢川と中郷川の合流点まで歩き、そこからまた中郷川沿いの登山口まで歩いて北上する無駄をしてしまった。
たった堀切1本にかけた時間は約2時間である。
それだけのコストパフォーマンスがあるかといえば「ない。」
しかし、マニアにはコストパフォーマンスは関係ない。
でも、俺はもう二度と行かん!

町付向館(大子町町付)

この城郭も大子在住の方からの情報で知った城である。
町付城から直線距離で約500m、八溝川を越えた南の対岸の山が城址である。
山の標高は227m、麓の八溝川の標高が147mなので比高は80m、山は東西に長く延び、北側、八溝川に面する部分は崖状になっており、南側も急勾配である。
そのような東西に細長い山の東端部のピーク付近が城域である。

西側、八溝川にかかる黒沢橋から見た城址(左端の杉林) 北側、町付城下から見た城址

城には東側にある柵で囲まれた畑の作業小屋の南側から尾根が延びているのでこれを登ればよい。
軽トラならこの小屋までは来ることができるが、そこまでの道が北東端部から延びているが非常に分かりにくい。

このため、管理人は黒沢コミニュティセンターの駐車場に車を置き、西側からチャレンジした。
まず、西の山続き部を確認するが、城郭遺構っぽい場所はあるが、断言できず、尾根を東に歩いて行く。
尾根上にはピークがいくつかあり、ここか?と期待して頂上に登るが空振りの連続、シロシロ詐欺物件か?と疑心暗鬼になりながら歩いて行くとようやく堀切Cに行きつく。
これで詐欺物件ではないことを確信する。

@南の尾根を登ると曲輪群Wの段々が目の前に。 A曲輪群Wを越えると堀切Aが現れる。 B主郭部西端の曲輪Tが最高地点

話を東に戻して・・・小屋南の尾根を西に上がっていくと、明確な切岸を持つ段差3mを持つ4つの曲輪がある。
最上階の曲輪Vは長さ32m内部は緩く傾斜するが、その西端に堀切Aがある。
幅は3mほどであるが、西側にそびえる切岸は鋭く、高さは約4mある。そこを登ると主郭部である。

3段ほどの小曲輪を経ると径15mほどの曲輪Uになる。
そこから40mほど西にある20m×10mほどの曲輪Tが最高部になる。
この曲輪の西下約4mに堀切Bがあるが、切岸は崖状である。
さらに曲輪Xを経て約3m下に堀切Cがある。ここが城の西端である。

C 主郭Tの東側に10状ほどの細長い帯曲輪Vが並ぶ。 D 帯曲輪の中には横堀、竪堀を持つものも。
  排水路だろう。
E 主郭Tの西下4mに堀切Bがある。

一方、曲輪TとU間の北東側の斜面には高度差約30mに渡り段々状の帯曲輪Wが10状ほど確認される。
長さは約50mほどある。
幅は犬走り状の細いものから、5mほどの幅を持つものもある。
切岸は堅く締められしっかりしている。
一部は横堀状になっているが、これは排水路であろう。

F堀切Cは埋没が進んでいる。 Yを西に降りると鞍部になる。尾根上は結構広い。 尾根西にはこんな場所も岩山には何があった?
尾根には堀切跡と思われる窪みがあった。

北側の斜面部は竪堀状になっている。末端部は孟宗竹の倒竹が行く手を塞ぎ確認できないが、平坦地が北東下にあるようである。
そこも城域の可能性があるが確認できていない。

ここが主体部であるが、底辺長さ約150m、高さ約100mの三角形をしていると推定される。

↑ 曲輪Tから北を見ると町付城の内部が丸見えである。

町付城は丘上の平城であり、内部が広く大子支配の政庁機能を有していたものと推定される。
町付城の標高は175mであるので、曲輪Tからは50mほど低い。
八溝川という天然の水堀が間にあるが、城内を見下ろされるのは非常に不利である。
それを防ぐためこの城を置き、西側を守る荒蒔城とともに運用したのではないか、あるいはその逆に白河結城氏が支配していた町付城を奪おうとする佐竹氏の付城だったかもしれない。
後者の可能性としては、段々状の曲輪群が挙げられる。
ここは町付城からよく見える。
ここに旗を林立させれば威圧効果は抜群である。
それがあった時期とすれば、佐竹氏の大子進行が活発し、鏡城攻防戦が展開された後の天文年間後期(1540ころ)であろう。

似たようなコンセプトを持つ城に群馬県長野原町の丸岩城がある。丸岩城はまったく防御に関係ないような面に帯曲輪を造っている。
ここに旗を林立させ、敵が北を通る大笹街道を通る場合の威圧牽制効果を狙ったものらしい。
もちろんそんなこと考えるのはあの真田昌幸さんである。

なお、堀切Cの西に尾根が続き、いくつかのピークがある。
その尾根伝いには明確な城郭遺構は確認できない。
しかし、物見を置いてもよいようなピークや尾根道に堀切跡のような場所も見られる。