町付向館(大子町町付)

この城郭も大子在住の方からの情報で知った城である。
町付城から直線距離で約500m、八溝川を越えた南の対岸の山が城址である。
山の標高は227m、麓の八溝川の標高が147mなので比高は80m、山は東西に長く延び、北側、八溝川に面する部分は崖状になっており、南側も急勾配である。
そのような東西に細長い山の東端部のピーク付近が城域である。

西側、八溝川にかかる黒沢橋から見た城址(左端の杉林) 北側、町付城下から見た城址

城には東側にある柵で囲まれた畑の作業小屋の南側から尾根が延びているのでこれを登ればよい。
軽トラならこの小屋までは来ることができるが、そこまでの道が北東端部から延びているが非常に分かりにくい。

このため、管理人は黒沢コミニュティセンターの駐車場に車を置き、西側からチャレンジした。
まず、西の山続き部を確認するが、城郭遺構っぽい場所はあるが、断言できず、尾根を東に歩いて行く。
尾根上にはピークがいくつかあり、ここか?と期待して頂上に登るが空振りの連続、シロシロ詐欺物件か?と疑心暗鬼になりながら歩いて行くとようやく堀切Cに行きつく。
これで詐欺物件ではないことを確信する。

@南の尾根を登ると曲輪群Wの段々が目の前に。 A曲輪群Wを越えると堀切Aが現れる。 B主郭部西端の曲輪Tが最高地点

話を東に戻して・・・小屋南の尾根を西に上がっていくと、明確な切岸を持つ段差3mを持つ4つの曲輪がある。
最上階の曲輪Vは長さ32m内部は緩く傾斜するが、その西端に堀切Aがある。
幅は3mほどであるが、西側にそびえる切岸は鋭く、高さは約4mある。そこを登ると主郭部である。

3段ほどの小曲輪を経ると径15mほどの曲輪Uになる。
そこから40mほど西にある20m×10mほどの曲輪Tが最高部になる。
この曲輪の西下約4mに堀切Bがあるが、切岸は崖状である。
さらに曲輪Xを経て約3m下に堀切Cがある。ここが城の西端である。

C 主郭Tの東側に10状ほどの細長い帯曲輪Vが並ぶ。 D 帯曲輪の中には横堀、竪堀を持つものも。
  排水路だろう。
E 主郭Tの西下4mに堀切Bがある。

一方、曲輪TとU間の北東側の斜面には高度差約30mに渡り段々状の帯曲輪Wが10状ほど確認される。
長さは約50mほどある。
幅は犬走り状の細いものから、5mほどの幅を持つものもある。
切岸は堅く締められしっかりしている。
一部は横堀状になっているが、これは排水路であろう。

F堀切Cは埋没が進んでいる。 Yを西に降りると鞍部になる。尾根上は結構広い。 尾根西にはこんな場所も岩山には何があった?
尾根には堀切跡と思われる窪みがあった。

北側の斜面部は竪堀状になっている。末端部は孟宗竹の倒竹が行く手を塞ぎ確認できないが、平坦地が北東下にあるようである。
そこも城域の可能性があるが確認できていない。

ここが主体部であるが、底辺長さ約150m、高さ約100mの三角形をしていると推定される。

↑ 曲輪Tから北を見ると町付城の内部が丸見えである。

町付城は丘上の平城であり、内部が広く大子支配の政庁機能を有していたものと推定される。
町付城の標高は175mであるので、曲輪Tからは50mほど低い。
八溝川という天然の水堀が間にあるが、城内を見下ろされるのは非常に不利である。
それを防ぐためこの城を置き、西側を守る荒蒔城とともに運用したのではないか、あるいはその逆に白河結城氏が支配していた町付城を奪おうとする佐竹氏の付城だったかもしれない。
後者の可能性としては、段々状の曲輪群が挙げられる。
ここは町付城からよく見える。
ここに旗を林立させれば威圧効果は抜群である。
それがあった時期とすれば、佐竹氏の大子進行が活発し、鏡城攻防戦が展開された後の天文年間後期(1540ころ)であろう。

似たようなコンセプトを持つ城に群馬県長野原町の丸岩城がある。丸岩城はまったく防御に関係ないような面に帯曲輪を造っている。
ここに旗を林立させ、敵が北を通る大笹街道を通る場合の威圧牽制効果を狙ったものらしい。
もちろんそんなこと考えるのはあの真田昌幸さんである。

なお、堀切Cの西に尾根が続き、いくつかのピークがある。
その尾根伝いには明確な城郭遺構は確認できない。
しかし、物見を置いてもよいようなピークや尾根道に堀切跡のような場所も見られる。