須ヶ田館と境松峠(常陸大宮市上伊勢畑)
常陸大宮市の旧御前山村の那珂川南岸、栃木県茂木町との境は山が崖となって那珂川に落ちていく。この落差150〜170mもある。
那珂川北岸には国道123号線(茂木街道)が通り、こちらがメインの街道筋である。
そして南岸にはバイパスの街道が通る。現在は崖下を県道212号線が通るが、この道は狭くて曲がりくねり、落石のリスクもあり怖い。
江戸時代まではこのバイパスは片倉山の北側の境松峠を通っていたという。

この常陸側の入口にあるのが、天照皇大神宮
である。
そしてその裏、西側の標高163mの山に岩戸砦がある。
その岩戸砦、西端が堀切Dで仕切られる。

そして、その西側は緩やかな起伏の斜面になっている。
岩戸砦を調査した時はこの西側の緩やかな部分はそれほど注目しなかった。

ここの緩やかな斜面、雑木林と小竹が生えているが、2000年位まで法ヶ作牧場だったという。
ここで牛が草を食べていたのか?
その部分、よく見ると城郭の切岸と思われる段々があるとの指摘があった。

↑北側、那珂川北岸国道123号線から見た須ヶ田館(中央の山)、左の山は岩戸砦

このため、2022年4月に再訪した。
確かに、かなり不明瞭で曖昧な部分があるが、段々状になっている。@〜C

非常に不明瞭であるのは、ここが牧場であったためか、あるいは陣城程度の臨時的なものだったため普請が甘いことが考えられる。
ここも城館となると岩戸砦と一体の城館であり、岩戸砦はもっと広かったことになる。
一応、ここを字名を採り「須ヶ田館」とする。

@山頂部は平坦で広い。標高は160m。
A山頂東側の曲輪内も平坦である。

岩戸砦と総称すれば、大字名と採り「上伊勢畑要害」と称すべきだろう。

しかし、この「須ヶ田館」、西側の城の端、城外との境が確認できないのである。
普通は堀などで仕切られるはずだが・・・。

B中央部が窪み、虎口のようになっているのだが?
分からん!
C南側の尾根にある腰曲輪。 D岩戸砦(右側)との間の堀切

牧場となって破壊されている可能性もあるが、現地を見た限りでは元々境目にあるべき堀等が存在していなかった可能性もある。
埋めた痕跡が確認できない。

長倉城攻防戦の陣城とすれば、敵の方向は東側、しかも味方は大軍、背後の西側から襲われる可能性がないのでこれでも問題はなかったのかもしれない。
ともかく、西側は栃木県境の境松峠まで広い尾根がだらだらと続く。
かつては草地であり、牛が放牧されていたのか?
現在、この部分、小竹が密集し、竹をへし折りながら・・・歩くのに難儀する。
これらは牛糞肥料の賜物か?
この部分も陣城の一部だったのかどうかは分からない。

境松峠
西端の境松峠、標高は170m、ここは常陸国と下野国の県境であり、その目印として松があり、「境松」と呼ばれていたという。
峠の名はそこから来ている。
ここに二基の馬頭観音があったが、今は東の麓、天照皇大神宮前近く県道212号線脇に移転され保護されている。

↑西側茂木町側から見た境松峠(鞍部付近)、右のピークが片倉山、左のピークの東側にメノウ鉱山跡Bがある。
栃木側は急斜面である。
その境松峠であるが、これがまた城っぽい。

@峠から東に下る古道、ほとんど横堀である。
A峠南側の平坦地、柵を巡らせば曲輪である。

B峠北側のピーク付近の大きな窪みはメノウ採掘穴という。 C 北側181mのピーク、南東方向以外がよく見える。 Dピーク北東は崖が続く。

陣城として使うなら、かなり安全性が高く、大勢の人間を収納できる。
あるいは住民の避難場所であったかもしれない。
街道はまるで横堀@である。
峠付近は段々状になっており、会津檜原の葦名氏が伊達氏の侵攻を防ぐために街道を取り込んだ砦として整備した「鹿垣」と良く似ているのである。

実際、ここを峠道を取り込んだ城のような役目で使った可能性がある。

なお、峠の北側、標高181m付近には段々状の場所Cがあり、大きな穴Bがある。
この穴、火打石であるメノウを江戸時代に採集した鉱山跡とのことである。

EDから見た北西下を流れる那珂川、比高は170m! 南の片倉山193m山頂、特に何もない。眺望最低。 境松峠にあった馬頭観音(麓に移されている。)

一方、峠の南にも平場Aがあり、さらに南に向かうと片倉山に行けるが、途中は細尾根となり、片倉山と境松峠は軍事的なつながりはないと言えるであろう。
古道を東に下って行くとかつての牧場の中心部を通り、さらに天照皇大神宮前に下りて行くが、途中、道は小竹地獄や倒木により、道跡を見失うほど荒れ果てている。
江戸時代は盛んに使われていた道であり、おそらく明治時代にも使っていたであろう。

最近までは牧場に通じる道やハイキング道として使われていたようである。
東下には牧場を管理していた民家もあった。(今は廃屋)
道が小竹等に閉ざされ廃れたのは2000年以降だろう。

野口平城(常陸大宮市野口平)36.5612、140.3382
那珂川に架かる御前山大橋から県道12号線を約2.5q北上した野口平地区にある。
城は北東下に緒川と川ノ辺館を見下ろす標高67m、比高約35mの西から張り出した緩やかな山地の縁部に立地する。

↑ 北東下の川ノ辺館から見た野口平城、道路は県道12号線

城の主郭は、南北約135m、東西約60mの平坦地TABであるが、南と東に深さ15〜20mの谷津@が入り、北側は比高約30mの急斜面、西側が山地のため、周囲からは隔離された要害性が高い場所である。
平坦部の真ん中が若干低くなり、東から堀(平坦部の雨水等の排水を兼ねており、谷津を拡張したものであろう。)が入る。
この平坦地は居住性が良く、居館等が存在していたのであろう。

最近までここは畑や養豚場として使われていたため、南側の谷津に沿って入る道が付けられているが、従来は堀Aを介し東から入っていた、あるいは西側の山中を迂回して入ったと思われ、道跡が残る。
主郭を守るうえで西側の山に防御施設の存在が想定されるが、標高82mの地に平坦地Uが存在する。
畑等に使っていたため、改変を受けているが、曲輪跡と思われる。

さらにその北側標高94〜96m地点に物見台と思われるピークCがあり、付近の尾根が土塁状になっている。

佐竹氏家臣、小野崎左近の居城と伝わり、「陣場」と呼ばれ古戦場であったと言う。
のち小野崎左近は野田の綱川館に移り廃城になったという。
なお、本館の北東約250mに川ノ辺館が存在する。
距離と立地から考え、従来は川ノ辺館の詰の城または西側を守る城であった可能性が高いのではないかと思われる。
したがって、築城は鎌倉時代まで遡る可能性がある。
南北朝の騒乱で期に南朝に与して敗れた川野辺氏がこの地から退去した後、小野崎氏が入ったのであろう。

@館の南側の谷津。十分に堀の役目を果たす。 A主郭である平坦地の南側は養豚場だった。
B主郭北側は林である。 C西の山にある土壇は物見台だろう。


金井館(常陸大宮市金井)


ここはもしかしたら行方不明の城、鳥渡呂宇城の可能性がある。
もちろん確証がある訳ではない。
城郭としても半信半疑である。そのため、「可能性がある」ということにしておく。

「鳥渡呂宇」は「うとろう」と読む。
「うとろ」と言う場合もある。
非常に変わった響きである。管理人など「となりのトトロ」を思わず連想してしまう。
山入の乱に係わる合戦の1つに、「永享7年(1434)11月、鳥渡呂宇城に籠った山入勢を小野崎越前守が攻め、足利持氏から感状が出された」との記録(阿保文書)がある。
そこに登場する城である。
しかし、その鳥渡呂宇城がどこにあったかは、諸説あり謎のままであった。

「鳥渡呂宇」は漢字で書かれているが、発音に漢字を当てはめただけのものと思われる。
「うとろう」「うとろ」は違う言葉が訛って聞こえた可能性もあるので、本来は若干違う発音だったのかもしれない。

しかし、この響きに該当するような城がある場所がなかなか見つからない。
山入勢が籠ったというので山入城の近くにあったのではないかと推定もあるが、山入城付近に似たような「音」を持つ地名は心当たりがないのである。
山入勢とは言っているが、山入氏の家臣団ではなく、山入氏側に付いた武家の家臣団であろう。

管理人は笠間市旧内原町の「長兎路(ながとろ)」の響きが似ていると思った。
「長兎路城」という城も存在する。
でも、そこは山入の乱の舞台からは離れてた地である。
山入氏の軍がそこまで行くことはありえそうもないと思っていた。

しかし、それらしい場所が見つかった。
しかも、城郭遺構らしいものもある。それがここである。
場所は国道123号線、金井交差点付近である。ここから北に県道39号線が国長地区に延びる。
山入の乱の主要舞台の1つ、長倉城はここの北西1.8qである。

金井と今は言っているが、昔は「土呂部」「泥部」「道呂部」(どろべ)と言っていたそうであり、北の山から流れ出る沢は今も「土呂部沢」と言うそうである。
ぬかるみが深い湿地帯だったのであろう。
この「どろべ」という響きと「うとろ」、近似性がある。

しかもここの字名「竹の内」である。
これは城郭地名である。多くの要素が鳥渡呂宇城がこの地にあったことを示唆する。
天保年間に書かれた文書に「鳥渡呂宇城は金井にあり」と書かれた書物が存在するそうである。
ここに城郭遺構が存在すれば、それが鳥渡呂宇城である可能性がある訳である。

で、それらしい物件があった。
標高31mの金井交差点の北西の山である。
県道39号線沿いにある小道を山に向かって登って行くと、標高50〜70mにかけて北側に4段ほどの平坦地がある。
その段差は4m、5m、勾配は急であり、これだけを見れば曲輪の切岸@といった感じである。
いずれも南北約70m、東西は最大のもので30mほどある。
最上段部には墓地がある。

昭和50年撮影の航空写真を見るとここは畑だったようである。
その後、耕作が放棄され今では孟宗竹が密集し、今では倒竹で歩きにくい状況になっている。
耕作が放棄されて40年ほどであろうか、ほとんど自然に戻っている。

この段々の平坦地、城郭の曲輪と見ても良い感じであるが、背後の山が無防備である訳がない。
堀切や曲輪等の城郭遺構があるのではないかと思い探索する。
ところが、行けども行けども何もない。ただの山なのである。B

岩櫃城や常陸太田市旧里見の和台館のように背後が険しい山なら背後に回り込まれる恐れがないためそれでも良い。
しかし、ここは険しくはない。
勾配は緩やかである。しかも広い。

栃木県市貝町の「続谷城」が背後が無防備であったが、小居館ならあんなものでもよいかもしれない。

単なる軍勢の宿城や駐屯地ならこれでもよいであろう。
ところが、鳥渡呂宇城は籠城したとされている。
こんなもので籠城はできるとは思えない。

結局、途中で引き返す。(もしかしたらさらに先に何かあるのかもしれないが、・・・)
なお、山の南斜面に曲輪状の段々になっているが、一定間隔で植林がされており、植林に伴うものと判断した。
(放棄状態の墓地があった最下段の平坦地は植林に伴うものではないと思われる。)

城とした場合、西から東に延びる尾根末端部に段々に平坦地を造り出しただけのものに過ぎなく、背後は無防備ということになる。
西側、山側に回り込むのは容易である。こちら側から襲われたらどうにもならない。

長倉城の出城とすれば、長倉城は西側に位置するので長倉城の存在が牽制要素にはなりえるが、長倉城までは遠すぎる。
いくら城郭技術がまだ発達途上の戦国前期でもこれはないだろう。

鳥渡呂宇城であるかもさることながら、ここが果たして城なのかどうかも、今一つ確信は持てない。
城として使ったとすれば、先に述べたように軍勢の宿城や駐屯地としての使用であろう。

@段々状の平坦地の切岸は鋭く城っぽい。竹が凄い。 A南斜面には平坦地があるが、植林に伴うものが多い。
墓地のある場所は植林に伴うものではないようである。
B西に続く尾根のピーク部は平坦であるが、城郭遺構はない。

この遺構(じゃないかもしれないけど。)がある尾根末端の北側にもう1本の尾根がある。
中峰と言うそうである。
この尾根は南側の尾根から派生した尾根であり、小さい。
南の尾根との間は谷津になっており、かつては水田であったが、現在は耕作が放棄され、葦に覆われた荒地になっている。
この中峰にも遺構らしいものがあるというので行ってみた。

尾根を登って行くと、東西30m南北20mの平場があり、さらに2mの段差を経て、20m四方の平場@があり、その西に径6mほどの土壇のようなものがある。

その先は幅1.5mほどの細尾根が15mほど続く。A
両側は崖状、それを通過すると広い尾根が広がり、これが南の尾根の分岐部までだらだら続く。
先端側の平場であるが杉が植林されている。
植林による平坦化ということがあるので疑問だったが、植えられた杉が細い、成長していない。
植林は戦後、盛んに行われたというのでその時期以降のものであろう。
一方、下側の平場に放棄された状態の墓地があった。新しい墓は戦後のものであるが、かなり昔の墓石もある。
このことからここには植林する前から墓があったことになる。

植林に伴う平場ではないということになる。
つまりは遺構の可能性がある。

しかし、ここが城館だったとしても、このスペースに籠れる人数は100人以下だろう。
背後が細尾根であるので後方防備は多少は何とかなる。

@墓地のある平坦地、植林に伴うものではない。 A細尾根から見た土壇、左に竪堀が下る。

西側の尾根続きの部分にも駐留させることは可能かもしれないが、それでも籠城戦を行うにはこれでは不十分である。
この中峰、那珂川の流れる方面の眺望が悪く、単独の城郭としてはあり得ない立地である。
ただし、南の尾根も城郭遺構と仮定して、ここの北側の防備のための施設なら成り立つ。

しかし、西に続いて行く尾根部に何もないのは、この方面が無防備、籠城戦を行う城としては不適切である。
結論としては、ここは城郭の可能性は極めて高い。
しかし、城として使ったのなら、やはり宿城、駐屯地としての使用だろう。
果たしてここが「鳥渡呂宇城」なのだろうか?

野口平沢館(常陸大宮市野口)
野口城が末端にある台地を北に、そして西にカーブしながらたどり県道12号線にぶつかった場所にあるのがこの館である。
那珂川大橋を渡った御前山交差点から緒川方向に県道12号線を北上すると、山にぶつかる。
その山の南斜面部が館跡である。

↑県道21号線から見た東側の館跡の山、この山のある尾根の先端が野口城である。

館跡ではあるが、地元では寺跡と言われている。
城館があったということは知られていないようであった。
ここには泉福寺という寺があったという。

墓石らしいものも残っていると地元の人は言っていた。
確かに南側から登る道は参道だった感じである。

段々の平坦地があり、本堂があったと思われる場所@は約40m四方ほどある。
標高は70m、南下が標高50mなので比高は20mある。
西側に土塁の残痕らしいものがあり、井戸か池の跡のような場所もある。

西下6mにも平坦地があるが、その切岸Aはまるで城のようである。
この曲輪も広く、かつ平坦である。約60m四方ほどある。

さらに西にも段差を置いて平坦地がある。
西側に堀または沢の痕跡があり、その西には養鶏場か養豚場跡と思われる廃墟がある。
ここは領域外であろう。

しかし、本堂のある場所の北側、ただの山なのである。
山の南斜面を段々に加工しただけである。
寺なら南向きであり、境内も広く平坦であり理想的である。

しかし、背後がただの山というのは城としてどうだろうか?
南北朝時代の城であり、平沢氏の居館であったと言う。
南向きであり居住環境は良い。
野口城の後ろを守る出城でもあったと言われる。
あまりに無防備である。
南北朝時代の居館なら戦闘は考慮していなくこんなもので十分かもしれないが・・・。

@寺本堂があったという平坦地 A @の平坦地の西側は高さ約6mの鋭い切岸

攻撃の恐れがない軍勢の宿城、駐屯地なら成り立つが・・。戦闘には使えない。
ともかく、廃城後に寺が置かれたものであろう。