金井館(常陸大宮市金井)

ここはもしかしたら行方不明の城、鳥渡呂宇城の可能性がある。
もちろん確証がある訳ではない。
城郭としても半信半疑である。そのため、「可能性がある」ということにしておく。

「鳥渡呂宇」は「うとろう」と読む。
「うとろ」と言う場合もある。
非常に変わった響きである。管理人など「となりのトトロ」を思わず連想してしまう。
山入の乱に係わる合戦の1つに、「永享7年(1434)11月、鳥渡呂宇城に籠った山入勢を小野崎越前守が攻め、足利持氏から感状が出された」との記録(阿保文書)がある。
そこに登場する城である。
しかし、その鳥渡呂宇城がどこにあったかは、諸説あり謎のままであった。

「鳥渡呂宇」は漢字で書かれているが、発音に漢字を当てはめただけのものと思われる。
「うとろう」「うとろ」は違う言葉が訛って聞こえた可能性もあるので、本来は若干違う発音だったのかもしれない。

しかし、この響きに該当するような城がある場所がなかなか見つからない。
山入勢が籠ったというので山入城の近くにあったのではないかと推定もあるが、山入城付近に似たような「音」を持つ地名は心当たりがないのである。
山入勢とは言っているが、山入氏の家臣団ではなく、山入氏側に付いた武家の家臣団であろう。

管理人は笠間市旧内原町の「長兎路(ながとろ)」の響きが似ていると思った。
「長兎路城」という城も存在する。
でも、そこは山入の乱の舞台からは離れてた地である。
山入氏の軍がそこまで行くことはありえそうもないと思っていた。

しかし、それらしい場所が見つかった。
しかも、城郭遺構らしいものもある。それがここである。
場所は国道123号線、金井交差点付近である。ここから北に県道39号線が国長地区に延びる。
山入の乱の主要舞台の1つ、長倉城はここの北西1.8qである。

金井と今は言っているが、昔は「土呂部」「泥部」「道呂部」(どろべ)と言っていたそうであり、北の山から流れ出る沢は今も「土呂部沢」と言うそうである。
ぬかるみが深い湿地帯だったのであろう。
この「どろべ」という響きと「うとろ」、近似性がある。

しかもここの字名「竹の内」である。
これは城郭地名である。多くの要素が鳥渡呂宇城がこの地にあったことを示唆する。
天保年間に書かれた文書に「鳥渡呂宇城は金井にあり」と書かれた書物が存在するそうである。
ここに城郭遺構が存在すれば、それが鳥渡呂宇城である可能性がある訳である。

で、それらしい物件があった。
標高31mの金井交差点の北西の山である。
県道39号線沿いにある小道を山に向かって登って行くと、標高50〜70mにかけて北側に4段ほどの平坦地がある。
その段差は4m、5m、勾配は急であり、これだけを見れば曲輪の切岸@といった感じである。
いずれも南北約70m、東西は最大のもので30mほどある。
最上段部には墓地がある。

昭和50年撮影の航空写真を見るとここは畑だったようである。
その後、耕作が放棄され今では孟宗竹が密集し、今では倒竹で歩きにくい状況になっている。
耕作が放棄されて40年ほどであろうか、ほとんど自然に戻っている。

この段々の平坦地、城郭の曲輪と見ても良い感じであるが、背後の山が無防備である訳がない。
堀切や曲輪等の城郭遺構があるのではないかと思い探索する。
ところが、行けども行けども何もない。ただの山なのである。B

岩櫃城や常陸太田市旧里見の和台館のように背後が険しい山なら背後に回り込まれる恐れがないためそれでも良い。
しかし、ここは険しくはない。
勾配は緩やかである。しかも広い。

栃木県市貝町の「続谷城」が背後が無防備であったが、小居館ならあんなものでもよいかもしれない。

単なる軍勢の宿城や駐屯地ならこれでもよいであろう。
ところが、鳥渡呂宇城は籠城したとされている。
こんなもので籠城はできるとは思えない。

結局、途中で引き返す。(もしかしたらさらに先に何かあるのかもしれないが、・・・)
なお、山の南斜面に曲輪状の段々になっているが、一定間隔で植林がされており、植林に伴うものと判断した。
(放棄状態の墓地があった最下段の平坦地は植林に伴うものではないと思われる。)

城とした場合、西から東に延びる尾根末端部に段々に平坦地を造り出しただけのものに過ぎなく、背後は無防備ということになる。
西側、山側に回り込むのは容易である。こちら側から襲われたらどうにもならない。

長倉城の出城とすれば、長倉城は西側に位置するので長倉城の存在が牽制要素にはなりえるが、長倉城までは遠すぎる。
いくら城郭技術がまだ発達途上の戦国前期でもこれはないだろう。

鳥渡呂宇城であるかもさることながら、ここが果たして城なのかどうかも、今一つ確信は持てない。
城として使ったとすれば、先に述べたように軍勢の宿城や駐屯地としての使用であろう。

@段々状の平坦地の切岸は鋭く城っぽい。竹が凄い。 A南斜面には平坦地があるが、植林に伴うものが多い。
墓地のある場所は植林に伴うものではないようである。
B西に続く尾根のピーク部は平坦であるが、城郭遺構はない。

この遺構(じゃないかもしれないけど。)がある尾根末端の北側にもう1本の尾根がある。
中峰と言うそうである。
この尾根は南側の尾根から派生した尾根であり、小さい。
南の尾根との間は谷津になっており、かつては水田であったが、現在は耕作が放棄され、葦に覆われた荒地になっている。
この中峰にも遺構らしいものがあるというので行ってみた。

尾根を登って行くと、東西30m南北20mの平場があり、さらに2mの段差を経て、20m四方の平場@があり、その西に径6mほどの土壇のようなものがある。

その先は幅1.5mほどの細尾根が15mほど続く。A
両側は崖状、それを通過すると広い尾根が広がり、これが南の尾根の分岐部までだらだら続く。
先端側の平場であるが杉が植林されている。
植林による平坦化ということがあるので疑問だったが、植えられた杉が細い、成長していない。
植林は戦後、盛んに行われたというのでその時期以降のものであろう。
一方、下側の平場に放棄された状態の墓地があった。新しい墓は戦後のものであるが、かなり昔の墓石もある。
このことからここには植林する前から墓があったことになる。

植林に伴う平場ではないということになる。
つまりは遺構の可能性がある。

しかし、ここが城館だったとしても、このスペースに籠れる人数は100人以下だろう。
背後が細尾根であるので後方防備は多少は何とかなる。

@墓地のある平坦地、植林に伴うものではない。 A細尾根から見た土壇、左に竪堀が下る。

西側の尾根続きの部分にも駐留させることは可能かもしれないが、それでも籠城戦を行うにはこれでは不十分である。
この中峰、那珂川の流れる方面の眺望が悪く、単独の城郭としてはあり得ない立地である。
ただし、南の尾根も城郭遺構と仮定して、ここの北側の防備のための施設なら成り立つ。

しかし、西に続いて行く尾根部に何もないのは、この方面が無防備、籠城戦を行う城としては不適切である。
結論としては、ここは城郭の可能性は極めて高い。
しかし、城として使ったのなら、やはり宿城、駐屯地としての使用だろう。
果たしてここが「鳥渡呂宇城」なのだろうか?

野口平沢館(常陸大宮市野口)
野口城が末端にある台地を北に、そして西にカーブしながらたどり県道12号線にぶつかった場所にあるのがこの館である。
那珂川大橋を渡った御前山交差点から緒川方向に県道12号線を北上すると、山にぶつかる。
その山の南斜面部が館跡である。

↑県道21号線から見た東側の館跡の山、この山のある尾根の先端が野口城である。

館跡ではあるが、地元では寺跡と言われている。
城館があったということは知られていないようであった。
ここには泉福寺という寺があったという。

墓石らしいものも残っていると地元の人は言っていた。
確かに南側から登る道は参道だった感じである。

段々の平坦地があり、本堂があったと思われる場所@は約40m四方ほどある。
標高は70m、南下が標高50mなので比高は20mある。
西側に土塁の残痕らしいものがあり、井戸か池の跡のような場所もある。

西下6mにも平坦地があるが、その切岸Aはまるで城のようである。
この曲輪も広く、かつ平坦である。約60m四方ほどある。

さらに西にも段差を置いて平坦地がある。
西側に堀または沢の痕跡があり、その西には養鶏場か養豚場跡と思われる廃墟がある。
ここは領域外であろう。

しかし、本堂のある場所の北側、ただの山なのである。
山の南斜面を段々に加工しただけである。
寺なら南向きであり、境内も広く平坦であり理想的である。

しかし、背後がただの山というのは城としてどうだろうか?
南北朝時代の城であり、平沢氏の居館であったと言う。
南向きであり居住環境は良い。
野口城の後ろを守る出城でもあったと言われる。
あまりに無防備である。
南北朝時代の居館なら戦闘は考慮していなくこんなもので十分かもしれないが・・・。

@寺本堂があったという平坦地 A @の平坦地の西側は高さ約6mの鋭い切岸

攻撃の恐れがない軍勢の宿城、駐屯地なら成り立つが・・。戦闘には使えない。
ともかく、廃城後に寺が置かれたものであろう。