東野城(常陸大宮市東野)
この城は「Pの遺跡侵攻記」で知った。
常陸大宮市街地より、栃木県の馬頭方面に国道293号線を4q北上すると東野地区、玉川の交差点に至る。
さらに600m進むと、東側に廃ガソリンスタンドがある。
この東側150mに見える比高30mの杉山が城址である。
下の写真は南西側から見た城址である。
この山、南側、東側が谷津及び池になっており、ほぼ独立した山であり、南北2つのピークがある。 実はこの前は数十回は通っているはず。 しかし、その道の脇にこのような驚愕の中世城郭が眠っていたとは・・・。 佐竹氏の城であることは明らかであるが、その佐竹氏の城の中でもトップレベルのものである。 南側のピークにある主郭部は2つの曲輪からなるが、その周囲を一部を除き、横堀が巡る。 さらに北下の鞍部のさらに北のピークに出城を持つ。 構造としては比較的単純であるが、遺構のメリハリが素晴らしい。 よくこれだけのものが風化せず、残っていたものである。 しかし、城の伝承もなく、茨城県遺跡地図にも登録されていなかったのである。 城であることは、明白なのだが・・・。 これはどういう訳か? 城へは廃ガソリンスタンドに車を置いて突入。 南側の谷津部を東に行き、山に突入すると、そこが腰曲輪である。 大手曲輪と言うべきか。突き出し幅は最大50mほどある。 その北側に高さ8mほどの急勾配の塁壁がそびえる。東に虎口@があり、そこを登ると、本郭南下の横堀Aに出る。 幅5mほどの見事なものである。 西側に向かうと土橋Bがある。 この土橋もまったく風化していない。 そして坂虎口が本郭に延びる。 一方、下を見ると、道が下に続き、下の曲輪に虎口Hが見える。 こちらが正式な?大手虎口なのであろうか。 本郭は80m四方ほどあり、内部は3段に分かれている。 南側と東側に一段低く段差がある。 最高部位は50m四方ほどの広さであるが、藪である。 しかし、かつては畑だったようである。 北側5m下にも横堀Cがまわり、西側に向かうと、一段低くなり、さらに横堀Gが西に続くが、本郭の西下では犬走り状になる。 本郭から西下に下るジグザグの道がある。 この犬走りは、再度、横堀となり、先の土橋に合流する。 |
@主郭部南の横堀間に開く虎口。 | A 本郭南下の横堀 | B Aの横堀の西側は土橋となる。 |
C本郭の周囲は一部を除き横堀が巡る。 北側の横堀。 |
D二郭内部はすっきりしている。 | E二郭の南側、東側にも横堀が回る。 |
F 本郭北の堀(左)と土塁 | G 本郭北西側の横堀 | H Bの土橋下の曲輪にある虎口 |
I 本郭北下の鞍部の平坦地から見た本郭。 一段下にあるのが横堀の土塁。 |
J北出丸内部はただの藪の平坦地 | K本郭(右)北下の平坦地、右側に堀がある。 |
一方、本郭北の堀Cは本郭の東に回り込み、その北東側に二郭Dがある。
こちらは60m×30mほどの広さであり、中は雑木林で藪ではない。
東側から北側には横堀Eが回る。
以上が主郭部であるが、主郭部の北が高さ15mほどの急勾配となり、下の鞍部は平坦Kに加工されており、主郭側に堀Iがある。
その鞍部から北のピーク上まで約20m、途中が4段の帯曲輪になっている。
頂上部Jはただの平坦地であり、特段、遺構はない。ここは北方向に対する物見台であろう。
佐竹義篤書状に「烏山の番衆として、初番として野口、東野、高部、小舟の者共を、次番として小瀬、檜沢の衆を差し向ける」という記載があり、
戦国中期、佐竹氏と烏山の那須氏間に緊張状態があり、那須氏に対する監視、軍勢の宿城、集合地として、遠征ルート上に築かれた番城の一つであったようである。
戦国末期まで使われていたようであり、最後の城主は佐竹一族石塚氏系の東野氏であったという。
佐竹に同行し東野氏が秋田に去った時に廃城になったようである。
なお、居館の地は東野城の南側の谷津を挟んだ南側であったという。
航空写真は国土地理院が昭和49年に撮影したものを利用。
左下の道路が国道293号線の旧道。
左の川が玉川である。
Pの遺跡侵攻記を参考にした。
東野北城(常陸大宮市東野)
参考:Pの遺跡侵攻記、余湖くんのホームページ
東野城の北の標高100mの山にある小規模な砦である。
西下を流れる玉川からの比高は約40mである。
一応、堀切などもあるが、小規模なものである。 しかし完存状態にある。 ←は西下の玉川から見た城のある山である。 右の林が東野城である。 東野城の出城として北方を監視する役目があったと思われる。 東野城との間には池がある谷津があり、立地的には分離された関係にある。 むしろ、この山の方が東野城の最高箇所よりも標高が約10mほど高く、ここを占領されたら東野城の内部が丸見えになってしまうので、占拠防止も兼ねて砦としたようにも思える。 この山は南東方向、北東方向から尾根が延びており、玉川の谷に面する西側は急坂になっているが、北側と南側に細い尾根が分岐して下る。 |
|
B南東に延びる尾根の堀切 | C東に延びる尾根の堀切と曲輪 |
その四方の尾根からアクセスが可能であり、それぞれの尾根に堀や曲輪が構築される。
どこからアクセスするのが良いのか分らなかったが、北側の谷津部から登攀を試みた。
かなり急な斜面であったが比較的問題なく山頂部に到達できた。
ここが北に下る小さな尾根であるが、山頂部の下に5段ほどの4m四方ほどの小曲輪Aが確認できる。
山頂部は東西35m、南北15mほどの平坦地@になっており、ここが主郭である。
物見の小屋があったのであろう。
ここから南の東野城側に下る小さい尾根筋に3段の小曲輪が確認できる。
南に延びる尾根は比較的広く、主郭の下側に1段の小曲輪があり、堀切Bがあるが、その先は自然の山である。
この尾根は東野城の東側をまわり、東野館の北側に出る。
おそらくこの尾根筋がこの砦への登城ルートではなかったかと思う。
東に延びる尾根には2つほどの小曲輪と小さな堀切Aが確認できる。
もともと戦闘用の城砦ではないため、この程度の防御施設で十分なのであろう。
東野南城(常陸大宮市東野)
参考:Pの遺跡侵攻記、余湖くんのホームページ
この城、何て名付けて良いのか分らないが、仮称として標記の名前としておく。
東野城の南側の谷津を隔てた南側の標高86mの山にある。
↑は西側から見た東野城(左の林)と南城(右奥の山)
地元ではこの山を寺跡と呼んでいる。
この城の南側は東野城の根小屋地区である。
北風が防げる日当たりが良い場所であり、居住地としては絶好の場所である。
ここに城主(城代)の居館があったという。
集落はその南側の水田より一段高く、水田部には堀であったとも伝えられる。
城はその根小屋地区の避難所のような感じでもある。
でも規模は東西約100m、南北約50mと小さく、根小屋のすぐ裏手であり、遺構にも防御性も余り感じない。
むしろ東野城からはこの山があるため、南方向の眺望が悪いため、物見として築いた可能性が高いと思う。
@平坦な主郭内部、藪!寺それとも櫓があった? | A主郭入口の坂虎口 | B主郭東下の横堀なのだが・・藪で分からん! |
C主郭南下の帯曲輪 | D西側に展開する曲輪にある土塁? |
城は西側に比高約30m間に5段ほどの曲輪を重ね、最高箇所が約40m四方ほどの平坦な曲輪になっている。
ここが主郭であり、切岸も鋭く、この部分はしっかり造られている。
ここに井楼櫓でも建てれば南方向の眺望はバッチリであろう。
西側下の帯曲輪からは約8mの高さがあり、坂虎口になっている。
この部分、東野城の本郭虎口とそっくりである。
主郭の東側約7m下に横堀を置き、南側の根小屋との間に帯曲輪を回すだけの単純構造である。
この横堀がなければ「寺跡」といっても分からないかもしれないが、さすが寺に横堀は城跡に建てない限りないだろう。
E東野城に続く登城路 | FEの西側の切岸を持つ平坦地、何があった? |
この城の尾根の末端部には切通しの道があり、この道が根小屋から東野城への登城路という。
その道の東西も曲輪状になっており、何らかの施設があったと思われる。
また、南側の集落西端を古宿といい、迎賓館のような施設があったと伝えられる。