高沢城2021(茨城県常陸大宮市鷲子)

茨城県北西部の常陸大宮市美和地区、ここは平成の大合併前は美和村と言った。
緒川が流れる谷間に集落が発達しているが、他はほとんど山である。
典型的な山村である。
昔は林業で栄えたが、外材に圧され昔の繁栄はなく、今は少子化もあり過疎が進んでいる。
地区にあった中学校もなくなってしまった。

過疎の地であるが、ここは中世の山城の宝庫である。
大小、13ほどの山城が確認されている。
この地は下野との境目、西に行くと那須氏の領土である。
国境地帯なので城も気合いが入っている。

しかも、城はほとんど改変は受けていない。完存状態にある。
まったく廃城時のままなのである。

それらの山城の場所は薪取の里山や植林として利用されていたようである。
かつては木が植えられて管理されていた所もあるが、燃料は薪から石油に変わり、山は手入れされることがなくなり、藪化が進んでいた。
城の存在も忘れられつつあった。

しかし、それらの山城、ようやく光があたり始めた。
地元も文化遺産としての価値に気が付いたのである。

そのきっかけを与えた1つのきっかけが、当HPなのだそうだ。・・と、地元の人に言われた。
これは非常に名誉なことである。
でも、城の整備、保護活動が始まるまでは10年近くがかかった。

地元では補助金を得て、順次、山城の藪の伐採を行い、一般公開を行った。
一般公開ではかなり多くの人が来て、その関心の高さには驚くくらいだった。

今までに、この地区にあった高部城、高部向館、小田野城、河内城、檜澤城が整備され一般公開された。
管理人も案内人として協力した。

そして、次のターゲットになったのがこの高沢城である。

この美和地区では高沢向館とともに最も那須領との国境に近い場所にある城である。
それほど大きな城ではないが、国境警備の城、緊迫感が漂う。

その高沢城は2020年から整備が始まり、木が切られ藪が払われた。

高沢城に始めて行ったのは2006年11月18日だった。
今回の訪問の15年前である。
その前に2回チャレンジして失敗した。
2度目などは蛇さんに包囲され撤退、止む無きに至った。

藪に埋もれた城だった。
下にその時の写真を基に書いた以前のHP記事をそのまま掲載するが、載せられる写真はない。
藪しか写っていない!

その時、縄張図を描いたのだが、悲惨だった。
篠竹や藪で真っ直ぐ歩けないので歩測で誤差が出る。堀の末端部まで行けない。
曲輪の縁がどちらに延びているか方位が分からない。そのため、曲輪の形もよく把握できない。
野ばらとタラの木が立ち塞がる。
レーザー測長器のレーザーが藪に阻まれ上手く測定できない。
描いてはみたが、今一つ、自信がなかった。

で15年振りに2021年1月31日と4月7日に行った結果は?
しかし、見た光景、全く記憶にない。
どこだここは!
という世界、そこは昔みた城とは別世界だった。

俺が15年前に見た光景、あれは何だったんだ。
ともかく、縄張図描きなおしのため、再測定。
今回はレーザー光を遮るものなし。
レーザー測長機でバンバン距離が測れる。
帰宅してそのデータを整理しそれ基に縄張図を作成。
それが↓の図。


@南東に延びる尾根を登るとまずこの堀切がお出迎え。

A尾根は西に曲がり、少しづつ登りになる。尾根上は広い。 B主郭部東端の堀切 C北西端の堀切に面した土塁から見た主郭。
D主郭部西から南を覆う腰曲輪 E北西側の2重堀切内側の堀はクランク状に下る。 F南西側の堀と土塁

以前の記事 写真の〇番号は上の記事の写真の場所と整合させています。2006.11.18撮影。

高沢城(常陸大宮市(旧美和村)鷲子)

茨城県と栃木県の県境付近、国道293号線を茨城県常陸大宮市側から栃木県那珂川町方向に走り、県境の3kmほど茨城県側の緒川を挟んで西の山にある。
河内城からは、栃木県方向に500m進んだ場所である。
「鳥の子館」ともいう。

仲島集落西の標高310mの山にあり、緒川からの比高は70m程度。
城址のある山は、北西方向から南東に張り出した半島状の山であり、その先端部分に城がある。
城のある場所は、尾根続きの北西方向以外は急斜面であり要害性は優れる。
斜面が急な上、藪がひどい状態で当然、道はある訳がない。

この城は3回目のチャレンジでやっと到達した。
1回目は城巡りを始めたばかりのころであり、藪と急斜面にすぐにギブアップ。
2回目は春に行ったのだが、山中で蛇に包囲され、撤退。

城へは南端の小さな社のある尾根末端から登った。
(ここより西側の大手堀切に出る道を登ったほうが、藪がすこし少ないのでちょっとだけ、楽である。でも勾配は結構きついけど。)
社の上にすでに2段ほどの平坦地があるが、これが城の遺構の一部かどうかは不明。
もし城郭遺構ならこの尾根沿いに登る登城路に係るものであろう。

この社裏の尾根を登って行くと、井戸跡のような窪地があり、南斜面が竪堀状になっている。
さらに15mほど登ると本格的な城郭遺構である堀切@が現れる。
平坦な尾根筋にあるのではなく、かなりの急斜面に堀切がある。
しかし、堀底は倒木により良好に確認できない。
この堀切からは、竪堀が斜面を豪快に下っていく。
この堀切から10m登ると南の物見台に到着する。
径5mほどの平坦地である。
ここから尾根は北側に曲がり、尾根を登るが、途中に3段ほどの高さ1mほどの切岸はあるが、明確な遺構は見られない。
東の物見台から100mほど進むといよいよ主郭部である。
まず、セオリーどおり堀切Aが配置される。
ここから急斜面になり、15m上が本郭である。
途中に2,3段の腰曲輪がある。

本郭は東西20m、南北35mほどの広さで周囲に土塁はない。
ただの藪である。
その北側から西側に3m下に幅15mの帯曲輪Dが回る。
西側にまわると帯曲輪に段差が1mほどがある。
この帯曲輪の縁には土塁があったようであるが、高さは50pほどに過ぎない。
この曲輪は南側が犬走り状に2mほどの幅になり南側の腰曲輪につながる。
その途中、南西に派生する尾根に竪堀を伴う曲輪がある。
帯曲輪から北西方向、7m下に長大な堀切Fがある。

堀切ではあるが、尾根の幅が広いので横堀状である。
長さは30mはある。土塁は両端で櫓台状になり、中央が抉れている。
虎口状であり、門があった感じである。ここが大手であったようである。
帯曲輪からは、この堀切に下りていく道がきちんと残っている。

堀切@ 堀切A 北側の尾根を遮断する二重堀切E 帯曲輪から大手堀切に下りる道
E二重堀切の一重目の堀底。
東側はクランクして竪堀となる。
二重堀切の二重目の堀底。
かなり埋没している。
北の物見台の頂上は
完全な平坦地である。
大手堀切Fの堀底なのであるが
・・埋没が激しい。

この城の主郭部の大きさは直径80mであり、こじんまりしたものである。
しかし、小粒ではあるが、防御が弱い尾根筋や緩斜面には堀切を入れるというセオリーがきちんと守られている、比較的ピリッとした城である。
帯曲輪の北東端には高さ1mほどの土塁がある。
その土塁から下を見ると豪快な二重堀切Eがある。
堀底までは8mほど、天幅は15m。竪土塁と竪堀を伴い斜面を下っていく。
東側は堀がクランクEしており、東側の腰曲輪への通路が見られる。
この部分は見ごたえがあるが、藪である。
この二重堀切の先が北方向に延びる尾根が続き、その先にま
ピークがある。鞍部からは20mほど登る。

ここにも城郭遺構があってもおかしくはない。
そこに城郭遺構があったとしたら、そこが「高沢城上の城」であり、今回見た城は「下の城」ということになる。

・・と思ったのであるが、残念、ただの平場があっただけである。
しかし、この直径8mの平場、人工的である。
ここが北の物見と言って良いだろう。

この城は、新羅三郎義光の子、高沢伊賀守の居城とされている。
子孫の高沢信光は、仏門に入り寺を開いたというが、城も備えていたという。
この城についてはこの程度の記録しかない。
当然、山城であるため、居城ではなく、緊急時の避難城であり物見、狼煙台であろう。
位置的には国境警備にための城であり、河内城とともに小瀬城、高部城などの支城であったのだろう。
なにしろここから西に直線で7kmが佐竹と合戦ばかりしている那須氏の本拠、烏山なのである。
左の写真は国道293号線脇から見た城址である。道路脇に「高沢館」の標柱が建つ。旧美和村は遺跡の標柱をよく建ててくれておりありがたい。
右側の道を入っていくと登り口がある。
写真の山の頂上はちょうど「南の物見台」の場所であり、主郭はその先に位置する。

この城の写真は多く撮ったのだが、藪だらけでどの写真をみても藪しか写っていない。これじゃ遺構が分からないのである。
これじゃ、掲載できないのであるが・・・。とりあえず見繕って。