助川海防城と介川城(日立市助川町)

助川海防城は五稜郭等と並び幕末の城である。
城としては茨城県内で最も新しい城である。幕末に築城または改造された城は、五稜郭、竜岡城、お台場、松前城、前橋城などがある。

城の主郭部は日立工業高校の北側の山である。
南西側から北東に延びる尾根、要害山の末端部分に主郭部を置いているため、太平洋は一望のもとにある。
主郭部の標高は95〜115m。海を監視するには絶好の場所である。

↑ 日立総合病院前から見た主郭部先端の二の丸部分

もともとこの場所は中世、介川城(蓼沼館)という城があったという。
佐竹氏重臣山尾小野崎氏から出た介川(助川)氏が永禄年間に城を築いたものという。

北大門城の城主がやはり小野崎氏系の助川氏であるので、この介川城の助川氏と同族のようである。
日立付近には助川姓が多く、城主一族の子孫であろう。この地の地名が助川であり、他には助川の地名はなく、ここの地名を姓にした一族であり、北大門城の助川氏はここから移った一族かもしれない。
その介川城は現在の公園になっている主郭部がやはり中心部であったようである。

城は典型的な尾根式連郭城郭であり、海防城に改変された現在の姿もこの城の構造を踏襲しているようである。
主郭部は城址公園になっているため、良く管理されている。

しかし、山と海に挟まれた日立市は宅地に適した場所が少なく、宅地化の波はこの山の上にまで及び、北側と西側は住宅が建てられ遺構は湮滅し、本来の広さや縄張りは分からなくなっている。
本丸と言われる場所も本来はもっと広かったと思われる。

この主郭部は100m四方程度の広さがあったと推定され、東端の削平地に養正館@があった。
中世介川城ではここが二の丸の地であったと思われる。
この地は径50mほどの広さを持ち、東側に2段の帯曲輪が認められる。標高は95.6m。
南に下りると鳩石があり、石垣のある階段になるが、この石垣は当時のものではなく公園化に伴うものらしい。

↑ 養正館の地先端から見た日立市街と太平洋。
右下に見える学校が三の丸に当たる助川小学校。


西に向かうと表門跡Aがあり、虎口状になっている。
その前の道は若干窪んでおり、これは中世介川城の堀切の跡であろう。
ここから西側が本丸の領域である。
高さ2mほどの段差の曲輪2つの西に高さ6mほどの切岸が聳え、その上が遠見番所Bである。
北側は宅地となり広さは不明であるが、30m×40m程度の広さだろうか。
その西が1m位高くなり、そこに高さ2m程度の石垣Cがある。
ただし、この石垣、公園化のために造ったまがい物とのことである。

本丸Dも北側が宅地のため、本来の広さは分からない。標高は113.4m。
本丸に西側は尾根続きのため、高くなる。

普通はこの部分に大きな堀切を入れて、尾根筋からの攻撃を防御するはずである。
はたして堀切は存在していたのであろうか。
どうもあったようには思えない。

なお、この尾根筋の先に湧き水があり、その水を城内に引き込んでいたらしい。
本丸の北側は住宅地になっているが、道路部分が低く、堀跡であろう。

本丸の南側に3段ほどの曲輪がある。
さらに日立工業高校の地まで数段の曲輪跡と思われる平地がある。
日立工業高校の敷地を含めてこの付近には家臣の屋敷があったという。

一方、養正館の跡から東を見下ろすと助川小学校付近が一段高く、両側が切岸状Iになっているのが分かる。
そのはずであり、ここが三の丸である。城主の居館があった場所である。標高は53m。

助川小学校の標高は50m程度であり、主郭部はここから60m程度の比高があることになる。
近くで見ると形状は良く分かる。
これこそが確かな城郭遺構である。助川小学校の北側に土塁が残るというが余り良く分からない。
その南側の日立製作所総合病院の地も城郭の一部であったという。
助川城を見ると、近世に整備したのは結局、この三の丸程度ではなかったかと思う。

山上の公園になっている主郭部は中世の城の雰囲気が強い。
特に腰曲輪の置きかたなど中世城郭そのものという感じである。
この部分は中世介川城(蓼沼館)の遺構に少し手を加えただけかもしれない。

それにしても城の西側尾根の防備がほとんど考慮しているとは思えないのはどういうことだろうか。
田中愿蔵率いるザンギリ隊300が山伝いに攻撃して占領しているが、こうもたやすく占領していることを見るとやはり西側の尾根筋に対する防御は考慮していなかったようである。

幕末の城である北海道の松前城も思想は似ており、この城も海防を主眼に置いているが、背後の山側の防御が貧弱であり、土方利蔵の率いる軍が背後から攻撃して陥落している。
松前城も助川海防城も全く同様に落城しているが、これが机上の学問となった軍学の理論で築城した結果のなれのはてであろうか。
実戦経験豊富な中世の縄張りのプロなら絶対こんなかチョンボはしないだろう。
すくなくとも背後に2,3状の深い堀切を置くだろう。
中世介川城には当然、西側の山に続く尾根筋に堀切は存在していたであろう。

@二の丸先端の養正館跡 A表門から本丸方向を見る。
手前の道は堀跡と思われる。
B本丸東端の遠見番所跡
C本丸南下の帯曲輪と解説板 D本丸の御殿跡 G主郭部先端の櫓台、右が松ぼこ門跡
H主郭部北尾根の主郭部との間の堀に降りる
虎口と土塁
I三の丸、御館屋敷北側の切岸、
跡地は助川小学校。
主郭部から見た日立総合病院の地も城域。
右の駐車場が矢場跡

城が築かれた経緯と城の歴史は以下のとおりである。
江戸時代末期になると日本近海に捕鯨を目的に外国船が姿を見せるようになり、常陸でも文政5年(1822)川尻浜から出航した漁船が外国船を目撃しており、翌年、会瀬浜の漁師忠五郎が捕鯨船に出会い乗り移っている。

さらに文政7年5月大津浜に食料を求める異国人12名が上陸するという事件があった。
これらの事件は水戸藩に強い警戒心を抱かせた。
それ以前より、水戸藩は海からの外敵の侵入に備えて、那珂湊、水木、磯原の三ケ所に海防番所を置いており、郷士を海防陣屋に詰めるよう義務づけていた。

このような状況の中で斉昭が文政12年藩主となる。
彼は海防陣地に藩士、郷士の土着、農兵の組織とその訓練法を制定するとともに尊皇攘夷を藩運営の軸に据える。
彼は海防を重視し、会瀬浜に近い助川村の高台に海防城を築くことに決定した。

しかし、新期の築城は禁じられていたため、天保7年、水戸藩では海防の為の屋敷構えの陣屋を築きたいと幕府に申請し、許可を得る。
そして1万石の知行を持つ、家老山野辺兵庫頭義観を水戸藩海防惣司に任命する。
城は兵学者山国喜八郎が縄張りを担当し、工事が行われる。
規模は敷地が21万坪もあり、本丸、二の丸、三の丸まであるうえ、物見櫓、教練場、米蔵、武器庫、武器製造所、弾薬庫、家士住宅、教育のための養正舘も備えており、陣屋レベルのものではなく完全な城である。

天保7年12月山野辺義観が入城する。
城の完成はその5年後の天保12年であった。部下は247名おり、一万石の大名よりも多かったという。

なお、この山野辺家は、最上義光の四男義忠が起こした家である。
山野辺城主となったため、山野辺姓を称したという。
しかし最上騒動で最上家が改易されると連座して浪人し、水戸藩初代頼房に招かれ水戸藩家老に迎えられる。
以後、水戸徳川家と婚姻関係を結ぶなどして関係を深め、代々家老職を継ぐ。
山野辺義観はその八代目である。弘化2年(1840)山野辺義観は隠居し、家督は長子義正が継ぐが、若年で死去し、義観の次男義芸が継ぐ。

この頃から水戸藩で尊壌改革派と門閥保守派師弟を中心とする諸生派の抗争が激化する。
斉昭藩主時代は改革派が重用されるが、弘化元年斉昭が幕府から謹慎を受けると、保守派が実権を握り、嘉永六年、斉昭が復帰すると、再び改革派が主流となる。
この間、両派の憎しみは増幅する。
井伊直弼が斉昭を失脚させると水戸藩との対立が激化、安政の大獄、桜田門外の変と報復が繰り返される。
徳川斉昭が死去するとコントロールが聞かなくなり、水戸藩内も大混乱に陥る。
長州藩を中心とした尊皇攘夷派が敗れると、水戸藩にその残党が集まり、天狗党が決起する。
天狗党は筑波山で挙兵すると集まる者が増え日光に向かう。
この行動を宇都宮藩が阻止。天狗党は太平山を仮根拠地にし、同調者を集め、軍資金を近隣の富商、富農から献納(強奪)この中に過激な一派ができる田中愿蔵率いるザンギリ隊である。
天狗党は太平山を下りて結城に向かうが、ザンギリ隊は放火を行い評判を落す。
この行為で幕府はついに追討命令を出し、全面対決に様相が変る。

その先方は発生元の水戸藩が命ぜられ、水戸藩では、尊壌派と対立する門閥諸生派の市川三左衛門が実権を握り、諸生派の兵300が出陣し、幕府軍3000合流し、下妻に陣を張り、戦闘となる。
しかし、夜襲により幕府軍は破れ、水戸藩兵も水戸城に引揚げた。
天狗勢は水戸に迫るが、守りを固めた諸生派が勝つ。

一方、水戸藩主慶篤は、支藩の宍戸藩主松平頼徳を名代として水戸に向かわせ、仲介を図るが、ここに市川三左衛門に退けられた尊壌派、武田耕雲斉、山国兵部などの兵が合流する。
これに対して市川三左衛門が阻止。偶発的に戦闘が開始されてしまう。
この頼徳の軍に天狗党が合流してしまい、頼徳や武田耕雲斉は天狗諸生の争いに巻き込まれてしまう。

那珂湊に留まる頼徳は、山野辺義芸に調整を依頼する。
義芸は兵百を率いて水戸に向かうが、諸生軍に阻止される。
ここに諸生軍が助川城に向かったとの急使が来たため帰城するが、石神宿で諸生軍の阻止に遭う。
義芸に天狗の別動隊、大津彦之丞率いる百五十名が助勢し、激戦の末これを破り、大津ら天狗勢と共にようやく助川城に帰還する。
山野辺義芸は天狗党に加担する意思は全くなく、寺門登一郎らの諸生派も、義芸が尊壌派に好意的であり、天狗勢の加勢を受けて戦ったので、天狗党に同調したものととってしまった。
全ては偶然と誤解のいたずらであった。
義芸が天狗勢と助川城に帰った事を知った市川三左衛門は、すぐに助川城の攻撃を命じ、平藩兵300、二本松藩兵500、諸生軍300で包囲する。

一方の義芸は自分が天狗党と見なされていることを知り仰天し、弁明するが聞いてもらえず降伏する。
城主が不在となった助川城は統制がとれず、家臣の多くは逃亡し、天狗勢の大津らは夜陰に乗じて脱出してしまう。
残った者は25人に過ぎなく、交戦するがかなわず落城してしまう。

一方、このころ田中愿蔵率いるザンギリ隊300は、本隊から離れて行動していたが、二本松藩が守る久慈川を上流より渡河し、河原子に陣を敷き付近を略奪放火し、空き城になった助川城を山伝いに攻撃して占領する。
幕府軍は再び助川城を攻撃し、田中愿蔵は西に脱出する。
この戦いで城は焼け落ちてしまう。
助川城は海防目的の城として期待されて築かれたが、海防には何ら寄与することなく、天狗、諸生の内乱の余波を受けてあっけなく歴史から消えてしまった悲劇の城である。
城としての寿命はわずか28年という短命であった。

(以上は2005年8月の訪問時に作成した記事。)


10年後、2015年4月、所用で近くまで来たついでに助川城を再訪した。
今回の目的は前々から疑問に思っていた本丸から南西側に続く尾根に存在していたと推定される堀切遺構の確認が目的である。
しかし、城址間近まで宅地が迫っており確認しずらいことこのうえない。
住宅地をウロウロしていると、へたをすると盗みに入る前の下見をしている不審者に見えるかもしれない。
昼間、犬の散歩を装い家々を覗き情報を取集し、夜、実行に移したという事例を警察から聞いたことがある。
そんなのでやりにくいことこの上ない。

やはり堀切跡と推定される場所は存在した。
一か所は本丸の南西側、裏門があったといわれる場所Eである。
この部分は切通し状の道になっており、本丸側に土塁が存在する。標高は120m、本丸より7m高い。
門そして道路にしたため、従来あった堀切が埋められているが、この場所と考えて差し支えないと考える。

E本丸南西の尾根の裏門の場所が中世介川城の
堀跡と思われる。
F Eの堀切跡を100m南西に行くと堀切跡がある。

ここからさらに南西側は宅地になっているが、ここは本丸の背後を守る曲輪であったのだろう。
100mほど南西に行くと、堀切跡Fがあり、両側は竪堀状になっている。堀切部は埋められている。
助川城は南西の山から水を引いていたというので、木樋を通すため埋めたような感じである。
現在はそこを水道管か下水管が通っているようである。

ここの標高は124m、さらに南西は山となるが、山にも遺構が存在する可能性があるが、先は人家であり、これ以上は行けなかった。
この南西側の遺構、助川海防城の防御施設として使われたのかはなはだ疑問である。

堀切遺構から戻り、本丸北側を下る道路を歩く。
この道路は本丸部のある尾根とその北側の尾根間の谷間にあたり、ここも堀だったようである。
北側の尾根にも遺構はあった可能性もあるが、尾根上まで見事に宅地化されていて今では分らない状況である。
しかし、本丸の北側、堀跡推定地の反対側に土塁を持つ曲輪とその間に開く虎口Hを発見した。

なお、助川城の南にある岡に小平会館がある。
ここも出城であるといわれている。この場所の地名「兎平」である。
「兎」は「塞ぎ」が訛ったものという。ここに城郭遺構が存在していた可能性は非常に高いと思われる。
ここから太平洋まで尾根状の岡が続き、どこかを陸前浜街道が通っていたはずである。
中世介川城は陸前浜街道を抑えるための城だったのだろう。

宮田城(日立市若葉町)
日立市市街地に埋もれほとんど湮滅したといって良い幻の城郭である。
若葉町1丁目、2丁目付近が城跡であったという。
場所としては日立市民会館の北東側、日立1校から宮田川を挟んで南の対岸である。

3郭から成っていたという。
日立一高の宮田川を挟んだ南の対岸が本郭、その南に二郭、三郭があったという。
場所としてはハローワークの西側一帯である。広さとしては150m四方程度である。
しかし、これはどうも納得できない。
宮田川の渓谷を背後に持つ要害性は認めるが、城のあるこの地の地勢は南西側から緩斜面になっているので本郭が二郭、三郭より低い位置になり、対岸の日立一高の地からは郭内が丸見えである。
また、南側の須賀神社付近が高台になっており、ここからも城内が丸見えである。
ここ辺りにも郭があったのではないだろうか。
いずれにせよ北端の宮田川が天然の外堀として利用していたことだけは間違いない。

この宮田川が凄い。この地では渓谷状になり、新宮田橋から見ると川面まで15mほどあり、谷である。
簡単に渡ることは不可能である。
左の写真は新宮田川橋から見た宮田川である。
写真左手が城址である。

太平洋岸沿いの陸前浜街道筋で宮田川が最大の障害である。
城の要害性が確認できるのは今ではこの宮田川の渓谷のみである。
肝心の城域は建物が密集しており、どこがどこなのか良く分からない。
おそらく道が堀であったようであるが、東西の端がどこか良く分からない。
南はさくら通り辺りなのだろうか。
それでも一部、塁の切岸と思われる地形や堀跡のような場所が見られる。
地形から見て、明らかに北からの侵攻に対する守りを重視した城である。
渓谷状の宮田川は交通の難所であり、戦国時代もこの渓谷を渡るのは苦労したであろう。
鎌倉末期から建武の中興の時期に宮田三河介通好により築城。
宮田氏は藤原氏の流れを組み、藤原巨勢麿の叔父、黒麿が常陸国司になって随行した一族という。

宮田氏は神官の家であったらしく大洗磯前神社の神主も務めたという。3代通煕の時、介川村に移り、小野崎氏が入ったともいう。
佐竹の支配が及ぶと佐竹氏の家臣となり、秋田移封に同行してこの地を去った。
(那珂町史の研究第10号、茨城の古城 参照)  
北側に残る地形。道路は堀跡? 北東側に残る堀跡のような地形。 南側に高台がある。ここが本郭ではないのだろうか。