志筑城(かすみがうら市中志筑)

「しずく」と読む。
常磐自動車道千代田石岡ICの北東1.7q、恋瀬川の低地に突き出した南側の岡先端部にある。
標高は24.4m、北の恋瀬川の低地が6m程度であるので、比高は18mほどである。

城址は志筑小学校であった。
かつて休日にここに行ったが生憎、校庭で野球をやっていた。そこにカメラ持ったオヤジが・・・って、話にならない。
そんで、すぐに撤退。そのため、ここの記事は作成していない状態が続いた。

しかし、久々に立ち寄ってみると・・・そこは更地だった。
2011年小学校は移転し、校舎は解体されたのだ。


↑ 西の山にある詰めの城、権現山城から見た志筑城。
(水田に突き出た岡、遠くに見える街が石岡市街)

その後、校舎やプールは解体され、庭園跡などがポツンと残されただけであった。
非常に寂しい光景だった。

小学校の敷地がそのまま城址であり、東西160m、南北最大80mが城址であり、やや二等辺三角形に近い形をしている。
城跡は小学校になっていたため、ほとんどの遺構は失われているが、西側と西よりの北側に高さ1mほどの土塁が残る。
この土塁上に登ると西側、北側は急斜面になっていた。
また、北側には帯曲輪が畑となって残る。

また、東側の民家の敷地も段々状になっており、曲輪跡であろう。
南側は道路になっているが、かつては堀だったのではないだろうか。
さらに南側には二郭が存在していたと思われ、さらにその南は低地となっており、池がある。
この池は水堀の役目を果たしていたのであろう。

@城址は志筑小学校だった。ここは西側の校庭跡。
西側から北側にかけて1m程度の土塁がある。
A北側に残る土塁。左にはかつてプールがあった。 B北下6mに残る帯曲輪は畑になっている。

城の歴史は長く鎌倉初期に築城され、明治維新まで使われたというので750年間も城、陣屋として使われていたことになる。

こんな長い期間使われた城は非常に稀であろう。
現地の解説板によると、
「鎌倉時代源頼朝の家臣下河辺政義(後益子氏)が、養和元年(1181)頼朝に叛いた浮島の信太義広を討ち、その功により茨城南部の地頭となり、この地に城を築いたのに始まる。
この城跡は、三方が深田に囲まれ、南側に自然の掘割を擁した天然の要害で、土塁など鎌倉時代の築城方式を今に残している。
南北朝時代、五代の顕助、国行父子は小田城主治久と共に南朝方に属し、北朝方の石岡の大掾高幹としばしば戦いを挑み、半年間も戦闘を続けたが興国2年(1341)11月小田落城の報を聞き、翌日六代国行は城を捨てて一族の小山氏のもとへ走り、その後も南朝方のために忠勤をはげんだという。
その後廃城となっていたが、慶長7年(1603)佐竹氏の国替えに伴い、出羽国(秋田県千畑町)より当地へ移封となった本堂茂親が志筑藩の領主となって、正保2年(1645)ここに陣屋を構えて廃藩置県まで本堂氏十二代の居城となっていた。」
と書かれている。

C小学校南側の道路は堀跡か? D南に下る道、左は曲輪跡か? 城下町の雰囲気を残す志筑の街並み

なお、下河辺 政義(しもこうべ まさよし、生没年未詳)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。源頼朝の近臣として仕えた鎌倉幕府の御家人。
藤原秀郷の流れを汲む小山氏の一族である下河辺行義の子であり、下河辺行平の弟。
治承4年(1180年)5月、兄の行平が流人として伊豆国にあった頼朝に源頼政の蜂起を知らせている。
8月、頼朝が伊豆の国で挙兵後、寿永2年(1183年)2月、小山氏一門と共に野木宮合戦に参加するが、野木宮合戦で敗れ逃亡。
頼朝が天下を取ると近臣として仕え、鹿狩りや江ノ島遊覧などに随行している。

元暦元年(1184年)4月23日、それらの恩賞で常陸国の南部を与えられるが、義経との関係で領地を没収されているが、後に御家人として復帰している。
子孫は長谷川氏として続き、鬼平犯科帳で知られる長谷川宣以(平蔵)を輩出している。

西の山にある権現山城は志筑城の詰めの城として整備されたのであろう。
南北朝の騒乱で益戸氏と姓を変えた下河辺氏はこの地を去る。
その後、廃城になっていたというが、実際は益戸氏は大掾氏に投降し、その家臣として続いていたようであり、資料にも名前が登場する。

ここは石岡の府中城の西3qに位置するので権現山城とともに府中城の出城として無視する訳はない。
想定される敵は片野城の佐竹家臣太田氏であったのだろう。
その大掾氏も佐竹氏に滅ぼされると佐竹の家臣が入っていたのではないだろうか。
そして関が原後、佐竹氏が秋田に去ると入れ替わりに秋田より本堂氏がこの地に移される。

なお、本堂氏は秋田県南部を本拠としていた小大名であり、慶長6年(1601)、本堂茂親の代に、志筑地方8500石(後に分知により八千石)を領し、志筑城に陣屋を置く。
そして10代親久の時、ここで明治維新を迎える。
新政府に組みしたため10110石に加増され、大名に昇格するが、すぐに版籍奉還で大名の地位を失い志筑藩知事、廃藩置県で志筑県知事となる。
そして1884年には男爵となる。
陣屋が廃された後、門等の建築物は払下げられ、県道138号線沿いの志筑の街に現存する。
そして陣屋跡には志筑小学校が置かれる。
この由緒により志筑小の校章は本堂家の家紋を使用している。

志筑八幡神社には本堂氏が戦場で使用した采配が奉納されている。
県道138号線沿いの志筑の街は志筑陣屋の城下町であり、今でも城下町の雰囲気を残す。
ここに木造十一面千手観音像(昭和38年8月県指定彫刻)を本尊とする朝日山慈眼院千手寺がある。

通称、観音様と呼ぶ。
像は木造金箔塗りの立像で高さは180cmあり鎌倉時代の作と言われる。
堂宇は元禄15年(1702)、領主本堂氏を始めとした近郷住民により再建されたもので、檀家を持たない祈願寺である。
収蔵庫は観音像保護のため、昭和47年5月に建てられたものである。
(昭和4年 千代田町教育委員会) と書かれている。

また、天文15年(1546)の銘の入った五輪塔も遺されている。(左の写真)
さらに街の西の民家の敷地内には「下河辺氏の供養塔」がある。(右の写真)
これは閑居山麓にあったゴボデエショ(御菩提所が訛ったもの)に下川辺氏の供養塔という五輪塔が多く残されており、その1つを移設したものと言う。