折橋清水館(常陸太田市折橋町)36.7135、140.5081
図説 茨城の城郭3に「木の上(きのかみ)館」を取り上げた。
この館、茨城県遺跡地図にもちゃんと城館として登録されている。
しかし、この館、少しおかしい。

尾根突端部の平場が主郭なのだが、山に続く背後に何もないのである。
山側から攻撃されたら一巻の終わりである。
戦闘を考慮しないただの物見の場ならそれでもいいが。
で、背後の山に何かあるのでは?と登ってみたが、やっぱり何もないのである。

それなので図説 茨城の城郭3では「戦闘を考慮した城郭ではない。戦闘を考慮すれば、戦闘用城郭の築城にふさわしい山はいくらでもある。」と書いた。
ところが、「ふさわしい」に該当する城が出て来たのである。

木の上館から谷津を挟み南東約300mにある山である。
谷を挟んで南隣りの山である。
この山の西下には薬師堂がある。
館に行くには薬師堂の北側の谷沿いについた道を歩き、鞍部になった場所にある切通し(ここは堀切?)部から南西に延びる尾根を登る。

その山頂部に東西30m幅7mの細長い平場があり、南側に2本の帯曲輪(犬走り?)が、そして派生する尾根に堀切がある定番のパターンの単純簡潔な城である。
最も明瞭な遺構は西に派生する尾根の堀切である。
北側の道が通る鞍部も堀切と思われる。
尾根上には堀切がもっとあったような感じである。
主郭周囲の斜面は急傾斜であり、要害性は高い。

@ 山頂部は細長い平坦地である。藪、酷! A山頂部西下の堀 B西に下る尾根にある堀切、これが一番明瞭な城郭遺構。
C Bの堀切の先には緩斜面が下る先端に岩がある。
物見か?
D主郭北東側尾根の堀切。 E北東下の鞍部の切通しは堀切を転用したものだろう。

この城こそが本来の木の上館の詰の城なのかもしれない。
単純な構造であるが、地形だけでかなりの要害性である。
一応、西下の集落の名前が清水なので、折橋清水館と仮称する。

この城からは西側は良く見えるが、北方向は木の上館がある山が死角となって見えない。
やはり、木の上館はこの城の死角をカバーするための出城なのであろう。

木の上館(常陸太田市折橋町)

里美の盆地の南端部、国道349号線と国道461号線が交わる折橋の交差点の南東側に見える山にある。
館のある山の標高は250m、下の折橋宿の標高が200mなので比高は50mほどである。

館のある部分は東側の多賀山地から里美の谷に張り出した尾根の先端部に当たる。
この山の北側は急勾配であり、下に川が流れ、この方面からの防備は特に必要としないが、南側は勾配が緩く、多重に段郭が構築されている。
肝心の館であるが、果たしてこれが城郭であるのかどうか疑問が残る。

部分的には明確に曲輪と考えられる平場もあり、切岸もしっかりした部分もある。
また、山の西側斜面には横堀または竪堀と考えられる遺構も見られる。

しかし、城域の半分以上はほとんど自然地形のような感じであり、東の山に続く尾根筋を防御するための堀切もなかった。
館には先端部の墓地から登れそうに思えるが、ここから登ると藪地獄が待っている。
尾根城は側面攻撃に限るのでここは南に迂回して南側の墓地裏から登る。

この墓地も曲輪であったようである。
直ぐに3段ほどの曲輪と考えられる平坦地が見えて来る。
この平坦地は山の南側斜面を途切れ途切れになりながら東に延びている。

その西側に例の横堀とも竪堀とも思える遺構がある。
西側の斜面側に土塁を持っている。
堀幅は狭く、かなり埋没している。
しかし、単なる山道ではない。
田渡城の横堀のような兵員移動用あるいは塹壕といった感じである。

この堀は最高箇所で止まっている。
その東側が一段高く物見台のようであるがほとんど自然地形である。
東の山方向に向かうが藪に行く手を妨げられるが、やはり自然地形である。大きな物見のような岩がある。
鞍部に堀切があると思うがない。非常に中途半端な印象の館である。
少なくとも戦闘を考慮した城郭とは思えない。
築城途上で放棄されたのかもしれないし、折橋宿付近の住民の緊急時の避難場所であったのかもしれない。

折橋の交差点から見た館址。 西側には横堀が巡る。 曲輪は平坦である。この先は藪。

大中寺山館(常陸太田市大中町)36.7440、140.5022
常陸太田市北部里川沿いの里美地区にある。この地区には小さい城館が多く存在するが、本館もその1つである。
場所は白幡台団地の東約600mの標高372mの山である。

↑西側から見た城址のある山、白幡台団地は写真の左側にあたる。
国道349号線からは東に約1kmの距離にあり、南西の麓に泉福寺がある。
国道349号線からの比高は約150mである。
城は南北2つのピークから緩斜面の西側に段々状に曲輪を展開させる形式である。

約100mの距離があるピーク間は鞍部(標高361m)になり、小さな堀切がある。
ピーク間の西側は谷津状である。城の北側、東側、南側は急斜面である。
総じて古い印象を受ける。

南側の標高363mのピーク部から展開する曲輪群は普請が甘いのか、遺構が曖昧である。
この方面は精々、物見程度にしか使っていなかったと思われる。

一方、北側の標高372mのピークAは土壇状になっており西側、南側の谷津部に段差が明瞭な曲輪が確認できる。
北側のピークから西側約50mの範囲が確実な城域であり、それより西側は城外であろう。最西端の曲輪Bには土塁痕がある。
北側のピークから北の山地方面に細尾根が続き、幅約5m、深さ約3mの堀切@で仕切られる。
この尾根筋は本館が危機に瀕した際の退避路であろう。

@城の北東端の堀切。 A@の堀切の南西側にある土壇、城内最高箇所である。
BAの土壇から西に展開する末端の曲輪の前面には土塁がある。 C@−B間の曲輪の南側には帯曲輪が4段ほどある。

現在の白幡台団地の地には城館があり、その詰めの城と推定される。
あるいは全体に普請が甘く、それほどの防御性も感じられないことから、佐竹氏の軍勢の奥州遠征時の宿営地の可能性もあろう。