常陸太田から福島県矢祭町に向かう途中の常陸太田市里美地区、旧里美村は戦国時代、佐竹氏が奥州に進出したルートであるが、
何故か佐竹領ではなく、岩城氏の領土であったという。
多分、佐竹義昭の娘が岩城氏に嫁ぎ、岩城氏は実質的に佐竹氏に支配されてしまうので、その化粧領として存続していたのではないかと思われる。
その支配拠点が小里城であったような気もするが、ここは奥州に進軍する佐竹氏の宿城だったような感じである。
それでも大きな城館ではない。後も小さい城や古いタイプのものばかり、あまり重視されていたような地区とも思えない。
奥州から佐竹氏の本拠を突くには一番の近道なのであるが、この地はほとんど無防備なのである。
そんな里美地区の城をいくつか。

小里城(常陸太田市(旧里美村)小中町)
 周囲が山ばかりの里美の谷にある唯一の平城である。
 国道349号から大子方面に向かう県道22号が分岐する交差点の里川を挟んだ東側に位置する。標高は240mである。
 城の場所は里川が東から西に蛇行して流れ、里川が浸食した河岸段丘上にある。南側には侵食谷があり、3方は川が自然の堀となっている。 

 東側のみは平地である。
城址は一見して城の存在が感じさせないような水田と畑である。

 本郭と推定される場所は土塁が見られ、西側には高さ1m程度の石垣が40mほど続く。
 この付近の土はさらさらしており崩れやすいため、この石垣は土塁の土留め用と考えられる。
 本郭の西側には曲輪があり、里川側は6mほどの急斜面になっている。
 その下には腰曲輪のような段差があり、馬蹄形の張り出しがある。

 城の東側は水田になった平地であるが、堀があったのかは分からない。
城の弱点は明らかに東側である。

このため、東側の山の上に盾の台館とそのやや南方に羽黒山城が存在する。
 この2城は東側の防御と詰城の役目があったと思われる。

 小里城はこの地を占領した岩城氏がこの地を支配するための拠点として築いたと言われ、平城でもあり、防御より政庁的な性格があったものと思われる。

 岩城氏の城の特徴として土塁が郭の内側に築かれるが、この城も同様の形式である。
外城の切岸。高さ5m。 内城西側土塁の石垣。 内城北の土塁と堀跡。 内城内部。

この地から常陸太田までは直線で30km程度しかなく、佐竹氏にとっては脅威であったと思われる。
 戦国後期に佐竹氏の勢力が拡大した時期は、この地は南郷へのメインの通路、棚倉街道が通っている。
 常陸太田から南郷に向かう佐竹の大軍はこの地を通っているはずである。

 ここが岩城領ならそんなことが可能であるのか?
 いつしか佐竹氏に支配が戻ったと考えるのが妥当なようであり、城主に佐竹一族の今宮氏の名も見える。
 里美の谷を支配する政庁、南郷への出撃の際の宿城として使われていたのであろう。
 または、戦国末期、佐竹義昭の娘が岩城氏に入り、佐竹氏に支配されてしまうが、化粧領として名目上、岩城氏の領地となっていたのかもしれない。

盾の台館(常陸太田市(旧里美村)小中町)
 小里城の北東400mの東側から里美の谷に突き出した尾根先端部にある。
 小里城の背後を守る砦である。
標高は280m、里川からの比高は40mである。

 里川に面する先端部は崖状であり、北側も結構急勾配である。
 山自体が階段状に段差があり、各階が曲輪になっている感じである。
(曲輪にするため階段状に加工した訳ではなく、あくまで自然地形であろう。)
 南側のみが比較的傾斜が緩く、この方面から館址に行くことができる。

 南斜面は風もなく、日当たりが良いため茶畑がある。
 この茶畑の裏に小道があり、ここを登る。
おそらく当時からの登城路であろう。

 この部分は谷津状になっている。
すぐ現われる曲輪は墓地になっている。
 いきなり、斜面を崩したような東西に長い曲輪3に出る。
東西40m、南北10mほどか。
 斜面は岩(砂岩質の柔らかい岩)がむき出しである。
この曲輪が大手曲輪であり、正面上が本郭である。
 本郭1には西側を迂回して行くようになっていたようである。
 こちらの方面には広い曲輪がいくつもある。
 西側の尾根先端付近は段郭状に曲輪4等が築かれている。

 本郭は大手正面から西に迂回して登る。中断に小さな曲輪がある。
 本郭は東西70m、南北20mと大きく、内部は平坦であるが、土塁等はない。
 東側に一段低く曲輪2があり、社が建つ。

その東側は一段低くなり、東側の山に続いていく。
 結局、この館も自然地形を利用した段郭構造のシンプルな城館に過ぎず、堀や土塁もない。
 簡潔さは小里城、羽黒山城と似たりよったりである。

  しかし、曲輪は広く、倉庫群を置いていた可能性もある。
 単なる臨時の避難場所にしては曲輪が広すぎる感じがする。
南西下(小里城東)から見た館址。 曲輪3内部 曲輪2 本郭内部。

羽黒山館(城?)(常陸太田市(旧里美村)小中町) 

小里小学校の東側1qの山にある。
本郭には羽黒神社がある。
 この神社の本殿が建つ場所が羽黒山城址である。

 それにしても羽黒山城という名前の城は多い。
この付近でも福島県塙町、桜川市(旧岩瀬町)にも同名の城がある。
 両城は巨大山城であるが、この羽黒山城はすこぶる小さい。

 城のある山は東の多賀山地から里美の谷に突き出た半島状の尾根上にあり、標高300m、比高60mを測る。
 山は結構ずんぐりした形である。

このため、尾根式の城ではなく、結構広い曲輪を持つ階郭式に近い城である。
 城域は100m四方程度と小さい。

里美村史では小里城や大中館は登場するが、この城のことは出てこない。
 地元でも余り城という認識が少ないのではないだろうか?
確かに城としては小さく、城郭遺構も余り明確ではない。
 神社という認識の方が大きいであろう。
 羽黒神社の参道を進むが、主郭部までは300mの距離がある。
 参道は両側よりえぐれた堀底のような道が付いているが、この道は雨で侵食されたものと思われる。
 主郭部手前に2mの段差をおいて3箇所ほど平坦地があり、ここも曲輪であったと思われる。  
西側から見た城址。 本郭北側の土塁。 本郭南側の曲輪間には堀切があり、
土橋がかかる。
本郭東側の堀切と土橋。
それぞれの長さは20、40、40mほどあるが、幅は15m程度である。
本郭手前にも1mほど高い20m四方の曲輪がある。
西側には3mほど高い土壇のような曲輪があり、本郭からは土橋で連絡される。
この部分は塙町の同名の羽黒山城の本郭部に同じ構造のものがある。

本郭は鳥居のある曲輪から4mほど高く、南北60m、東西40m程度の広さがあるが、高さ2mほどの土塁がその内側に30m×25mの範囲でコの字型に築かれている。
 土塁は神社本殿の建設で一部は破壊されているようである。
 この切岸に沿って土塁を置かず、少し内側に土塁を置く形式は岩城氏系の城郭である小里城や車城でも見られるが、これは神社を置いたためと思われる。
しかし、土塁を盛った土分の土砂量、堀切を掘った土を充てたと考えるのが妥当の量である。それならこの土塁は当初からあったようにも思える。
本郭の北側7m下に突き出しが20m程度ある腰曲輪があり北東に派生する尾根にさらに1段の曲輪がある。

東側は幅10mほどの堀切で仕切られ、その間に土橋がある。
 堀切の両側は竪堀状になるが、傾斜は緩い。
 南側は途中から崖状になる。北側は堀の傾斜は緩く、本郭からは堀に沿って土塁が下る。
 堀切の東側は40mほどは平坦であるが、そこを過ぎると緩い下りとなり、さらに50mほど行くと鞍部となる。
 ここに堀切のようなものがあるが、これは道の切通しである可能性もある。

 その東は再び登りとなるが、城郭遺構のようなものは確認できない。
 城の来歴は不明であるが、形式からして岩城氏が小里城とパックで築いたものと思われる。
 非常に古臭く、斜面も緩やかであり取り立てて堅固な防御施設もなく防御も甘い。
 とても詰めの城にはなりそうにもない。
 小里城同様、手抜きをした城という感じである。
 廃城も早く余り使われていなかったように思える。

木の上館(常陸太田市(旧里美村)折橋町)

里美の盆地の南端部、国道349号線と国道461号線が交わる折橋の交差点の南東側に見える山にある。
館のある山の標高は250m、下の折橋宿の標高が200mなので比高は50mほどである。

館のある部分は東側の多賀山地から里美の谷に張り出した尾根の先端部に当たる。
この山の北側は急勾配であり、下に川が流れ、この方面からの防備は特に必要としないが、南側は勾配が緩く、多重に段郭が構築されている。
肝心の館であるが、果たしてこれが城郭であるのかどうか疑問が残る。

部分的には明確に曲輪と考えられる平場もあり、切岸もしっかりした部分もある。
また、山の西側斜面には横堀または竪堀と考えられる遺構も見られる。

しかし、城域の半分以上はほとんど自然地形のような感じであり、東の山に続く尾根筋を防御するための堀切もなかった。
館には先端部の墓地から登れそうに思えるが、ここから登ると藪地獄が待っている。
尾根城は側面攻撃に限るのでここは南に迂回して南側の墓地裏から登る。
この墓地も曲輪であったようである。
直ぐに3段ほどの曲輪と考えられる平坦地が見えて来る。
この平坦地は山の南側斜面を途切れ途切れになりながら東に延びている。
その西側に例の横堀とも竪堀とも思える遺構がある。
西側の斜面側に土塁を持っている。
堀幅は狭く、かなり埋没している。
しかし、単なる山道ではない。
田渡城の横堀のような兵員移動用あるいは塹壕といった感じである。

この堀は最高箇所で止まっている。
その東側が一段高く物見台のようであるがほとんど自然地形である。
東の山方向に向かうが藪に行く手を妨げられるが、やはり自然地形である。大きな物見のような岩がある。
鞍部に堀切があると思うがない。非常に中途半端な印象の館である。
少なくとも戦闘を考慮した城郭とは思えない。
築城途上で放棄されたのかもしれないし、折橋宿付近の住民の緊急時の避難場所であったのかもしれない。

折橋の交差点から見た館址。 西側には横堀が巡る。 曲輪は平坦である。この先は藪。

大中館(常陸太田市大中町) 

常陸太田市里美支所の東1q、保健センターの南側の山が城址である。
 城のある山は東の山地から里美の谷に張り出しており、北側と南側が侵食谷となっている。
 城の西端と考えられる部分11は公園となっており、東屋や植物園がある。
 主郭部はその東側の山であるが、杉林や雑木林であり、下草も多く冬場以外は行きにくい。

 公園の東側に道があり、ここを入ると城址に行ける。尾根を辿ると山の斜面を崩して整形した曲輪10に出る。
 張出部15m、幅は30m程度の広さである。その5m上に曲輪9がある。
 この曲輪は帯状に山裾を東から南に回っており長さは60m近い。
 山の南側は緩斜面であり曲輪群5、6、7が尾根に沿って数段確認される。
 曲輪7は非常に不明確であるが、曲輪間の段差は5m程度あり、曲輪5,6は切岸の勾配は鋭く、曲輪内も平坦でしっかり造成されている。
 幅は15m程度ある。その間の谷間に曲輪群8がある。
 ここも5段程度に段郭になっている。
この部分は北風も防げ、日当たりも良好な場所である。
 主郭部はこの北東側にあり、曲輪4を経て、緩斜面があり本郭1がある。
 ここは直径25mほどの平坦地である。北側及び東側は急斜面である。
 東側にL字状に土塁が形成される。
 そこから北東に尾根が延び20mほど先に物見台3がある。
 ここから北側に尾根が続く。一方、本郭から西側に曲輪2がある。
 この曲輪は長さが30mほどあり、西端で北側に尾根が延び、曲輪がいくつか確認される。
 南側に腰曲輪が3つある。

西側から見た城址。 曲輪6内部。 曲輪7から曲輪5と6を見る。 本郭(曲輪1)東の土塁。

この館については館主等来歴が一切不明である。
 大中付近の土豪の緊急時の避難城ではないかと言われている。
 段郭のみで構成され、北大門城に結構良く似ている。堀切もなく、増して堀もない。
 土塁もごく一部のみである。いずれにせよ室町初期の城であり、戦国時代に拡張整備された形跡は伺えない。