高渡館(常陸大宮市高渡町)

常陸大宮市の市街地中心部である部垂城のあった大宮小学校や甲神社のある岡から北に800m、久慈川に面した低地にある。
この付近は久慈川の氾濫原である低地であり、水田地帯である。
その一角、久慈川に面した微高地上にある。

この付近を流れる久慈川の水面の水面部の標高は20m、館のある場所付近は26mほどある。
その周辺は若干低く、南側の水田部で21m、西側で23m、北側で22m程度である。
標高差はたいしたものではないが、低地ではこの差がモノをいい、館のある付近は久慈川が氾濫してもまったく水がつくことはなかったといわれる。
このため、この付近は集落が発達している。

久慈川は平野部に出ると蛇行が著しく、現在は河川改修で比較的まっすぐが流路になっているが、蛇行の名残が粟原の釣り場や東海村の竹瓦地区などに見られる。
竹瓦地区は輪中集落であり、旧流路に沿って堤防が残り、まるで長塁のようになっている。
当然、輪中集落も河川港の1つであったのであろうが、さすがに堀はない。
この館は城館遺構が東側にU字形に土塁と堀跡が残る。

この点では輪中集落とは違うようである。
土塁は3〜4mほどの高さがあり、堀跡は幅が20m程度ある。
北西端部にも土塁が残痕がある。
南西側の微高地にも南側に土塁があったという。
これは昔の航空写真で確認できる。
規模としては東西100m、南北100mほどの規模があったのではないかと推定される。
堀は南側には存在していなかったと思われる。
それ以外の3方向には巡らされていたものと思われる。

@東側にU字形に残る土塁 B@の土塁の東には堀跡が畑となって残る。

館の性格であるが、久慈川の水運に係わる施設と推定される。
当時の久慈川は現在よりも水量は多く、河川交通が発達していたようである。
ここの上流には山方城、頃藤古館などの河川水運に係わると考えられる城館が存在し、下流には川に(当時は)隣接して石神城があり、海への出口には久慈城が存在する。
部垂城は久慈川の水運で栄えたと言われており、砂金や木材の流通が盛んであったようである。
この館は部垂城の河川港の管理事務所的な役目があったのであろう。
航空写真は国土地理院が昭和55年撮影のもの。

(追記)
高渡館は河岸を管理していた河川城館であるのは間違いないが、2023年に行われた発掘では西側には土塁が確認されず、上の想像復元図とは少し異なるようである。
それにしても異様なものは半月状の土塁と掘である。
あのようなものは戦闘を想定した城館のものである。まるで丸馬出である。

最近の研究では、部垂の乱では利員城が佐竹宗家側の拠点であり、久慈川東岸の小倉城が前進基地であり、多くの監視用の砦の存在が明確になってきた。
伝承によると、佐竹宗家側の部垂城攻撃の軍勢は小倉城から出撃したと伝えられる。
その場合、この高渡館付近を渡河し、部垂城を攻撃するのが最短ルートである。
部垂の乱の最終期、天文8年(1538)の激戦が久慈川付近で展開されるが、主戦場はここより南の前小屋城付近で展開され、双方に多くの戦死者が出ている。

この戦いにこの高渡館が大きく関わっている。
何故、ここが攻撃されていないのか?
そのヒントがこの半月状土塁である。
これこそが、迎撃陣地である。地元によるとこの掘からさらに掘が川側に延びていたようである。移動用塹壕か?
こは渡河してくる佐竹宗家側の軍勢を水際で迎撃するための陣地であろう。
ここを渡河すると損害を受けるのでそれを避けるため、佐竹宗家側の軍勢は下流側を渡河し、前小屋城方面から部垂城を攻撃するルートを選択したのであろう。

想像復元図は水際迎撃陣地を想定して描いてみた。

小倉館(常陸大宮市小倉)
高渡館の久慈川を挟んだ対岸、小倉地区にある。
富岡橋東交差点から国道293号線から分岐した県道165号線を800mっ北上した付近、東側にあたる。
館跡は水田地帯の微高地であり、南側に堀跡が水田として確認できる。
北側の竹林の中に低いが土塁が存在する。
部垂の乱で部垂城に対する付城、陣城だったのではないかと思われる。

南側に残る堀跡

航空写真は国土地理院が昭和55年撮影のもの。

西塩子館(常陸大宮市西塩子)
北塩子と門井を結ぶ県道161号線の沿線に「羽黒鹿島神社」がある。
南側には県道161号線を挟んで「マナゴルフクラブ」がある。
この地の民族芸能、組み立て式農村歌舞伎舞台「西塩子の回り舞台」は有名であるが、この本来の開催元がこの神社という。

そしてこの神社のある場所が館跡である。
館のある山は南西から北東に半島状に突き出した尾根である。
その尾根先端部を利用し、尾根の末端を堀切で分断した尾根式の城郭である。

全長は約150m、館の最高箇所の標高は101m、先端下の標高が70mであるので比高は31m、羽黒鹿島神社はこの尾根の最末端部に建つ。

ここの標高は92m、その羽黒鹿島神社の建つ先端部、勾配が鋭くまともには登れない。
しかも麓からは約20mの高さで聳え立つので威圧感がある。
十分に城の防御施設となりえるものである。
このため、参道は急勾配の石段であり、建物資材を運んだと思われる裏参道もかなり勾配はきつい。

しかし、神社境内は平坦であり、結構広い。
段差はあるが、約50m×約40m位はある。
城だったとしたら、このエリアに100名以上の兵を安全に駐屯させることが可能である。


しかし、館の主郭に相当するのはここではなく尾根が続く南西側にある。
神社社殿から約70mの距離に主郭部がある。
神社社殿が建つ場所より高度は約10m高いが、そこまで行くのは地獄である。
凄まじい孟宗竹の倒竹地獄が待ち構えている。
余程の好き者以外、ここに来る人間はいないであろう。

その主郭部であるが径20mほどの平坦地である。
ここにかつて羽黒鹿島神社があり、廃城後、ここに置かれたらしいが、江戸時代に現在の場所に移転されたとのことであり、以後、ここは元宮と呼ばれていたという。

孟宗竹の倒竹の中に旧参道が横堀状に続いているのが確認できる。
主郭部の南側は急勾配であるが、北側は勾配が緩やかであり、4m下に腰曲輪がある。
そしてこの主郭部の背後、西下約10mに堀切が存在する。
この堀切が唯一、明確に城郭と判断する物証である。

以上がこの館の全貌であるが、さて、この館の目的は?
この命題がなかなか難しい。

尾根先端部に城を造る場合、城が想定する敵の方向は尾根先端方向であることが多い。
それは東の北塩子方面となる。その方向には上小屋館と北塩子城が存在する。
上小屋館までは約700mの距離である。果たして上小屋館、北塩子城との間に緊張関係が存在する時期があったのであろうか?

それなら、この館を造り、運用していたのは西側の野口、門井方面にいた者となる。
もし、そのような時期があったとすれば、至近距離で敵味方が入り乱れていた山入の乱の頃だろうか?
それは考えすぎであり、南下を通る街道の監視のための施設に過ぎないのだろうか?
@尾根北端の切岸はとても登れない。 A羽黒鹿島神社が建つ地は曲輪の跡
B南端の堀切。これが唯一の城郭と判断できる遺構。 C主郭なのだが・・篠竹が密集。矢竹用に植えたものか?

照田羽黒館(常陸大宮市照田)
JR水郡線は常陸大宮駅を出ると久慈川に沿って北上するのではなく、一度、北西部の旧玉川村に入り、県道102号線と平行して北上してから久慈川の谷に出るルートを通る。
この館は玉川村駅から約1.5q北上した線路の脇にある山にある。
水郡線、県道102号線の通る西側の谷筋以外の東側の岡は水戸グリーンCCに囲まれてしまっている。
山頂に羽黒神社が建つ標高105mの山が館跡である。

東側のみが尾根が続く、尾根末端の盛り上がり部にある。
麓に住まわれるFさんの話では、羽黒神社が建ったのは江戸時代になってからであり、当時は寺社混合状態。
麓の民家の地には寺があったそうである。
ここの字名を「堂山」と言うそうであるが、寺のお堂を意味しているとのことである。

城としての伝承は聞いていないとのことである。
神社以前の歴史は不明ということなので、そこは現地を見るしかない。

神社建設や社殿建築でかなりの改変を受けているようであり、麓から軽トラが登れる道が東にあり、社殿の建つ東側に平坦地がある。
しかし、その平坦地、どうも後世のもののようである。

南西側堀ノ内地区から見た羽黒神社 C羽黒神社参道、右の民家は寺跡

麓の標高が68mなので比高は37m。

その平坦地と社殿のある地を結ぶ道Aの脇に竪堀がある。
どうやら堀切を破壊して道を付けたもののようである。

社殿の地Bは18m四方の広さ、西下から南側を帯曲輪@が覆う。
社殿の場所からは4m下である。

@本殿の建つ場所の西から南を覆う帯曲輪 A東側の平坦地との間には竪堀が脇に残る。 B社殿のある地は18m四方と狭い。

そこから参道の石段沿いの途中に曲輪のような平坦地があるが、石段設置に伴うものかもしれない。
石段の西側に竪堀が下る。

また、社殿の地の北に2段の銃撃陣地のような蛸壺状の場所がある。
倒木でできたものにしては大きすぎる。

ここが館であると断言はできないが、館とすれば東の尾根続きを堀切で遮断した主郭と腰曲輪からなる北方向の監視と西下の谷筋の街道を監視する施設である。
東野城の付属施設の1つ、防衛網の1つの物見であろう。


照田館(常陸大宮市照田)
照田地区に「堀ノ内」という地名がある。羽黒神社がある照田羽黒館から水郡線、県道102号線を挟んで谷の南西側である。
地名からして館があったと思われる。この堀ノ内地区は現在、集落になり、館を思わせる場所が特定できない。
館跡遺構と推定される切岸状の段々はそこら中にあるのだが・・・。

そこで昔の航空写真を調べてみた。
終戦間もないころ昭和23年の米軍撮影の写真である。
当時は今ほどの家はない。
地形の改変も少ない。
その中で正方形に映る一角が認められた。
昭和23年米軍撮影写真 昭和50年国土地理院撮影写真

四角形で映るのはここだけである。
その現在の姿がこれである。↓

東側から撮った写真である。
堀跡は分からないが高さ2mほどの切岸は確認できる。
現地を見るとこの正方形の北側にも四角形で高くなっている場所(現在は畑)があり、そこを含めると広さは東西約50m、南北約90mの長方形である。
地形等から推察して、ここが「堀の内」の語源となった館跡ではないだろうか?

背後、西側が山でありその山麓である。
背後から襲われれば弱いが居住目的の居館ならこれでもいいのかもしれない。
現地の人に話を聞いていないので何とも言えないが、果たして伝承は伝わっているだろうか?


北塩子館(常陸大宮市北塩子)
城の名前は仮称である。
違う名前であり、北塩子館は上小屋館なのかもしれないし、他に存在しているのかもしれない。・・と言っても、戦国時代の城にはだいたい名前はない。
名前がついている城は、ほとんどは現代人が便宜上付けたものである。だから名前なんかどうでもよい。
でも、全部、無名の城じゃあ、HPの記事が作れない。

城のある場所は常陸大宮市文書館(旧塩子小学校)の南東、北塩子簡易郵便局の東の山である。
下の写真は北西側から撮影した館跡である。道路は国道293号線である。

上小屋館からは玉川を挟んで東側、直線距離で約500mである。

西下の国道293号線旧道脇から登れないことはないが、急勾配であり、しかも刈り払いが行われ、切り倒した木などで逆茂木状態で難儀する。
特に南側は石切が行われていた跡が崖になっており危険である。
郵便局裏付近まで延びた尾根から登るのがベストではないかと思われる。

そこを直攀した場所が主郭部である。
山の西側が急勾配なため、この方面には防御施設は不要である。
主郭部の標高は109m、下が63mであるので比高は約45mである。
遺構であるが、かなり曖昧である。
特に主郭の西側はだらだらした緩斜面である。

しかし、虎口と思われる場所は確認できる。
虎口であるが、南側の腰曲輪の東西に2か所@、Aあるが、西側@が本来のもののように思える。
ここを出ると犬走りが東西に分岐する。

@西側の虎口。ここを出ると犬走りが左右に分岐する。 A東側の虎口。竪堀状である。後付けの可能性もある。 B北東に延びる尾根にある堀切。

東側の虎口Aはしっかりしすぎており、後世のもの、あるいは改変を受けているのように思える。
元々は西側の虎口から延びる犬走りが東側の虎口の下に通じていたのではないかと思われる。
そこを登った先には窪みがあり、さらにその上にドーナッツ状の円形の土段の真ん中に穴が開いたものがあり、社か何かがあったような感じがする。
なお、逆に下って行くと、堀切のような場所Dに出る。
ここは通路になっており、東にある東金砂神社の社に通じる参拝路でもあるが、元々は堀切であり、それを利用したものかもしれない。

さて、遺構であるが、主郭部は東西約30m、南北約20mほどの楕円をしており、西側が約15mにわたり、2段ほどの緩い斜面になっている。
内部は藪状態である。
南側は約3mの段差を経て、幅約10mの腰曲輪になっており、この腰曲輪が東側に回り、さらに犬走りとなって主郭部を一周する。
南側の帯曲輪は刈り払いが行われており、すっきりしており、見晴らしも良い。
北西端からは尾根が郵便局裏側に下り、曲輪が1段ある。
犬走りのさらに1段下にも犬走りのような部分があるが、断続的である。

この城の比較的明確な遺構は北東側に続く尾根筋にある。
やはり、この城の一番の弱点は尾根伝いからの攻撃、それを意識してセオリーどおり堀切などで防御している。
主郭部の東には切岸が明瞭な2段の曲輪があり、さらに下に横堀が巡るが、規模は小さい。

どちらかというと横堀ではなく塹壕である。
尾根を下ると約50m先に幅6.5mの堀切Bがあるが、ここは鞍部に当たり道の切通しを兼ねたているようである。
さらに約30m先に少し登って行くと、直径約7mほどの平場があり、ここから北西方向に尾根が延びる。
その尾根の先には特段の遺構はない。
平場には何等かの施設はあったかもしれない。

C堀切越しに見た東金砂神社。ここは物見か。 DAへの登り口にある神社への参拝路。堀切利用か?

平場の東には幅約5m深さ約3mの堀切Cがあり、その先に東金砂神社の社がある。
この場所が城域の東端であり、尾根筋の見張り等の防御施設があったのであろう。
この先は尾根が東に続いて行く。
この城の整備度はかなり低く、戦闘を想定したものとは思えない。

眺望もよいことから街道筋を抑える目的及び小瀬方面からの狼煙リレーを東野城に伝える中継所であったのではないかと思われる。
城主としては上小屋館同様、横山、大越両氏が想定されるが、ここには居住性はない。
居館があったとすれば約700m南東の小割地区ではないだろうか。

上小屋館(常陸大宮市北塩子)

遺跡地図で場所が間違っていた館である。
遺跡地図でマーキングされた場所は本物の館のある山から市道を隔てて北側の山になっていた。

↑は北東側から見た館跡。右の杉林は間違って記載されていた岡。本物は左の山である。

当然であるが、そこは段々状の畑にはなっており曲輪の跡のように見えるが、明確な城郭遺構らしいものは確認されていない。

常陸大宮市中心部から馬頭方面に国道293号線を約5q北上すると、御前山方面に通じる県道161号線が北塩子三差路で分岐する。
そこを玉川を渡り、約300mほど西に行くと東西にピークのある上から見ると東西約300m、南北約150mの大きさの独立した瓢箪形の山がある。
地元では天神山というそうである。
その西側のピークが館跡である。
標高は97m、比高は約30mほどの低くて緩やかな山である。


↑はYahoo地図から。左の林が館跡。

この館の存在については地元の人からあの山に城があると教えてもらったことによる。
そこで東側から突入した。
東側は段々状の畑になっており、マーキングを間違えていた場所と似たような感じであったが、山頂部は何もなし。

空振りかと落胆する。
さらに西に歩くと植林された鞍部に出る。
ここは植林のため改変されている感じがある。

さらに西側のピークに登って行くとやはり段々状になっている。
しかし、山頂部付近はちょっと違う。
切岸がしっかりしているし、土塁のようなものもある。

城郭遺構を探すと堀切のような場所が山頂部南側にあり、さらに西に行くと小さいながらも土橋を持つ深さ2mほどの堀切があった。
これにより城郭であることが確認できた。

館の概要は「なると」のような形をした山の山頂部に約15m四方の低い土壇があり、ここが中心部である。おそらくここに天神社があったのだろうが、その痕跡はない。

その周囲に幅10〜15mの曲輪を巡らし、北側には1段帯曲輪が巡り、東側の帯曲輪に合流する。東側にはさらに3mの段差を置き2段の帯曲輪があり、植林された場所に下る。

山頂部の南側に埋もれた堀切があり、西側に竪堀が下る。
その南西側に尾根が延び、内部が平坦になっている。
堀切から約35mほど行った場所に先に書いた土橋を持つ堀切がある。
←の写真。

その西側に約10m四方の小さな曲輪があり、その先は比較的広い尾根が下るだけである。
南側にも遺構はありそうだが、十分には確認できなかった。
総じて、この程度の簡素で小規模な防御施設では戦闘ができるものではない。

瓢箪状の山の西側のピークに城郭遺構があるので西側の御前山方面を監視するだけの機能を持った館と言えるだろう。

この北塩子には横山、大越という2名の領主がいたという。
横山氏の城が北塩子館と伝えられる。
そのどちらかの者の城と思われ、ここが北塩子館であった可能性もある。
この山の南側、植林された鞍部、または東側は居館が存在していても納得できる場所である。
しかし、肝心の防護施設がこの程度のものでは心元ない。
東にあるもう1つの城の支城、あるいは南にあるこの地区の拠点城郭、東野城の支城の可能性の方が大きいのではないだろうか?